気高き獣 −3−


 イグナーツのために用意された部屋が妙に豪華だったのは、そこが元々はイーヴァルのたくさんある私室の一部だったからだ。イーヴァルはあっても使っていなかったとイグナーツに言ったが、寝室の隣に空きを作っておくのはあまり理にかなわない。ずっと前からイグナーツの部屋にするつもりだったのは、誰の目にも明らかだろう。
「なあ、あんなんでよかったのか?」
「なにがだ」
 少ない荷物を運びこんでもらったイグナーツが、続きの部屋にある長椅子で寛ぐイーヴァルにたずねた。
「謁見場だよ。ちゃんとかしこまった方が、印象良かったんじゃね?」
 イグナーツはラダファムの従者であったことからもわかるように、王族に対するきちんとした礼儀やマナーは心得ていた。だがその前に、イーヴァルから無礼講であるから、必ず素の態度であるようにと、手紙で指示を受けていたのだ。
 侍従たちが私室から退出するのを見届けてから、イーヴァルはイグナーツを見上げた。
「俺以外に束縛されるもののないお前が、あやつらと同じフィールドに立つ必要はない。なまじ俺に膝をつくと、格下扱いされる。そんなことは許さん」
 家臣たちとイグナーツとを扱いを含めてきっちり分けたことか、それとも砕けた自称を使ったことに驚いたのか、目を見張ったイグナーツに、イーヴァルは自分の意見を続けた。
「それよりも、自分たちの常識が通用しない相手だと思わせた方が、余計な干渉をしてこないだろう。あとから個別に嫌がらせを受けるよりも、先に手を打っておくのが上策だろう」
「ふーん、そういうもんか」
 イグナーツは首を傾げたが、たしかにその可能性はあると、納得したようだ。
「そんなことよりも」
「なんだ?」
 イーヴァルに手招きされて、イグナーツはイーヴァルの前に立った。
「・・・・・・なぜ座らん」
「・・・・・・・・・・・・」
 少しためらってから、遠慮がちにイグナーツはイーヴァルの隣に座った。しかし、すぐにイーヴァルの手がイグナーツの顎を捉え、イグナーツの身動きを制限した。
「っ・・・・・・」
「狡猾なのは相変わらずだな。言いたいことがあれば、言えばいい」
「言って良いことと悪いことを区別できるようになるのが、大人になった証拠だって習ってな」
「使い方を間違えているぞ。お前の沈黙は、一時的な保身の為だ」
 イーヴァルに見つめられても伏し目がちなイグナーツに、イーヴァルは侮蔑を込めて微笑んだ。
「いま俺が跪けと言ったら、ここで跪いたな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「愚か者が」
 ぱしっと軽く頬を叩かれてうつむいたイグナーツに、イーヴァルはいらいらとため息をついた。
「謁見場での姿は演技か。失望させるな」
「だって・・・・・・」
 思わず言い返しかけたイグナーツだが、唇を噛み、打たれて赤くなった頬を手で拭った。そのイグナーツの手をイーヴァルが掴み、無理やりイーヴァルに顔を向けさせた。
「言いたいことがあれば言え!俺をいらつかせるな!」
「だって・・・・・・っ」
 声を擦れさせたイグナーツの顔が少し上がり、がっちりと握りしめていたイーヴァルの手が少し緩んだ。それでもイーヴァルを避けるように伏せられた切れ長の目から溢れた涙が、赤くなった両頬を伝ってぼろぼろと零れ落ち、イグナーツの膝に模様を描いた。
「・・・・・・っ、だって、俺・・・・・・は、っ・・・・・・ちゃんと・・・・・・」
「ちゃんと、なんだ?」
 イグナーツが何度も息を詰まらせながら泣くのを、イーヴァルは言葉になるまで辛抱強く待った。以前、同じように泣かれた時は、お構いなしに凌辱したものだが、その後の気まずさと後悔をも学んだ。
「っ・・・・・・、俺、はっ、まだあんたに・・・・・・好きだって、言ってもらってない!」
「・・・・・・は・・・・・・?」
 思わず聞き返したイーヴァルの声が、あまりにも間が抜けていたせいか、大きく息を吸い込んで何かを言いかけたイグナーツも、びっくりしたようにイーヴァルを見つめてきた。
「え・・・・・・?」
「そんなこ・・・・・・いや、そう言われてみれば・・・・・・そうだった、か?」
 十五年前のあの時は、傷めつけられすぎたイグナーツは寝込んでいたし、イーヴァルは老獪な大人たちを相手に丁々発止な外交展開で忙しかった。そしてその後は、もうすっかり自分のものという認識だったから、好きとかそういう表現は形骸化した凡庸なものという感覚で・・・・・・。
「だが、お前は言われなきゃわからんのか」
「え?」
「毎年、事のたびに文を出してやったというのに、俺の好意を疑うとは無礼にもほどがある」
「あ、あれはイーヴァの持ち物だっていう自覚を薄れさせないためじゃなかったのか!?返事書かなきゃいけないからベリョーザ語を習ったけど、それだっていつかベリョーザに行く為だと・・・・・・」
 心底驚いたという態で見上げてくるイグナーツに、イーヴァルは言葉が見つからずに、大きなため息をついた。
「このたわけが」
「え・・・・・・?えぇっ、俺が悪いの?」
「はぁ・・・・・・こっちへ来い」
 イーヴァルはため息交じりに手を取って立ち上がらせ、イグナーツを自分の寝室へとひっぱっていった。
「これを覚えているか?」
 そこには、繊細な彫刻の額縁に入れられ、壁に飾られた肖像画が一幅。
「っ・・・・・・!!これっ!これええええええええっ!?」
 ぎゃああと悲鳴を上げて、イグナーツは絵が掛けられた壁の前でもだえた。そんなに自分の肖像画が珍しかったのだろうか。
「なんでこんなものがあああああああああっ!!」
「わざわざミーシャを送り込んだだろう。我が国一番の画聖に依頼したからな。国宝級だ」
「ふぁあッ!?ああ、ええっ!?あのおっさん、そんなにすげー画家だったのか!?」
 ひたすら驚くイグナーツに、イーヴァルは黙ってうなずいた。イグナーツにしてみれば、イーヴァルの面倒くさい要求に応えつつ、ネイティヴなベリョーザ語の練習相手だったのだろう。
 十五年前の事件のしばらく後、イーヴァルはイグナーツに会えないストレスから、ベリョーザで指折りの画家を雇い、エクラ王国へと派遣した。そして出来上がってきたのが、大人でも一人で抱えるには大変な大きさのキャンバスに描かれた、沐浴中の少年裸像だった。イーヴァルの要求通り、水滴が伝う白い肌に焼き印がくっきりと描かれており、陰のある伏し目はそれだけで色気十分だ。ベリョーザでよく見られる、厳しい風土を背負ったような重厚な画調ではなく、透明感のある光と瑞々しさに溢れた・・・・・・そう、十五年前にイーヴァルが見た風景によく似た、薫風を感じるような絵画だった。
 絵の中の少年を痛めつけることを夢見ながら、溶岩のような若い情欲を滾らせたことは数えきれない。その度に、重罪人が処刑前に死んだり、見目のいい少年の精神が崩壊したりしたが、それはたいしたことではない。
「どれだけお前を待っていたか、わかったか」
「うぅっ、わかった、わかったから、これ外そう?な?」
「まあ、よかろう。こうして、本物が手に入ったことだしな」
 男にしては細い身体を腕に収め、泣き止みはしたが羞恥に紅潮した情けない顔を上向かせて口付けた。
「・・・・・・・・・・・・」
「絵は明日にでも、帝都美術館に収めよう」
「ぇ、ええっ!?やめっ、やめろ!他の人に見られるなんて、もっと恥ずかしすぎる!!」
 ぽかんとしていたイグナーツが、エクラ語混じりに慌てて抗議したので、よほど恥ずかしかったのだろう。
 イーヴァルとしては自分の獲物を、子子孫孫、末永く自国民に自慢したいが、自分以外の人間に見せて魅入られ、盗まれでもしたらそれはそれで腹がたつ。まして、売買の対象になどされてはかなわない。ここは恥ずかしがるイグナーツの要求通りに、宮殿の宝物庫で永く眠ってもらうしかないだろう。
「ククッ・・・・・・わかった、わかった」
「あーうー・・・・・・」
 興奮しすぎてビーツのように赤くなったイグナーツを、イーヴァルは踊るように歩かせて、自分の豪奢なベッドの上に押し倒した。
「さて、十五年分の欲求を満たしてもらおうか」
「・・・・・・やっぱりやんのか」
「不服か」
「いやまぁ、わかってたけど・・・・・・」
「はっきり言え」
「・・・・・・じゃあ、言うぞ?」
 涙の痕も赤い頬もそのままに、一瞬視線をそらせたイグナーツが溜息をついて、もう一度イーヴァルを見上げ、やはり恥ずかしげにうつむいた。
「もう一回キスしろ。あんたからの初めてのキスがあれじゃ、まだ全然足りない」
「・・・・・・」
「それから、前回みたいにボロボロにされちゃ、俺がもたない。あんたがやりたいなら、痛いのも我慢するけど・・・・・・加減ぐらいしろ」
「・・・・・・」
「俺は・・・・・・これでも、あんたが好きなつもりだ。本当に嫌だったら、ここに来ない。・・・・・・顔なんて忘れたと思ってたのに、懐かしいって思っちゃってさ」
「・・・・・・」
「何とか言えよ!」
 また顔を赤くして騒ぎ始めたイグナーツを見おろし、イーヴァルは互いに離れていた間の感慨と、十五年前の軽率さに改めて後悔が胸に沁みた。
「イーヴァ」
「あのときのやり方を、俺はいまでも正しいと思っている。だが、お前に対してはやり過ぎたと後悔した」
「・・・・・・」
「死なせない自信はあったし、どうせ俺のものである事実には変わりないと。それが・・・・・・どうだ。結局、十五年も待つはめになった」
 その十五年が、イーヴァルを成長させ、イグナーツの心身を癒し、互いの溝を埋めるために必要な期間だったとしても。二人の周囲が、並々ならない環境と状況であり、二人の立場だけではどうにもできない現実だった。
「ただの十五年ではない。所有したはずのものが手元にない、初めて手に入れた光が閉ざされた、屈辱と退屈の十五年間だった」
 本当は、どこかで怖がっていた。イグナーツがイーヴァルを選ばないのではないかと。フビ国第四王子と従者の信頼関係は厚く揺るぎなく、国際情勢はいつどのように激変するかはわからない。絶対的な権力を有してはいたが、好かれるようなことをしていない自覚はあった。それでも、イグナーツはイーヴァルのところへ来た。
「これからベリョーザは冬だというのに・・・・・・クククッ、わが世の春とは、このことだな」
 呆れたように見上げてくるイグナーツに、イーヴァルはもう一度軽く口付け、そのまま細い肩を抱きしめた。
「安心しろ。昔のようにはしない」
「イーヴァ・・・・・・」
「十五年かけて、俺の腕も上がったからな」
「・・・・・・え?」
 イーヴァルは湧きあがる笑みを堪え、イグナーツの耳に舌を這わせた。