夏の猛獣 −3−


 高い鳥の声のような音で、イーヴァルは目を覚ました。夜は明けているようだが、まだ早い時間だ。
 はっと傍らをまさぐったが、わずかな温もりが残るシーツの感触だけで、ともに眠ったはずの伴侶の姿がない。ベッドを抜け出されたことに気が付かないとは、昨夜は楽しみにしていた休暇にはしゃぎすぎたようだ。
 イーヴァルがベッドから飛び起きてシャツを身につける間にも、外が騒がしくなっていく。
「なにがあった?イグナーツは?」
 寝室の扉を開け、こちらも戸惑いがちな表情から慌てて敬礼をする不寝番に問いただす。
「不審者が敷地に近づいたら射る鏑矢の音です。イグナーツ様は散歩に行かれました。いい天気だから庭に出てみると・・・・・・」
「供は?」
「一緒に不寝番をしていた者が付いて行っております」
 それならば、まず心配はいらないだろう。イーヴァルはイグナーツが城の中で迷子になることは心配したが、戦闘力に関しては全面的な信頼を寄せている。ロサ・ルイーナには及ばずとも、城の騎士と対等に渡り合える上に、不意打ちや奇襲などを含めた防衛戦に関する心構えと技量は、本職の暗殺者を食い止めるほどだ。
「わかった。あいつのことだから野次馬をしに行くに違いない。予も行こう。ここは任せる」
「はっ」
 イーヴァルは薄手の上着をひっかけ、慌ただしく武器を持って駆ける衛兵たちの向かう方へと足を向けた。
 フリゾリート城は城館であって、街を抱え込んだ城郭ではない。ただし、その敷地は広く、マール湖に直接降りられる埠頭をも完備していた。
 イーヴァルは驚く使用人や衛兵たちに生返事をしながら、自分の脚で庭を横切り、埠頭へ続く階段を降りて行った。その先には、船が繋がれた桟橋と、岸壁が連なり、怒鳴り声をあげる衛兵たちが走り回るほかに、小さな人だかりができていた。その人だかりの中に、鮮やかな山吹色のショールが見えた。
「イグナーツ」
 すらりとした体の若者が振り返るのとほぼ同時に、人だかりを形成していた衛兵たちが整列して、イーヴァルのために道を開けた。
「オハヨ」
「予に黙って寝所を抜け出すとはいい度胸だ」
「まだ早かったから、起こしちゃ悪いと思ってさ」
 肩をすくめたイグナーツが、微妙な作り笑顔をしていることにイーヴァルは気が付いた。イグナーツは喜怒哀楽を素直に表現する方で、こんな顔をするのは珍しいことだ。
 ふい、と首を振ってイグナーツが促し、イーヴァルは衛兵たちが作った道を進んだ。
「何事だ」
「はっ、城の敷地に、マール湖から侵入しようとした子供を捕らえました」
「子供!?」
 眉根に力がこもったイーヴァルに、報告した兵士はさらに背筋を伸ばした。岸に引き上げられ、兵士たちの槍に囲まれている二人の男児は、確かにずぶ濡れだが、日に焼けて健康そうではある。十を超えたくらいの少年と、それよりも小さい少年・・・・・・もしかしたら、兄弟だろうか。ふてくされた顔には、あまり恐怖を感じていないようだ。
「達者な泳ぎをしていたので、おそらく、ドミロナの町に住む漁師の子かと思われますが・・・・・・」
「漁師ならなおさら、城との境も知っているはずだ。なるほど・・・・・・」
 知っていて、侵入したのだ。
「ほかに不審者が入り込んだ形跡は?」
「ただいま捜索中ですが、いまのところ見つかっておりません。また・・・・・・子供の言い分ですが、自分たちだけで来たと」
「ふん」
 子供をおとりに、大人の刺客が入り込んでくる可能性は高い。しかし、皇帝自身にも土地勘のある直轄領で、わざわざ狙ってくるだろうか・・・・・・。
「それらしいのは見当たらないなぁ。いま正門を突破されたとか言われても、俺にはわからないし」
 小声で話しながら横に並んだイグナーツが、先ほどと同じ作り笑顔のまま、顎をしゃくった。どうやら、イグナーツを相当怒らせることを、この子供たちは言ったようだ。イーヴァルは歩みを進め、地べたに座り込んでいる子供たちを見下した。
「予がベリョーザ皇帝、イーヴァルだ。直に返答する無礼は許す故、正直に答えよ」
 ぽかんとした表情は年相応の子供らしいものだったが、すぐに、ぎょっとするほどの悪相を作って睨み、唸り声をあげた。
「ふむ、気概は及第点だが、芯の無い上辺だけというのがそそらんな。それで・・・・・・何用で参った?予に何事か用事があったのではないか?」
 威嚇に対し、恐怖も嫌悪もあらわさないどころか、ほとんど自然にスルーしたイーヴァルに、またもやぽかんとなった子供たちは顔を見合わせ、それが標準表情なのか、ふてくされたようなものになった。
「用なんてないよ!皇帝はラズーリトに帰れ!」
「そうだそうだ!」
 あまりの無礼に、周囲の兵たちがざわめき立ったが、イーヴァルは軽く手を上げることで静めた。
「ここに予がいてはならぬと言うか。フリゾリート城は、予の所有物のはずだが?」
「マール湖は俺たちの物だぞ!」
「俺たちの物なんだから、皇帝は来るな!」
「このガキ・・・・・・!」
 兵士たちのぎりぎりと食いしばった歯の間から思わず漏れたであろう小声もイーヴァルには届いたが、それよりも納得した自分の心の声の方が大きかった。
(これのせいか)
 ベリョーザ帝国は、その国土も富も人民も、すべて皇帝の所有するところだ。人民は皇帝の臣民であり、皇帝の庇護のもと、皇帝が所有する土地にて生計を営むことを許可された者である。それが常識であり、そのように教育されている。
 ところが、なんの心得違いか、この子供たちにはその認識がない。しかも、彼らが住まうドミロナの町は、帝室の直轄領である。子供の認識が不敬なのは、それを教育する大人の認識も不敬であるからだ。このことを鑑みるに、ドミロナの町自体が、皇帝を軽視していると解釈されるのが自然だ。
 イグナーツが激怒したのは、このせいだ。
「そなたらの言い分はよくわかった。しかし、広いマール湖をよく渡ってきたものだ。よほど泳ぎに自信があるのだな」
「あの辺までいつも舟で来てるもん」
「そこからこっちはねえ、舟が通れないようにしたってとーちゃんが言ってたから、泳いできた!」
「丘は見張りがいっぱいいたから」
 ねー、なー、と顔を見合わせる子供たちに、イーヴァルはひとつうなずいた。
「遠路ご苦労だったな。ここからそなたらだけで町に戻るのも骨だろう。迎えの馬車を用意させるゆえ、それまで城でゆるりと朝食でも取っていけ」
 ぱっと笑顔になった子供たちは、本当に害意などはない、無駄に行動力のある悪童だった。しかし、その背後関係には十分注意が必要だ。
 イーヴァルはフリゾリート城に連れてきた侍従長にいくつかの指示を与えて子供たちを任せると、イグナーツの腰に腕を回して歩き出した。
「朝っぱらから騒々しいことだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「そう怒るな。お前がブチキレていたら、俺が怒れないではないか」
「・・・・・・ごめん」
 途端に申し訳なさそうな顔になったイグナーツの頭を撫で、イーヴァルはため息をついた。
「しかし、どうしたものか。今日はマール湖に舟を・・・・・・」
 話している最中に、背後から大きな水音と、続いて安否を確かめる大声が響き、振り向いていた二人は顔を見合わせた。
「つまり、安全が確認されるまでは、舟遊びは延期だ」
「舟が出せないの?」
 エントランスに向かってゆっくり庭を横切りながら、イーヴァルは湖沼にあまりなじみのないイグナーツに説明した。
「海で船に乗った経験のあるお前なら知っていると思うが、船底は水面の下にある。そして、大きな船ほど、水面下に船体が沈んでいないと安定しない。沈みすぎると沈没するが、浮きすぎると風の影響もあって舵が効きにくくなる。これはわかるな?」
「うん」
「マール湖では魚が獲れるが、生簀で養殖を営む者もいる。おそらくその技術で、水中に仕掛けをされたのだ。さっき、あの悪童たちが言っていただろう」
「父さんが舟で行けないようにした、って・・・・・・そうか」
 湖で漁業に使う舟は軽くて吃水が浅いが、遊覧目的の舟は小型でも装飾過多であり、それでいて転覆しないように重く作ってある。警備用の舟も装甲を厚くしてあるから重い。吃水が深いのは当たり前だ。
 彼らの漁船でも避けにくいのに、あちこちに暗礁が出来ているようなところへ他の舟で行くのは無理だ。フリゾリート城近くの水域には、通常重い舟しか航行しないはずで、悪意があるのは間違いない。
「なんて酷い悪戯を!」
「ふむ、悪戯ですんでいるのが・・・・・・どうも解せんのだが」
 イーヴァルが泳げなかったら皇帝暗殺になりかねないが、足のつかない水深でもしばらく浮いていられるほどには心得がある。たとえ水中に落ちても、常に近くにいる警備の者がすぐに助ければ、おぼれ死ぬことはないだろう。
 イーヴァルは思案に沈みかけたが、相変わらずぷりぷりと怒っているイグナーツに、苦笑いをこぼした。
「さっきからなんだ。お前がそこまで怒るなんて、珍しいこともあるものだ」
「あったりまえじゃんか!」
 イーヴァルに自分が怒れないと言われて遠慮しているのか、声こそ大きくなかったが、イグナーツはイーヴァルを見上げて強く言った。
「イーヴァは皇帝として、毎日しっかり仕事しているんだぞ。国民のことを考えて、一生懸命、毎日毎日・・・・・・それなのに、たまの休みに、せっかくのバカンスなのに、あんなこと言われて、そのうえ悪戯まで・・・・・・!」
「ああ、わかった、わかった」
 このままではイグナーツがあの悪童たちと同レベルで言い合いの喧嘩を始めそうな気がして、イーヴァルはイグナーツの頭を抱えて、額同士をくっつけた。
「お前は優しいな」
「ッ!もう!」
「この件に関しては、お前はもう関わるな。お前の機嫌を悪くするようなものは遠ざけたい」
 まだ納得できなさそうな顔だが、イーヴァルにこの話は終わりだと言われて、イグナーツも不承不承うなずいた。
 涼しい高原の朝でも、十分に体の温まる朝食をとって笑顔が戻ってきたイグナーツに、イーヴァルは舟遊びの代わりに、馬でピクニックに行くことを提案し、快く受け入れられた。