気高き獣 −1−


 北の大陸に横たわる大国、ベリョーザ。
 国土の大半が農耕に向かない寒冷な土地である代わりに、深い森林と膨大な鉱山を有する資源国である。畑からは大麦や芋などが収穫されるが、牧畜からの食肉加工や皮革毛糸産業が盛んであり、並んで重工業や手工芸も同国を代表する産業だ。名物としては、非常に強い蒸留酒であるベリョーザ酒が有名だが、木材や琥珀、石炭、石灰岩、鉄鉱石、毛織物、乳製品なども、周辺各国に輸出されている。また、いまだ知られていない莫大な宝石の鉱脈や金脈が眠っているのではないか、とも言われていた。
 その広大な国土を統治しているのは、三十代に入ったばかりという若さの皇帝。驚くべきことに、彼が至高の冠を頂いたのは、わずか十七歳の時だった。怜悧な頭脳と大胆な実行力を持つ彼を、国民は力強くはばたく姿に例えて、国外の人間は黒い翼を広げて捕食する姿を例えて、「レイヴン」という異名をもって讃え、そして畏怖していた。
 ベリョーザの輝く子、酷薄な捕食者、凍土の黒き獣・・・・・・。帝都ラズーリトに居を構える漆黒帝イーヴァルは、今年の冬で三十二歳を迎えることになっている。

 「黄金羊、帝都到着」その報せを、朝食を兼ねた会議で受け取ったイーヴァルは、珍しく目元をほころばせ、口角を上げた笑みを浮かべた。
「ようやく着いたか。今日中にここに来させろ」
「御意。本日の昼過ぎには参内できるよう整えております」
「よかろう。大儀であった」
 機密局の長がにこりともせず会釈を返すと、イーヴァルは機嫌よく次の議題に移った。皇帝親政のベリョーザ帝国では、毎日たくさんの政策の提案や訴えの処理が、イーヴァルの裁可を待っているのだ。
「エクラ王国への経済制裁ですが、石炭が20%、燃料用木材が14%の値上げで、すでに大きな効果が見えております。エクラ王国では豊作がたたり、小麦や野菜が値崩れしていますので、輸入額への悪影響はありません。ただ、これ以上の値上げは大きな反発が予想されます」
「燃料は最大35%まで維持しろ。他国経由でもほぼ同額になるようにしておくのを忘れるな。どうせコーダも五カ国連合も、自国品が出すぎて出し渋るか、値上げせざるを得なくなる。ああ、そうだ。オルキディアにだけは、燃料も木材も例年の価格で卸せ。ただし、特別流通量を多くする必要はない。あとは・・・・・・ベリョーザ酒はそのままで構わんが、チーズと羊肉を来春まで10%上げろ。琥珀や陶磁器はそのままでも勝手に上がる」
「御意」
「ヴァストークの瑠璃鉱山でストライキが続いています。イーリス伯が鎮圧すると言っていますが、住民の不満は前々からあったようで、難航しているようです」
「武力解決はするな。支配者は予であって、イーリス伯ではない。余人が民を傷付けることは厳にまかりならん。伯にも伝えろ、民の声に耳を傾け、労働環境改善が伯の仕事だと。それから、解決の暁には鉱夫一人につき銀貨3枚の見舞金を出し、イーリス伯にも褒美をとらせる。だが、これ以上長引くようなら伯に調整能力なしとみなして領地を没収する」
「御意」
「ああ、そうだ。ガルデーニャのおば上から、娘になんかくれと言われていたな。ヴァストークの瑠璃で髪飾りでも作って差し上げろ。予に揃いのストールピンでも作っておけば、満足されるであろう」
「御意」
 ほとんど食事の片手間と言っていいスピードで、イーヴァルは重要な決め事から些細な雑事まで片付けていく。
 食後の紅茶をゆっくりと飲む頃には、その日の午前の仕事はほとんど終わっている。昼間は客人を迎えたり、厄介な裁判を片付けたり、視察に赴いたりすることが多い。
 そして今日は、待ちに待った来客があるはずだ。いや、正確には客ではない。
「いい仕事をするな」
 つぶやいた声は小さく、周りには聞こえなかっただろうし、イーヴァルも周囲にいる家臣たちに言ったわけではない。
 いまだまみえたことのない異国の王子は、悪運強くイーヴァルの手をすり抜け、代わりに欲しかったものを丁寧に押しつけていった。実際に会ったオーラン王によれば、まだ若さが弾けるような青年だという。
 各国を気軽に旅しては、表に裏に姿を現すオルキディアの風来王子は、危険な包囲からイーヴァルの大事なものを掬い取って、安全な他国へこっそり逃がしてくれたそうだ。それは恩と感じるほどではないが、十分にイーヴァルの心証を良くした。
(いつか、予とも遊んでほしいものだ・・・・・・)
 にっと唇の端に笑みを刻み、イーヴァルは薄いティーカップを爪で弾いた。高価な磁器がもだえるように響かせた音を、妖艶な紫の目が酷薄な笑みを含んで見下ろしていた。

 朝食御前会議の後、散開する閣僚たちの中で、内務局長のフォマーが、機密局長のパーヴェルに話しかけてきた。
「すこし、お尋ねしたいことが」
「なんでしょうか」
 鉄面皮のパーヴェルを前にして、温和を絵にかいたようなフォマーが少々萎縮する。二人とも五十代も半ばを過ぎていたが、フォマーは前任のカルルが病気で倒れた代わりに、最近就任したばかりだった。
 内務局長は実質宰相の位置にあるのだが、皇帝親政であるベリョーザでは、幅広い内政のとりまとめや、領地をもつ貴族間の調整などが主な仕事だ。才走った者よりも、カルルやフォマーのように丁寧に仕事をこなす根気と正直さが重宝された。
「黄金羊のことです。勉強不足で、お恥ずかしながら何を指すことなのかと・・・・・・」
「ああ」
 通常、機密局での処理案件は、皇帝とのみ意味が通じればよいので、特別周知させるようなことはしない。むしろ知られないようにやりとりするのが常だ。だが今回は御前会議での報告が出来る、つまり全員が知っているべき事でもあるのだ。
「フォマー殿は、陛下がご戴冠された時のことを覚えていらっしゃるか?来賓の中にエクラ国王がおらず、陛下が後にエクラまで赴いたという・・・・・・」
「ええ、覚えております。確かに陛下はお若かったが、あまりにも無礼だと・・・・・・そういえば、その時になにやら問題があったような」
「さよう」
 二人は歩きながら話していたが、パーヴェルがあたりを見回し、別の人物に声をかけた。
「キリル殿」
「ああ、なんだい?」
 にこにこと笑顔を振りまいていた小柄な男が、さらに人懐こい笑顔を浮かべて、パーヴェルとフォマーのところへやってきた。
「貴公は、黄金羊に会ったとこがおありかな?」
「いやぁ、それがないんだよ。僕ぁ、南部にばかり行っていたクチでね」
 笑顔を苦笑いに替えたのは、外務局長のキリルだ。すでに六十を過ぎているはずだが、表情にも姿勢にも精力的な様子がうかがえる。
「パーヴェル君は、会ったことあるのかい?」
「いえ、まだ」
「そっかぁ。エクラの駐在員なら、皆名前ぐらいは知っているし、会って親しくなった人もいるって聞いたよ。だから僕も、こんど会うのが楽しみなんだ」
「黄金羊とは、エクラ人なのですか?」
「いや、ちがうよ。なんと言ったらいいのかなぁ」
 フォマーのごく普通の質問に、キリルは困ったように頭をかいた。
 三人は、丁度空いていたラウンジを見つけ、ソファに腰掛けた。コーヒーが運ばれてくると、パーヴェルは少し声を落として、公然の秘密を確認した。
「陛下のご趣味は、ご両人もご存じであろう?」
「ええ」
「うん」
 フォマーもキリルも、本当は眉をひそめるべきことではあるのだが、すでに慣れたというか、もう諦めているようで、仕方がないこととうなずく。
「黄金羊には、陛下の焼き印が押されている。十五年前の出来事だ」
「・・・・・・」
「ああ、大変だったみたいだねぇ」
 息をのんだフォマーの隣で、キリルが痛そうに顔をしかめた。
「十五年前というと、あの戴冠の後で?」
「そうそう。陛下がエクラ王国に『ご挨拶』に行ったときに、たまたまそこで気に入ったと・・・・・・いやしかし、あの時は大変だったって、ヨハン元外務局長が言ってたよ」
「私も前任者から、当時仲が良くなかった、軍事局と外務局と機密局が一致団結したと聞いている。・・・・・・それほど、破天荒な出来事だった」
 当時の三人はまだ若く、他部署にいたり地方に駐在していたりしたので、直接は関わってこなかったのだ。
「黄金羊は、陛下が戴冠して最初に手に入れたものであるにもかかわらず、いまだ支配していない、稀有な存在なのだ。それが、このほどようやく納まることになった」
「どうして、そんな・・・・・・これほどまで時間がかかるとは、まさか、王族の姫君とか」
「いやいや、男。身分は高くないよ、平民・・・・・・かな?」
「王族や貴族でないことは確かだが・・・・・・」
「そもそも、黄金羊とは、どういう人物なのですか」
 歯切れの悪いキリルとパーヴェルに業を煮やしたフォマーに、二人は顔を見合わせ、珍しく言いにくそうにパーヴェルが口を開いた。
「黄金羊とは、フビ国第四王子ラダファム殿下の従者で、イグナーツという者のことだ。当時、エクラ王国に留学という名目で人質として連れてこられていた、フビ国の王子の従者だ。そして彼に押された、陛下の物であると証明する焼き印を陛下に渡したのが、他ならぬエクラ国王だったのだ」
 その事実関係を頭の中で再構築したフォマーが、目を見開いたままあんぐりと口を開け、ほとんど呼吸困難を起こしているかのようにプルプルと震えだした。
「はっ・・・・・・はァっ・・・・・・」
「だ、大丈夫かい、フォマー君?」
「すでに終わったことだ。気を確かにもたれよ」
 気付けに運ばせたベリョーザ酒を一気にあおると、大きくため息をついたフォマーの目の焦点が、ようやく合ってきた。
「な、なるほど。なるほど・・・・・・」
 広くなった額に浮いた汗をせわしなくハンカチでふき取りながら、フォマーはなんとか正気を保つことに成功したようだ。
「エクラ王国民ですらない、他国の人間。しかもエクラ国王が身分と安全を保障した人質であるにもかかわらず、エクラ王が所有を許可したベリョーザの焼き印が押された・・・・・・。陛下は、この矛盾をエクラ国王につきつけたわけなのですな」
「そういうこと。フビ国の王子ではなく、その従者ってところが、また微妙なところをついてるよねぇ」
 人懐こい笑顔の裏で外交の機微を計算するキリルが、楽しそうに目を細めた。
「キリル殿は、陛下がどう収めたかもご存じのようだ」
「たいしたことは知らないよ。ただ、陛下がフビ国の王子と直接話をつけたってぐらいだ。自分のものだけど、君が持っていてもいいよ、ってね。エクラ王国への使者が立てられると、エクラ王に謁見する前に、必ずフビ国の王子へ挨拶する慣例が出来たきっかけだよ」
 そこでやっと、フォマーは内務局長就任以来の出来事が、一つの線につながったことを悟り、しゃっくりをするように言葉をこぼした。
「まっ、まさか、先月からのエクラ王国への経済制裁のきっかけになった、客死したベリョーザの縁者というのは・・・・・・!」
「黄金羊のことだ。エクラ王国から逃げ出すために、公式には、死んだことになっているがな」
 パーヴェルの証言に、フォマーはかっくりと腰が抜けたかのように、ソファに尻を沈めた。