アコライトの石像 −1−                  マルコ編

 ガランガランと鳴り響く、鐘の音。でも、その揺れる鐘を見上げたことは無い。
 冷たい石壁。外が見えない高い窓。個室という、鍵のかかった小さな空間。
 額に信仰、胸に敬愛、手に聖書。そして、足に重い枷。
 ここが僕の部屋。そして、僕が、僕の牢屋。

 扉の錠が外れる、重く硬い音を聞いた。食事の時間でもない、散歩を許された深夜でもない、なぜこんな時間にブラザーが来るのか、マルコにはわからない。いや、わかろうとわかるまいと、どうでもいいのだ。事実はいつも、否が応でも、狭い目の前に現れる。
 軽いのに落ち着きのある、不思議な足音が近寄ってきた。
「はじめまして、マルコ。私はサンダルフォンと言う。君の従兄弟に当たる者だ」
 囁くように、やわらかな声音が聞こえる。しかし、それは少年のようなメゾソプラノだ。
 従兄弟とは・・・つまり、マルコをこの大聖堂に連れてきて以来、一度も顔を見せたことのない親族の一人ということか。血縁者が自分に会いに来るということは・・・つまり、自分を処分する目処が立ったということだろう。
 それならば、行かねばなるまい。ずっと、その時を待って生きていたのだから。
 顔を上げたが、視線は合わなかった。こちらとは反対に、むこうが視線を下げて、びっくりしたように扉の方を振り返ったからだ。
 薄暗い部屋の中でもわかる、輝くような濃い色の金髪。そして、青い・・・真夏の空のような、青い色の法衣。
「なんでこんな物を・・・ぅおっ」
 驚いた。いや、相手もそうだが、マルコも驚いた。こちらに向き直った少年は、自分とそっくりな容貌をしていたのだから。
「びっくりした。自分かと思ったよ」
 にっこりと微笑んだ少年は、自分よりかなり年下に見える。緑か、青緑色に見える目。眼差しは力強く、輝いている。前髪の両脇は、両頬の下まで長く伸ばしていた。
「会えて嬉しいよ、マルコ」
 差し出された手。それはどういう意味だろうかと考えている間に、ぎゅっと抱きしめられた。肩に、頬に、温かな、人間の体温を感じる。
「できるだけ早く、ここから出してあげるからね。もう少し、辛抱してくれたまえ」
 少年が離れた隙間に、冷たい空気が流れ込んでくる。いつの間にか落ちていた聖書を拾い上げ、はい、と手渡された。
「また来るよ、マルコ。必ず」
 そう言った少年は、忌々しげにマルコの足枷を見下ろして、もう一度マルコの顔を見て、微笑んだ。
 きしむ音を立てて扉が閉まり、錠が下りる硬い音がした。
 その部屋に、マルコはまた、一人きりになった。

 明るい大聖堂の廊下を、あきらかに機嫌の悪いサンダルフォンと歩きながら、秘密の幽閉室を案内したプリーストは胃が痛くなってきた。
 あのアコライトを閉じ込めるように言ったのも、足枷をつけるよう手配したのも、自分ではない。そもそも、サンダルフォンの親族が、あのアコライトを監禁するようにここに連れてきたわけで・・・。
「あの」
「は、はいっ?」
 いくら現在の階級がアコライトとはいえ、一度聖職者として道を究め、転生してきた神童である。見上げてくるその眼差しと態度は、どっしりと根を張った大樹を思わせた。
「大司教様には、お目通りできますか」
 プリーストは、早く今日という日が終わらないか、切に神に祈った。


 寒かった。指先がかじかんで、ページを捲るのも上手くいかない。
 あれから、何回か雪が降った。あれから・・・?
(あの人は・・・なんだっけ?)
 珍しい青いアコライトの法衣を着て、金髪の、自分とそっくりな顔の・・・そうだ、従兄弟だと、言っていなかっただろうか。名前は・・・。
「・・・・・・」
 うまく声にならない。でも、時々思い出すようにはしていた。なぜかは、マルコにもわからない。ただ、そこから氷が溶けるように、なにか清涼で流動的なものが、胸の中で動くようだった。
(ばかばかしい)
 自分は堅固な牢屋なのだ。一生をこの困難に立ち向かうべく捧げ、罪深い己の許しが得られるよう、神にすがらねばならない。
「・・・・・・」
 ここでの生活は、つらかった。重労働をするわけでもなく、常に身を削るような修行をしているわけでもない。ただ、ひとりで、そこにいるだけだ。
 生きているのかと聞かれたら、たぶん生きているのだろうとしか、答えようがない。呼吸し、食事をし、排泄もするし、睡眠もとる。だが、それだけだ。
 見上げると、鉄格子のはまった明り取りの向こうに、鉛色の空が見えた。今夜もまた、雪になるかもしれない。
 なにか慌しい気配がやってきて、マルコの部屋の扉が、ガチャガチャとやかましく鳴った。
 バタン!
「マルコ!!」
 低くまろやかな、しかしどこか聞き覚えのある響きを持った声に思わず振り向けば、そこには見覚えのない、白い服を着た青年が立っていた。
「マルコ、迎えにきたぞ!さぁ、はやく!ああ、すまん。早くこの足枷を外さないか!!」
 最後の一言は、扉のそばで呆然としているブラザーに向けられたものだ。
 足枷の錠が外されている最中も、青年はしきりにマルコに話しかけ、私物はどれだ、着替えはこれだけなのかと、てきぱき荷造りをしてしまう。
「すまん、結局一ヶ月もかかってしまった。まったく、石頭どもめ!しかし、ハイプリになった私を見た、奴らの驚いた顔と言ったらなかったぞ。私には素晴らしい友人がいるということを、まったく想像していなかったらしい!」
 えらく上機嫌でしゃべり続ける青年は、ひとまとめにした荷物をどさりとテーブルに載せ、ニヤリと微笑んだ。
「私を覚えているか、マルコ?サンダルフォンだ。必ず会いに来る、ここから出してあげると、約束しただろう?」
 濃い金色の髪、青味を帯びた緑色の目、そして、よく似た・・・いや、しかし目の前にいる青年は、マルコより何歳か年上に見える。ほんの一ヶ月で、何歳も歳を取ったとしか思えない。
 大きな温かい手がマルコの頬を包み、むき出しの耳には指先が触れた。
「ああ、こんなに冷たくなって。早く屋敷に戻るとしよう。いいか?今日から、私達は家族だ」
 さあ行くぞ、と手を引かれ、マルコはおぼつかない足取りで歩き出した。
 眩しさに、ちゃんと目を開けられるようになった頃には、あの鐘のある大聖堂は、もう見えなくなっていた。

 サンダルフォンの屋敷は、マルコが育った家よりも大きいのではないかと思えるほどだ。金のかかった豪奢な内装だが、どの調度品もいやみがなく、すべてが調和し、落ち着いた雰囲気がある。それでいて何人も人がいるような、生活感のある家だった。
 屋敷の中は温かく、自由に使っていいと案内された広い自室には、大きな書架、引き出しのたくさんある机、椅子、それに、ふかふかのベッドがあった。
「・・・あの・・・・・・」
 スプーンを持ったままのびっくりした顔が、マルコを凝視している。
「あの・・・どう、して・・・・・・僕は・・・」
「あそこを出て、ここにいるかって?」
 とりあえず、マルコは頷いた。何から何まで急で、今日一日で、天地がひっくり返ったかのような変化だ。
 ここは明るく、今食べている夕食も温かで、なにより、一人ではない。目の前に、サンダルフォンがいる。
「さて、どこから話すのがいいかな・・・」
 苦笑いを浮かべたサンダルフォンは、マルコの母方の伯父が自分の父だと告げた。
「長いこと私生児扱いだったので、マルコの家族で私のことを知っている人間は少なかろう。私も、何度も大聖堂に行っているのに、あそこにマルコがいることを知らなかった」
 マルコの存在を知って、自分に引き取らせてもらえるよう、マルコの家族に掛け合ったらしい。
「僕は・・・その・・・・・・」
「血を見るとおかしな気分になって、自分がわからなくなる、そうだろう?」
 マルコはもう一度頷いた。サンダルフォンは、全部知っているようだ。
「大丈夫だ、マルコ。それをすっかり治すのは難しいかもしれないが、うまく付き合っていく方法ならある」
 サンダルフォンが何を言っているのか、マルコには理解できなかった。
「つき・・・あって?」
「そうだ。なぁ、マルコ。いままでそのことについて、なんと言われてきたかは聞かない。ただ、それはお前の罪、あるいは科せられた罰でも、なんでもないのだ」
 ますます、わけがわからない。では、いままでの自分は何だったのだろうか。
 混乱してぼんやりと動作の止まったマルコを、サンダルフォンの手が優しく撫でた。
「いきなり詰め込むのも酷というものだな。まずは、冷めないうちに、それを食べなさい。・・・それから、明日私の友人が二人来ることになっている」
 外見は怖そうに見えるかもしれないが、誠実で頼りがいのある奴らだよ、とサンダルフォンは微笑んだ。
 まるで夢のような一日で、マルコはとても居心地のいいベッドにもぐりこんで、雲の上にいるような気分だった。きっと本当に夢で、目が覚めたら、またあの薄暗くて寒い部屋の、硬いベッドの上にいるに違いない・・・。
 しかし、朝日が昇って目を覚ましても、マルコはやはりサンダルフォンの屋敷の、自分の部屋の、やわらかなベッドの上にいた。