狂犬と子猫 −1−


 特に買いたい物があるわけではなかったが、ぶらりぶらりと露店をひやかしながら、クラスターは首都の南門までやってきた。
 どこか狩りに行こうかと、行き先を考えもしたが、春のぽかぽかした陽気に、眠気を誘われてもいた。
(・・・帰って昼寝しよ)
 そう思ってペコペコを方向転換させたとき、視界の端に映った人影に、ざわりと髪が逆立つのを感じた。
 ニタリ、そんな笑い方をしていると、本人は気づいていないだろう。

 最近、妙な視線は感じていたが、今日も人ごみの中から注視されている気配に、さすがに気持ち悪くなって、まだ昼間だというのに早々に店じまいをしてしまった。
(お姉ちゃんたち、早く帰ってこないかなぁ・・・)
 丸太のカートを牽きながら、みつきはうつむき加減なまま、それでも足早に自宅に向かって歩いた。
 姉たちがいれば、変質者やストーカーなんてものは、すぐに退けてくれるだろう。だが、忙しい彼女たちは、ギルドに入りびたりだったり、遠くの土地に行っていたりで、ほとんど家には帰ってこない。
 ガラガラと車輪の音が響く石畳に、自分以外の影が見えて、みつきは後ろを振り向かずに駆け出した。
(やだ・・・怖い!怖いよ!!)
 ばくばくと心臓が早打ち、冷や汗が流れる。追いかけてくる足音が聞こえて、もう泣きそうになった。
 しかし、このまま家に帰れば、不審者に住所を教えてしまうことになると気づいて、愕然となる。
(どうしよう!?)
 膝下丈のスカートは走りにくかったが、懸命に足を動かして、自宅へ向かう角を通りすぎ、その二つ先の路地へ飛び込んだ。
 武器は護身用の短剣が一振りだけ。カートの中には、もっと強そうな武器も防具もあったが、みつきに扱いきれるものではなかった。
 自分を追いかけるのは誰なのか、なんの目的があるのか。怖かったが、頼れる人がいない以上、自分で何とかするしかない。
 角を曲がって現れた三人の男に向かって、みつきは渾身の力でカートを牽き回した。
「カートレボリューション!!」
「うおっ」
「ぐあっ!」
 先頭を走っていた、ナイトらしい一人にはクリーンヒットした。しかし、ローグにはバックステップでかわされ、最後尾のウィザードにはかすりもしなかった。
「おっかねー」
「な・・・なんなんですか、あなたたちはっ!」
 声も膝も手も震えていたが、みつきは短剣を構えて威嚇した。自分の身は自分で守らねば。
「そんなに怒るなよ。可愛いマチャ子がいるっていうから、デートのお誘い」
 ローグはへらへらと笑って言うが、まったくもって信用ならない。ナイトやローグとの間合いは、みつきの方がほんの少しだけ有利だ。しかし、ウィザードの魔法からは逃げられるだろうか?
 じり、と下がりかけて、カートを引く手を押さえつけられた。
「あっ!」
 壁際まで吹っ飛んだと思っていたナイトが、みつきの手を押さえていた。すぐに短剣を繰り出すが、あっさりと盾に防がれてしまった。
「いってぇな。骨折れちゃったかもよ?」
 そういう割には元気そうである。さすがに鎧を着たナイトには、みつきの腕力程度では威力が弱かったか。
「放してっ!」
 ぶん、と再び突き出した短剣が空を切り、みつきはたたらを踏んでしまった。
 あっさりとみつきを放したナイトは、他の二人と一緒に素早く路地の向こうに姿を消してしまった。舌打ちした顔が、みつき以上に恐怖を貼り付けていたのも気になる。
「ふん。なんだ、もう終わりか」
 まるで鍛え抜かれた刀身のような声音に、みつきは全身が総毛立つ様な思いがして振り仰いだ。
 清冽な青味を帯びた、力強い光に目がくらむ。そのオーラは、みつきにとって天上の神々と等しい。
 長い黒髪を背に遊ばせたままのロードナイトが、完全武装したペコペコの上から、逃げた三人が消えた角を見つめていた。
「敵対ギルドの同盟だと思って追いかけてみれば、とんだ腰抜けどもだ。つまらん」
 シャープな顔立ちに、獰猛かつ不機嫌な表情を浮かべた男のギルドフラッグを見て、みつきはぺたんと座り込んだ。姉の一人が所属するギルドの人間だった。
「うっ・・・ありがとうございますぅ」
 礼すら上手く言葉になったかわからない。みつきは声を上げて泣き出した。

 別に助けたつもりはないので、礼を言われる筋合いはない。どちらかというと、ギャラリーとしては、もっとやりあって欲しいぐらいだったのだが・・・。
「泣くなっ!俺が泣かしているみたいじゃねぇか」
「ふえぇっ・・・ひっく・・・ご、ごめんなさ・・・」
 丸い黒髪頭に、黒い猫耳のカチューシャをしているマーチャントは、涙でべしょべしょになった大きな目で、クラスターを見上げてきた。
 まるで子猫のような、青い真ん丸目玉に、クラスターは内心唖然とした。めちゃくちゃ好みだった。対等に付き合う女としてではなく、ペットか、生きたアクセサリーか、そんなものでの話しだが。ただまあ、顔はもちろん可愛いし、年の割に体つきも悪くなさそうだ。
 しかし、その面影は妙に見覚えがあった。
(・・・どこかで?)
 商人なのだから、露店を出しているのを見かけたのかもしれない。
(まあいい。せっかく目の前に転がってきたんだ)
 美味しくいただいてしまおうと、ほくそえむ。
「ほら、送ってやる。どうせ近くなんだろ」
 騎鳥から身を乗り出して、細い腕をつかんで立たせようとした。しかし、思いもよらず、引き上げかけた女マーチャントは抵抗を見せて再び座り込んだ。
「やっ・・・ぁ」
「?」
 一瞬見えた、石畳の濃い影と、小さな、濡れた音。
「・・・まさか、漏らしたか?」
 完熟トマトのように真っ赤になった顔を伏せ、小さな肩が震えていた。彼女が握り締めたスカートに、ぽたぽたと、涙がしみを作る。
「ひっく・・・だって、すごく・・・こ、怖かったんだもん!」
 なにかが、クラスターの中でぷちっと切れた。
 これでも『狂犬』と恐れられている。それほどの強さは自負していたし、その二つ名に恥じないよう、誰に対しても手を抜いた戦いをしたことはない。
 だからこそ、そのクラスターを前にして安心し、クラスターよりはるかに格下の相手を怖がった女マーチャントが許せなかった。
(俺の方が怖いに決まってんだろう!!)
 まったくもって、けしからん。このちんまいマーチャントに、きちんと強さを見極めさせ、自分のほうが恐ろしいのだと、そうわからせてやらねば気がすまない。
 クラスターは吊るした剣を鞘ごと引き抜くと、マーチャントに狙いを定めた。
「ひあぁっ!?」
 首の後ろから背をこすっていく固い感触に、マーチャントはびっくりして顔を上げる。ベストの襟から裾へと剣を抜きとおし、そのまま手首を返して持ち上げる。
「あのっ!あのぉ・・・きゃあっ!」
 服が破れないように立ち上がりつつ、じたばたともがく姿が、非常に可愛らしい。
「このままウチまで持って帰るか」
 それもいいな、と思うが、とりあえず着替えさせてやらなくては。
「いつまでもこんなところにいると、漏らしたのがお前だとばれるぞ?」
「ううっ」
 きちんと両足で立ったのを確かめてから、クラスターは剣をベストから引き抜いてやった。
「お前の家はどっちだ、小娘」
「こ・・・みつきです。小娘じゃありません」
「ビビって小便漏らすガキなんて、小娘で十分だ」
「うきゅぅ・・・」
 また泣きそうになりながらも、みつきはカートを牽いて路地を歩き出した。
 その後を、クラスターはニヤニヤしながら付いて行く。クラスターは媚びてくる者は嫌いだったが、ひ弱でもきちんと自分の足で立って話せる者は好きだった。

 古い家だったが、みつきが住んでいるのは一軒家だった。家族で住んでいた時には手狭にも思えたが、一人で住むには広すぎる。
「えと、ペコペコはあっちに繋いでおく所があるんで。すみません、ちょっと着替えてきます」
 玄関の鍵を開けると、みつきは一目散に自分の部屋に飛び込んで、クローゼットを引き開けた。
 とにかく濡れた下着が気持ち悪かったので、どれにしようかなんて選んでいられない。適当にひっつかんで、そのまま風呂場に駆け込んだ。
「もうっ、なんでこうなるの!」
 恥ずかしさに、また涙がこみ上げてくる。よりによって、男の人に粗相をしたところを見られてしまうとは。
 助けてくれたロードナイトの容姿を思い出し、みつきは顔が熱くなるのを感じた。結っていない長い黒髪や、妙に騎士らしくない鋭い眼光とか、かっこいいと思う。悪魔の羽耳が、よく似合っていた。
 手早く服を脱ぎ、汚れた下着を屑篭に放る。お気に入りの、可愛いピンクの下着だったが、仕方がない。例えきれいに洗ったとしても、見るたびに恥ずかしい記憶を思い出させる物は勘弁してもらいたい。
 お湯を沸かすような時間はないので、水で股間や脚を洗い流す。冷たかったが、文句を言う相手は自分でしかない。
 清潔になってやっと一息つくと、自分が持ってきたきれいな下着に、にっこりと微笑む。慌てて持ってきたわりには、いいものを選んだようだ。肌触りの良いクリーム色の下着には、こげ茶のテープを組み込んだ白いレースがあしらわれている。
 居間からの物音に、ロードナイトを待たせていることを思い出して、みつきは急いで身支度を整えた。最後に泣きはらした顔を冷水で洗って、乱れた前髪を鏡の前で整える。
「よし」
 どんな顔で戻ればいいのかわからなかったが、とりあえず、香りの良いお茶とクッキーを用意しようと決意した。

 家の大きさのわりに、生活感のある場所が限られており、みつきが実質一人暮らしなのだと、クラスターはすぐに見抜いた。マーチャントには関係のない家具や日用品もあるので、おそらくは別の職業についている家族がいるのだろう。もっとも、あまり帰ってきてはいないようだが。
(ふむ、ということは、アレを喰っちまうのがゴロツキだろうと俺だろうと、文句を言う奴はいねえってことだ)
 彼氏などという存在は、最初から頭にない。いても黙殺する。というか、いたら物理的に殺す。みつきはクラスターのものだということは、すでに決定済みの予定的事実なのだから。
 鎧を脱いで身軽になると、でっかいムカーのぬいぐるみが転がっているソファに身を投げ出した。視線の先にあるサイドボードには、メタリン型の貯金箱が鎮座している。見るからに重そうで、盗もうにもためらうだろう。
 クラスターは、この家に住んでいる家族のセンスに苦笑いをした。
「お待たせしました」
 両手で持った盆の上に、ティーセットとクッキーが盛られた皿が見える。
 服は着替えても、相変わらず黒い猫耳のカチューシャが、みつきに良く似合っている。少し緊張しているようだが、もう泣き顔ではない。
 カップに慎重に紅茶を注ぐと、「どうぞ」とソーサーごとクラスターの前に置く。その手は、剣を握るにはあまりに柔らかそうだ。
「あれはなんだ。いつも追いかけられているのか?」
「え・・・あ、その・・・最近です。誰なのかも、知りません」
 暗い影の落ちた表情に、また恐怖が踊っている。
「ふん・・・CRは、もっと引き付けてから撃つべきだ。あと0.5秒も待てば、ローグも引っかかったはずだ」
 クラスターを見上げる目が、また真ん丸になっている。
「殺意のないナイトの初撃ぐらい、かわせるだろう?」
 少し考えて、みつきは頷く。
「それから、もっと吹っ飛ばす側の壁際に寄れ。捕まえたら、全身の骨が砕けるまで、徹底的にぶちのめせ。カートを見たが、あれじゃ軽すぎる。中に詰めるのは何でもいい、常に満載にしておけ」
「は、はい・・・」
「最後に、後ろにいたウィズだが・・・」
 瞬きもせずに見上げてくるみつきの頬に、クラスターは手をかけた。柔らかくて、簡単に傷つきそうだ。だが、このひ弱な生物を傷つけていいのは、持ち主たる自分だけだとも確信している。
 化粧気のない、みずみずしい唇に吸い付いた。
「お前は、無防備すぎる」
 呆然としているみつきを、クラスターは簡単に組み敷くことができた。