不器用な優しさ −2−


 ラズーリト宮に行けば、イーヴァルが付いてくるのは仕方がないとしても、すぐにイグナーツと会えるとクロムは思っていたのだが、そうではなかった。
 ベリョーザでは昼食が正餐になるので、互いの国旗を掲げての会食は、正式な外交の一環である。ということは、イグナーツが公式の場には一切出てこないというアゼルの言う通りであり、もう一歩踏み込まなければならないだろう。
 そこにユーインの交渉話術がいよいよ必要かと思われたが、意外にも、イーヴァルはあっさり会わせてやると言ってくれた。
「え、いいの?」
 思わずこぼれ出たクロムの呟きに、イーヴァルは澄ました顔で頷いた。
「そもそも、それを期待しての来訪であろう?それに、そなたらが来ているのに予が会わせないと断ったと知ったら、あれにへそを曲げられる。機嫌を取らねばならんのは、予の方だからな」
「非礼の限りで申し訳ないのだが、意外と上手くやっているようで安心しました」
 複雑な表情をするユーインに、イーヴァルはクククと機嫌良さそうに笑った。それはとても珍しい事なのだが、ユーインたちは知らない。
「軟禁ととられかねない状態だと聞き及んでいたので」
「仕方なかろう。そなたらの知っている者は、すでにこの世にいないことになっている。予の黄金羊は、予の住処に馴染んでいるが、それでも運動をさせよ、陽に当たらせよ、ストレスを溜めさせるなと、医官がうるさくてな」
 おかげで元気いっぱいだと、イーヴァルはワイングラスを掲げる。
「しかし、『上手くやっている』などと判断するのは、早計ではないかな?片方の言い分しか聞いていないだろうに」
「上手くいっていなければ、簡単に会わせてくれるなんて言わないでしょう。そもそも、我々を呼ぶこともなかったはずだ」
「ほう。では予は、そなたらの友人の伴侶としては、合格点をもらったと思ってよいのかな」
 穏やかな雰囲気のままに、眼光の鋭さだけが一段上がったと見えて、ユーインはイーヴァルの言葉通りに受け取ることは出来ないと、首を振った。
「さあ。そんなおこがましいことは、できませんね。ただ、貴方の黄金羊とやらが、何の不安もなく幸せでいてくれたらと願っています」
「では、本人に聞いてみるがよかろう。気のすむまでラズーリト宮にいるといい。慶春祭期間は予が忙しくて、なかなかあれに構ってやれんのでな」
 ユーインはクロムと異口同音に「え・・・・・・」と言ったが、イーヴァルは聞こえていなかったかのように、満足気に口元を拭ったナプキンを置いて、会食の終わりを示した。
「なにも構えんが、ゆっくりしていくといい」
 その捕食者の優雅な笑みに、ユーインとクロムは目に見えない首輪をかけられたような気分になった。

 会食後も忙しそうなイーヴァルと別れて、二人は再びアゼルに案内されながら、衛兵が護る扉をいくつか通り過ぎた。その間も、アゼルは他人事だと思って実に楽しそうだ。
「ああ、怖いですねえ。恐ろしいですねえ。俺が言われなくてよかったなぁ」
「棒読みで言うな」
「それで、いつ帰れるんでしょうかね・・・・・・なんだか、さっきからどんどん奥に進んでいるような気がするんですけど」
 クロムが不安げな声を出すと、外交経験からユーインの目が泳いだが、アゼルがあっけらかんと解決策を示して見せた。
「陛下に文句を言える人に、意地悪をするなと言ってもらえばいいじゃないですか」
「「え?」」
 そんな人間がいるのか、いや、いくら皇帝のイーヴァルとは言え、頭の上がらない親戚が慶春祭期間に来ているのかと、アゼルを見つめる二人の無言の質問に、アゼルは悪戯っぽく微笑んで、進行方向を指し示した。
 そこは廊下の曲がり角であり、幅の広い階段が設えられていた。上階から、まるで飛ぶような足取りで降りてくる、細身の影。それは、ちらほらとすれ違う侍従や女官たちとは、着ている物がまるで違っていた。温かそうな毛織のズボンに、襟や袖口が毛皮で縁どられた、とても高価そうな丈の長い上着は、動きやすさよりも、とにかく着ている者を寒さから守ることを優先させている。屋内だというのに、柔らかな山吹色のショールをかぶっていたが、それでも彼の動きは、野ウサギのように素早く、蝶のように軽やかだった。
「ユーイン殿下!クロム!」
 その懐かしい声に、ユーインとクロムは思わず駆けだしていた。
「イグナーツ!」
「久しぶりですね!」
 抱き着くかのように両腕を広げて駆け寄ってきたショール姿の若者は、二人の前で理性と礼儀を思い出したのか、すっと優雅に礼をしてみせた。
「お久しぶりです。お変わりないようで嬉しく思います」
「いまさら他人行儀はよせ」
「そうですよ。本当に・・・・・・無事でよかった」
 ユーインとクロムにそれぞれ手を取られ、ショールの下からよく似た色の目が微笑んだ。色白の肌に、薄い唇、淡い青銀色の髪・・・・・・。数年前にコリーンヌリーブルの港で別れた時から変わらないが、記憶にあるよりも線が柔らかくなったように感じるのは、監視されている心配や、追われている緊張がなくなったからだろうか。
 イグナーツの後ろから追いついて、楚々とスカートをつまんでお辞儀をした赤毛の女性にも、懐かしさと労いの気持ちが溢れてくる。
「ロサ・ルイーナも、久しぶりだな」
「元気でしたか?」
「はい、おかげさまで。本当にお久しぶりでございます」
 身ひとつで多くの追手からイグナーツを守り通した諜報員は、相変わらず柔らかだが仮面のように動かない微笑を湛えていた。
「ここから先は、ロサ・ルイーナに先導をお願いします」
「承りました」
 アゼルから役割を引き継いだロサ・ルイーナの後に続いて、一行は天井の高い廊下を進む。左右には精緻な図柄のタペストリーや絵画が飾られ、その合間にぽつんぽつんと扉があった。
「この辺りに入れるなんて、この先、一生なさそうだな」
「えっ、そうなんですか?」
 アゼルの呟きにクロムが聞き返すと、もうここは禁裏の側なのだとロサ・ルイーナが説明してくれた。
「このフロアを使うのは、陛下に近しい血縁者であるのが通例です」
「それじゃあ、俺たちが使うのは、良い目で見られないじゃないか?」
「何事も、慣例よりも陛下のご意向が優先されますので」
 イグナーツは人目をはばかってイーヴァルの居住区から離れられないが、ユーインたちとの面会はさせたい。とにかくイグナーツに関することが優先されるので、宮内局も文句は言わないのだとか。
「ユーイン殿下がおっしゃるような感想を抱くのは、いまだに事情を理解しない旧弊な貴族くらいでしょう。ただ、そういう方々には、イグナーツ様の存在は幻のようなものです」
「言わなきゃバレないし、知られない方が都合がいいから、実働の官僚や侍従たちは、誰も余計なことを言わないんですよ」
「アゼル外務官のおっしゃる通りです」
 ロサ・ルイーナに案内されてゲストルームのひとつに案内されると、アゼルは「では、これで」と頭を下げた。滞在場所の確認だけで、一外務官のアゼルは帰るらしい。
「お国との連絡はお任せください」
「意味深な言い方はよせ。怖いだろうが!」
「他意はないのですが」
 ケラケラと笑ってアゼルが辞去すると、クロムとユーインはやっと気を抜いたため息をついて、ソファに腰を下ろした。まったく、猛獣の住処を探検しているのに等しい。
 ロサ・ルイーナの給仕を受けて温かな茶が配られると、ユーインとクロムは先ほどのやり取りをもう一度、今度はイグナーツに話して聞かせた。
「あはははっ、お疲れ様です。大丈夫ですよ、今日は無理でも、明日には大使館に帰れますって」
「ありがたい・・・・・・」
 ホストの顔を立てて一泊はしなくてはならないが、それ以上神経をすり減らす必要はないと、イグナーツが保証してくれた。アゼルの言う通り、イーヴァルに文句を言って聞き入れてもらえる、唯一の人間が、そこにいた。
「建国記念日が近づくと、もっと貴族が集まってきます。毎日行事やパーティーや外交会談が続くし、皇太子殿下の御一家も数日中にお見えになるはずなので、ユーイン殿下たちを弄って遊ぶなんて暇は、イーヴァにはないんです。帰さないような雰囲気を出したのは、お二人をからかっただけですよ」
 ショールを取ったイグナーツの右耳には、艶やかな黒い宝石があしらわれた、金色の大きなピアスが揺れていた。
「そうか。それにしても・・・・・・」
「ここの生活は、不自由ではないですか?」
 心配する二人に、イグナーツは笑って首を横に振った。
「全然。イーヴァは俺を大事にしてくれるし、毎日安全に暮らしていますよ。そりゃあ、ラズーリト宮の外に出ることは、年に数回だけど・・・・・・べつに不自由だと感じたことはないかな」
 遠く離れているせいで年に一度にはなるが、フビ国のラダファムとも手紙のやり取りができているという。
「これはイーヴァが俺に言ったから、言ってもいいのかな。宝石諸島との陸の交易ルートを作ろうとしているみたいですよ」
「ああ、やっぱり・・・・・・」
 噂には聞いており、ユーインは頷いた。ベリョーザとフビの間には、いくつもの山脈や荒野と、社会情勢が不安定ないくつもの国があり、交易ルートを作るのは一筋縄ではいかない。それでも、イーヴァルは少しずつ街道を整備しているらしい。
「それも、イグナーツの為なんですか」
 目を丸くしたクロムに、イグナーツはそうではないと肩をすくめた。
「まさか。政治的、軍事的な意味合いの方が大きいと思いますよ」
「ベリョーザは不凍港を欲しがっているからな。その道すがらってことか」
「ええ、殿下のおっしゃる通りでしょう。それに、街道沿いを全部支配下に置けたらなぁとか考えているんじゃないかな。治安さえ確保できれば税金で潤うし、その治安維持にまわせる軍事力を、ベリョーザは持っていますから」
 皇帝と一般人の自分では、考えるスケールが違いすぎると、クロムは額を押さえた。
「まあ、ラズーリト宮から外のことなんか、俺には関係ないのですけどね。俺が不自由ではないのかという質問に戻りますけど、俺はイーヴァが好きでここにいるんです。俺はこの国の政治には何の関与もしていません。でも、ここに俺がいるだけで、少なくとも幾人かは心が平穏に過ごせるんです。そのことは、俺の良心にとってボーナスみたいなものですよ」
 薫り高いミルクティーが満たされたティーカップを手に、イグナーツはゆったりと微笑んでみせた。