オーロラの妖精 −1−


 すでに季節は初夏だというのに、澄んだ空気は冷たく、深く吸い込むと肺腑に厳しい。
 ここは世界の北の果てとも呼ばれる、ゼータール王国の北部。足元の峻厳な岩肌に若葉が芽吹き、下界を見下ろせば、霧か雲かわからない靄に包まれた森林が見える。まぶしい空は、森のはるか先、あるいは万年雪を頂き連なる山脈の向こうまで広がっていた。
 南部にある首都へ行くには、いりくんだ海岸線や、深く果てないような森を避け、北部で一番大きな港の近くまで、雪解けした山岳を尾根伝いに歩いていくのが一番だ。
 そうアドバイスをもらったのだが、実際に行くには、かなり無謀だったのではないかと、クロムは心の中でため息をつく。なにしろ、かれこれ一週間ほど馬で歩き続けているのだが、町も村もないのだ。天候に恵まれていることだけが救いだろうか。
「うーん、ちょっと誤算だったかな」
「そうなの?」
 さすがにユーインも苦笑いだが、道案内をしてくれている牧童の少年は、きょとんと首をかしげている。
 雪に閉ざされる村で冬を過ごしたユーインとクロムは、華やいだベリョーザ帝国の春を楽しんでから、陸伝いにさらに北へ進み、多くの海岸線を有する国々へとやってきていた。この辺りの国々は北海の五カ国連合と呼ばれ、高い商業力と軍事協定による結束をもって、ベリョーザ帝国やエクラ王国などの大国と渡り合っていた。
 北海と名のつく通り、五カ国のうちでもこのゼーラードともう一つの国は、一年の大半が冬で、短い春と夏と秋が一瞬ですぎてしまう。そのような土地をわざわざ騎行しているのは、神秘的な夜空の芸術、オーロラを見たいと思ったからだ。ところが、真冬ならよく見えるオーロラも、この時期はあまり現れないとかで、ひどくがっかりしたものだ。早く南部には着きたいが、少しでもオーロラを見るチャンスはないものかと検討した結果、この道行になったのだ。
 馬に防寒具と水と食料を積んだ二人は、キャラバンの頭や地元の人間の勧めに従い、遊牧生活を送る部族の人間を道案内に雇っていた。南北に長いゼータール王国を船で南下するために、北部で一番大きな港町、ヴァールまで行くためだ。
「この道なら、ヴァールまで、あと五日だよ。山を下りた村までなら、あと二回夜を越せば着く。海沿いに行くと、その四倍はかかると思うけど・・・」
 道、というが、道などどこにもない。
 背の低い灌木や高山植物、ささやかな緑の絨毯はあるものの、ユーインたちが通常「道」と認識しているものは、そこにはない。晴れれば太陽や星が方角を教えてくれるだろうが、町の場所までは教えてくれない。案内人とはぐれたら、迷子どころか、遭難して野垂れ死ぬこと間違いない。
「やっぱりこの道が最良なのか」
「そうだよ」
 たくましい雄のヘラジカの背に乗ってくすくすと笑う少年は、このあたりの人間にしては珍しく、ゼータール語どころか、ベリョーザ語やエクラ語までも堪能で、ユーインとクロムとの会話に不自由はなかった。年の頃は、十六か十七ほど。名前をノエルというそうだ。
 ノエルのエメラルドのような髪は、毛先に行くほど濃く暗い色になり、なんとも不思議な色合いをしている。地元では「オーロラの妖精」と呼ばれ、慕われているらしい。
 クロムのアルビノという容姿も珍しいが、ノエルの容姿も地元民とはやや趣が異なり、白い肌に藤色の目がとても神秘的だ。噂では、遊牧民の長がオーロラの夜にお告げを受け、羊たちに囲まれて眠っていた赤ん坊を見つけたというのが、ノエルの出生なのだそうだ。
 集落から何日も離れて、羊たちに草を食べさせるのがノエルの仕事らしい。いまも、ユーインとクロムとノエルのまわりには、三十頭もの羊が群れ、草を食んだり、黒い牧羊犬に追われて歩みを進めたりしている。
 この辺りは夏でも夜はたいへん冷え込むのだが、ノエルがいるおかげで、凍っていない水場に立ち寄れ、野宿に適した場所で寒さをしのげていた。この羊たちが集まり、風を防いでくれるのもありがたい。
 クロムとユーインは、防寒と日除けのために、フードやマフラーを着込んでいるが、ノエルは毛皮でできた短いコートだけで、しかもフードは外し、冷たい風に長い髪をなぶらせている。
 厳しい日差しに目を細めながら、クロムは連なる山々からノエルに視線を移した。
「海岸沿いでは、どうして時間がかかるの?」
「海が谷になっているからだよ」
「・・・え?」
 海が谷になっているとはどういうことか、想像が追い付かなかったクロムは首をかしげた。
「深い渓谷の底が海になっているんだよ。この国では、広い海に出るためには、谷底のように細い海を伝って行かなきゃいけないんだ。だから、海岸沿いを行こうとすると、何度も谷を迂回しなきゃいけない」
「・・・それは、川じゃないの?」
「違うよ」
 ノエルは気を悪くした風もなく、笑顔で首を横に振った。
「たぶん、海から船に乗って見た方がわかりやすいよ。爺様がそう言っていたから」
「そうなんだ・・・」
 いまいち腑に落ちなかったが、谷を迂回しながら行くのは、確かに面倒そうだ。
「森にはオオカミが出るし、道に迷いやすい。凶暴なクズリはどこにでも出るけど、見晴らしが良くて道がわかりやすいぶん、山の上の方が安全だよ」
 クズリとはイタチの仲間であるが、大きさは小型のクマほどはあるだろうか。鋭い牙と頑丈なあごをもつ猛獣である。雑食で木の実や鳥の卵を食べるが、時には羊やトナカイすら襲う。しかし、暖かい今は獲物が豊富なので、よほど運が悪くなければ、人間に立ち向かっては来ないだろう。ノエルのきちんとした説明に、クロムもユーインもうなずいた。
「あ、レイヴンだ」
 ノエルの視線の先には、とがった岩の上で羽を休める、巨大なカラスがいた。一抱えもある体に翼を広げられたら、まるで視界をおおわれるような気分になる。レイヴン(オオガラス)の名にふさわしい巨鳥だ。渡り鳥として知られているが、その大きさとつややかな漆黒の羽毛に、不吉なものを感じる人々も少なくない。
「初めて見るけど、こんなに高いところまで飛んでくるんだな」
「ずいぶん大きいし、なんだか怖いですね」
「神話では神様のお遣いもするんだ。でも、怖がる人もいて、ベリョーザの皇帝をレイヴンって言ったりもするんだって」
 そんなに怖いのかな、と首をかしげるノエルに、今度はユーインがこらえきれずに笑った。
「あははっ、レイヴンの方が、かわいいと思うよ」
「知ってるの?」
 びっくりしたように藤色の目を見開くノエルに、ユーインはいたずらっぽく微笑んだ。
「ちょっとだけね。この国の王様も、イーヴァル皇帝には苦労しているんじゃないかな」
 大国ベリョーザを治める皇帝イーヴァルは、幼少より俊英の名が高く、十代で帝位を継承して以後、十年以上も堅実に国を守っている。ただ、仕事の優秀さはともかく、本人がわがままで気難しく、ひどく残忍な性格だというのがもっぱらな噂だ。
 クロムとユーインがベリョーザの帝都、ラズーリトにいたときは、たまたま帝国の東部地方で事件があり、皇帝がその処理にかかりきりだったために、ユーインが滞在していることを知りながらも、宮殿に呼びつけることができなかったのだ。
「いやぁ、ベリョーザにいたときは運が良かったよ」
「そんなに恐ろしい人なんですか」
「あの人は人間を玩具にするらしいからなぁ。公になっていないだけで、結構な人間が行方不明になったり、病死扱いになったりしているよ。宮殿は壮麗な監獄だとか、大使館に勤務する各国の外交官は遺言書をデスクに入れてあるとか・・・まぁ、そういう人だね」
 ユーインは苦笑いで言うが、あの時はクロムが役人とトラブルになったせいでユーインが身分を明かしてしまったので、クロムはいまさらながらに胃が痛くなってきた。
「ねぇ、この国の王様については知ってる?」
 ノエルの質問に、ユーインはうなずいた。
「実際に会ったことはないけど、少しだけならね。各国の王の中では若い方だけど、ベリョーザに出向いてあのイーヴァル皇帝と修好条約を新たに結んで、無傷で帰ってきたってだけでも尊敬に値するね」
 至極真面目に言うユーインに、クロムもノエルも笑うことができなかった。
「・・・やっぱり、ベリョーザの皇帝と同じくらい怖い人なのかな?」
 ぽつりとつぶやいたノエルに、ユーインは今度は首をかしげて答えた。
「そうでもないんじゃないかな。外交に関しては結構シビアらしいけど、国内の生産に力を入れていて、国民には慕われているって聞いたなぁ。王妃様を早く亡くされたけど、その後も再婚していないし・・・俺には、真面目な人って印象がするけどな」
「そうなんだ」
 少しほっとしたような顔をしたノエルに、クロムは何となく近い感情を自分も抱いているような気がした。
「もしかして、国王様がこちらにみえられるの?」
「ちがうよ。・・・ノエルが、こんど王様のとこに行くんだ。もう、ここには帰ってこられないかもしれない」
 不安そうに微笑んだノエルに、クロムとユーインは小さくない驚きで顔を見合わせた。