糖衣の花束‐4‐


 顔を見た瞬間にイーヴァルの機嫌が悪いとわかったイグナーツは、自分が言おうとしていた言葉を飲み込み、とりあえず労りの言葉をかけた。
「お疲れ」
「ああ」
 実は、イグナーツがイーヴァルの部屋にたどり着くまでも、ひと山あったのだ。イーヴァルのマンションの周りに、明らかにおかしな連中がいた。いや、彼らは普通を装っているのだが、それも数が多ければ異様だ。いつもの運転手の機転でマンションのエントランスではなく駐車場に回り、そこからイーヴァルに呼び出してもらったテレポーターで部屋に行ったのだ。
「有名税ってヤツか?」
「くだらん。腐った果実にまとわりつくハエどもだ」
 その腐った果実ってあの女優のことか、だとしたら酷いけど的確だなと、イグナーツは肩をすくめた。強い芳香と甘い味であるにもかかわらず、取れば手が汚れ、齧れば毒にしかならない。そこに群がるのは、確かにハエだけだろう。
「早く飽きてくれるといいね」
「イグナーツ」
「は?」
 ひゅっと目の前にナイフの刃先が現れて、イグナーツはのけぞった。
「っ、なにすんだっ!あぶねーだろ!」
「服を脱げ。血の匂いがする」
 イーヴァルの濃い睫にくっきりと縁どられた目に睨まれ、イグナーツは逆らうのもばかばかしいと従った。
「・・・・・・はいはい」
 ジャケットとシャツを脱ぎ、インナーシャツも脱ぎ捨てると、色白なイグナーツの肌には無数の青痣と擦過傷が散らばっていた。
「よく気が付いたな。出来るだけ治したし、ちゃんと洗ったんだが」
「これはどういうことだ」
「どうって・・・・・・仕事だよ。いまちょっと、難しいところに行ってて、さ・・・・・・っ!?」
 薙ぎ払われた軌跡に、イグナーツは思わず飛び退った。
「っから、あぶねーっつの!」
「逃げるな」
「逃げたくなるわ、そんなの振り回されたら!」
「これが・・・・・・」
 自分で床に落としたとはいえ、お気に入りのパニッシュジャケットを踏まれてちょっと凹んだが、それよりもイグナーツはナイフをまっすぐにかざしたまま近づいてくるイーヴァルから目が離せなかった。
「お前の今の仕事だ、イグナーツ」
「っ・・・・・・」
 イーヴァルの言うとおりだ。イグナーツがここに居るのは、イーヴァルの欲求を満たすためだ。そしてそれは、正式な契約にのっとった依頼であり、仕事だ。
「ああ、そうだな。掠り傷に目が行って、狙い外すなよ」
 身構えを解いて軽く腕を広げて立ったイグナーツには、もう覚悟ができていた。ただ堕ちる前に、信じていることだけは示しておきたかった。
「いっ・・・・・・つ!!!」
 迷いなく、ざっくりと胸から腹にかけて裂けた傷は浅くなく、フォトンがなければそのまま倒れてしまいそうだった。じわりと滲んだ血が、すぐに肌の上に流れ出し、思わず手で傷を押さえた。
「イグナーツ、そこに寝ろ」
「はあ?床に?」
「そうだ」
 イグナーツはイーヴァルの指示通りに、全裸になってから床に寝転がった。
「イーヴァ、後でいいけど、ちょっと大事な話がある」
 床の上に大の字に寝転がったイグナーツの両手と両足を、イーヴァルはそれぞれシャフトで固定しおえた。こういうのは面倒ではないのかとイグナーツは思うのだが、こういうところだけはまめな男なのだろう。
「文献や絵画で見てから・・・・・・一度、やってみたかった」
「おい?何する気だッ!?」
 建材としてはほとんど用いなくなったが、まったく無くなったわけではない、手のひらほども長い、杭のような釘と、そこそこ重そうなハンマー。
「おいこらイーヴァル!?ちょ・・・・・・冗談よせ!!」
「安心しろ。殺しはなしない。たぶん・・・・・・痛いだけだ」
 イーヴァルの楽しそうな笑顔に、イグナーツは声もなく身を捩ったが、すでにがっちりと拘束されていて、自分の体が床を擦る音しかしない。
「ひっ・・・・・・い、いや・・・・・・だっ!!」
 優しく足首からふくらはぎを撫でまわされ、逃げたいのに足首から先だけは、台の上にしっかりと押さえつけられた。
「いい声で鳴け、イグナーツ」
 ごつん、と言う衝撃と、肉体を突き破っていく異物の感触。神経が痛みを伝えると同時に、現実を拒絶したい精神が声帯に負荷をかける。
「イッ、ぎゃあああああああああああああああッ!!!!」
 思わず身体が反り返る。それでも、多少拘束具ががりがりと音を立てるぐらいだ。
「そんなに暴れると、手元が狂う。・・・・・・クククッ!」
 ごつん、ごつんと、打たれる釘が、めりっ、めりっと足の肉を押しのけて、突き進んでいく。
「ぐぁあああっ!!嫌ああアアッ!!ぅあああっ!!はぁっ、ああああああッ!!!」
「ああ、ほら、貫通した。もう少し押し込んでおこう」
 ごつん。
「ぁぐああアアアアアアッ!!」
「ふふっ・・・・・・ククククッ!いい子だな、イグナーツ。あと三か所あるが・・・・・・ゆっくりやっていこうか」
「はあっ・・・・・・はぁっ・・・・・・いや、だぁ!っ・・・・・・痛いぃ・・・・・・痛いいぃ!イーヴァ、やめ・・・・・・いったあぁっ!!あああっ!!」
「ククク・・・・・・あぁ、気持ちよくて、すぐにイってしまいそうだな」
 うっとりと二本目の釘を手にするイーヴァルを見上げても、イグナーツはただ泣き叫ぶしかできなかった。


 いつもなら夜の内にくるイグナーツからメールが届かず、焔は朝のメールチェックを終わらせたものの、首を傾げた。しかし思い返してみれば、イーヴァルの相手をして終わった後も余裕があったのはイグナーツぐらいで、いままで夜の内に報告が上がってきた方がすごいのだ。
『おはようございます、焔さん』
「おはよう、どうした?」
 ビジフォンがつながったのは雇っている運転手だった。口が固いので、いつもイーヴァルの相手の送迎を任せていた。
 その運転手から、この時間になってもイグナーツが出てこないという連絡だった。イーヴァルがエントランスから出て迎えの車に乗ったのは確認したのだが、イグナーツがいっこうに現れないと。
「わかった。イーヴァルがこちらに着き次第、聞いてみる。すまないが、もう少しそこで待機していてもらえるか」
『承りました』
 ビジフォンを切っても、何か嫌な予感がして、焔は落ち着かなくなった。ミオラが仕掛けた騒動のせいでイーヴァルがいらついているのはわかっていたが、イグナーツに会えば多少落ち着くだろうと思っていた。イグナーツはイーヴァルの責め苦にも耐えられる優秀な依頼相手だったが、不思議と、イーヴァルを癒すことも出来る子だった。癒されているなどと言ったらイーヴァル本人は困惑した顔をしそうだが、イグナーツと会った後はイーヴァルの攻撃的な部分が鳴りを潜め、落ち着きが増すのは確かだった。
(まさか・・・・・・)
 今までの相手なら日常茶飯事だった結果が、こんなに起きてほしくないと思ったのは初めてだ。焔からイグナーツに連絡を取ろうとしたところで、イーヴァルが社長室に入ってきた。
「よう」
「ああ」
 イーヴァルの様子が、いつもとあまり変わらない。イグナーツと会った後ならば、いままでは必ず機嫌がよくなっていたはずなのに。それが、焔に決定的な警鐘を鳴らした。
「イーヴァ、イグナーツはどうした?」
「は?」
「イグナーツだ。まだお前の部屋から出てこないと連絡が来ている。いつもならとっくに来ているはずの、俺への達成報告も上がってきていない」
 そのままチェアに深く座ったイーヴァルの唇が、にたりとゆがんだのを見て、焔は自分の予感が正しかったと確信した。
「反応はあったから、まだ生きているぞ」
「イーヴァルッ!!」
 焔がイーヴァルの胸倉をつかんだのを、イーヴァルは不思議そうに見つめていたが、焔は構わず憤りをぶつけた。
「俺はあの子に、イーヴァの性欲処理の依頼はした。だが、やつあたりに付き合えとは言っていない!!」
「・・・・・・だからなんだ」
「イーヴァはあの子を大事にしていると言っていた。だから俺も、あの子の思いも尊重しようと思った!・・・・・・あの子が何を考えているのか、ちゃんと話を聞いてあげたことがあるか?」
「知ったことか。あれは俺のものだ」
 傲慢に言い放ったイーヴァルから、焔は手を離した。
「焔、何が言いたい?」
「イーヴァに失望しただけだ」
 焔は手早く机の上を片付けると、上着を取って社長室を飛び出した。相変わらず張り付いている大衆紙のカメラマンらしき人影にうんざりしながらもイーヴァルのマンションに駆けつけ、いつもの広い寝室の扉を開けた。
「イグナーツ、だいじょ・・・・・・」
 天井からだらんと吊り下げられた男の姿に、焔ですら一瞬吐き気をこらえた。白々とした昼間の光の中に浮かび上がったその様子は、グロテスクな拘束具と血の匂いさえなければ、殉教者を描いた美術品にも見えるだろう。
「イグナーツ!」
 早く降ろしてやらねばと思うのだが、どこから手を付けるべきか迷った。青痣と擦過傷の下地の上に、大胆に描き殴られた切り傷が視線を集め、伝い落ちた血の跡が乾きかけている。そして何より、イグナーツの拘束された両手と両足には、長くて太い釘が打ち込まれていた。
 頭の中で一通りイーヴァルへの罵倒を並べ、焔はまずテーブルを寄せて、イグナーツが直に床に降り立たないように座らせた。両手を吊るしている鎖を解いて、そっと降ろしてやると、痛みが刺激になったのか、小さなうめき声が上がった。
「イグナーツ!」
「・・・・・・ぃ・・・・・・?ほ・・・・・・らさ・・・・・・?」
 サイバーグラスの下でぼんやりと目が開き、焔はホッと息をついた。
「すぐに病院に連れて行く。顔が効くところだから大丈夫だ」
 顔が効くかどうかなんてイグナーツには関係ないだろうが、とにかく何か安心させてやりたかった。当人は両手足に異物が刺さっていることに気が付いたのか、また目を瞑って不快感をこらえている。
 焔はシーツでイグナーツをくるんでやり、運転手に上がってくるよう指示した。
「ほむら、さん・・・・・・」
「なんだ?」
「・・・・・・ごめん。・・・・・・イーヴァ、怒ってた?」
「いいや」
 むしろ怒っていたのは焔のほうだ。
 不規則な呼吸に揺れる肩を抱くと、こつんと銀髪の頭も寄りかさってきた。叫びすぎたのか、喉がつぶれたがらがらとした声が、ひゅーひゅーと辛そうな呼吸の合間に零れ落ちてきた。
「あ、のね・・・・・・、焔さん・・・・・・」
「なんだ?」
「けいやく・・・・・・終わりに、したい・・・・・・」
 予想はできていたが、こんなにひどい結末になったのは、焔も胸が痛かった。
「わかった。あとで、きちんと手続きをしよう」
 こくんと頷いたまま、イグナーツの体はぐったりと力を感じなくなった。
 焔は運転手と一緒にイグナーツの体を抱え、人目に触れないよう車に運び込んだ。