気紛れなオムレット‐2‐


 イーヴァルのマンションへは何度か行っているが、先客がいたことはなかった。イグナーツは一瞬緊張したが、焔が言っていた往診の医者だとわかって、ホッと力を抜いた。強盗と間違えて襲いかかる前でよかった。
「ああ、いつだったかの磔の坊やか。その後は、やられすぎていないようだな」
「え・・・・・・ああ、はい」
 イーヴァルに打っていたらしい点滴を片付けていたのは、緑のくせ毛をしたデューマンの青年だった。この無愛想な雰囲気の医者を、イグナーツもどこかで見覚えがあると思ったら、去年イーヴァルに傷めつけられすぎて担ぎ込まれた病院のスタッフだった。彼はイグナーツを担当した外科の医師ではなかったが、時折化膿止めを処方したり出血と疲労で消耗しきった体を診に来てくれたりしていた。本来は内科が専門らしい。
「薬と栄養は入れておいた。あとは大人しくしていろ。感染力が特別強いウイルスではないが、二、三日は仕事も休んでいることだな。体力を回復させるのが先だ。ああ、それから、無痛症患者は体温の調節も苦手だ。バイタルチェックはできるか?」
「ええっと、アークスのでよければ」
「それでかまわん。熱が上がりすぎたり、体が冷えすぎたりしないように見張っていろ」
 医療器具をまとめたバックを手に下げると、白衣の裾を翻して、デューマンの医者はイーヴァルの部屋を出て行った。
「邪魔したな。治りが悪いようなら、また連絡をよこせ」
「はい、ありがとうございました」
 意外と小柄な白衣の後ろ姿が、エアーコンプレッサーの音と共にドアの向こうに消えると、イグナーツはおそるおそるイーヴァルのベッドに近付いた。
「・・・・・・イーヴァ?」
 大きなベッドで横たわっていたのは、まぎれもなくイーヴァルで、眠っているのか反応はない。頬が少し赤く、呼吸も少し苦しそうだ。
「熱?あるの・・・・・・?」
 指先で前髪をどかして額に触れると、やはり熱い。
 ベッドサイドには処方された薬が一袋置かれていたが、水差しの中はほとんど空だった。
(大変そうだな・・・・・・)
 イグナーツは空の水差しを持ち上げて、キッチンへと向かった。あまり使っていないのがわかる、がらんとしたキッチンで、ミネラルウォーターを水差しに満たして寝室に戻り、そしてまた少し考えて、イグナーツはキッチンに戻っていった。
(んーっと・・・・・・)
 他人の家の中をごそごそ漁っていいのかなと思いつつも、見様見真似で看病らしきものをしてみようと試みているのだ。
 イグナーツは料理が出来ないから、食材がストックされていなくても別に慌てはしなかった。イーヴァルの部屋には、やたらと高性能なオートクックシステムが備え付けてあり、メニューを指定するだけで上等な料理を出してくれた。そのメニューの中に、消化が良さそうなリゾットが入っていることを見つけ、病人が食べられるものが用意できることを確認した。
 それからバスルームに行ってタオルをいくつか拝借し、ついでにクリーニング済みのバスローブと、棚の中にしまいこまれていた脱衣篭も引っ張り出した。さすがに、イーヴァルのクローゼットを勝手に開ける勇気はない。必要になれば、イーヴァルが指示するだろう。
(ええっと、他には・・・・・・)
 一通りの物をベッドサイドに寄せたテーブルに積み上げると、これまたキッチンの戸棚から見つけたボウルに氷水を張って、寝室に戻る。
 冷たい水で濡れたタオルをぎゅっと絞り、そうっとイーヴァルの額に載せる。起きてしまうかとドキドキしたが、薬が効いてよく眠っているらしく、さっきよりも呼吸が楽そうだ。
(・・・・・・なんだか、変な感じ)
 完全無欠に見えるイーヴァルでも、風邪をひくことがあるのだということが、まず一番の驚きだった。イーヴァルとて人間なのだから、体調不良のひとつやふたつはあるだろう。だがイグナーツにとって、イーヴァルの病臥は青天の霹靂で、医師は二、三日で治るといっていたが、とても心配だった。
(痛くないって、大変なんだな)
 いつも痛い目にあわされて大変なのはイグナーツの方なのだが、外側の怪我どころか体の中の病巣も痛くないというのは想像がつかなかった。
(頭痛いとか、おなか痛いとか、そういうのも感じないんだな)
 おそらく、何らかの違和感があったり変化を感じたりはするのかもしれないが、それが鋭い痛みではないせいで、なんとなく放っておいてしまうのだろう。無痛症は生まれつき、遺伝子上に突然発生する難病だが、いまは幼少時に治療を受けることで、だいぶマシになっているはずだ。イグナーツが幼い頃に過ごした病院でも、怪我を避けるために監視が付いた子どもが何人かいた気がする。
(あ、そうだ。バイタルチェックしないと・・・・・・!)
 イグナーツは端末を呼び出し、目の前で寝ているイーヴァルを精査にかけた。
「うう・・・・・・熱が高い。これ保冷剤とかで体冷やした方がいいのか?でも、心拍数や呼吸数、血圧は大丈夫。それから・・・・・・ああ、もう、もっとメディカル関係の勉強しておけばよかった」
 俺病院で育ったんだけどなぁ、などとつぶやきつつ、半分以上わからない記号や数値を前に、イグナーツはぎゅっと眉間にしわを寄せた。
 刻々と変化する数値を見ていても暇なので、イグナーツは別のウインドウから焔へのメールを打った。仕事に忙殺されていて、終業まで見る暇もなさそうだが、とりあえずの状況と、医師に言われたことを伝えておいた。
 イーヴァルの額に載せたタオルをひっくり返し、相変わらず高い熱に濡れタオルを増やした方がいいかと、イグナーツは氷水に新しいタオルを浸した。ベッドの上掛けを少しはがし、ベッドに乗り上がるようにして、イーヴァルの部屋着を緩めた。首元か、脇に納まればいいだろう。
(うう〜、なんか緊張すんな)
 イーヴァルの身体は見慣れているはずだが、長い髪がまとわりつく首や、呼吸に上下する滑らかな鎖骨から胸の辺りは、あらためて見るとかなり・・・・・・。
「ふえあっ!?」
 いきなり内腿をつかまれて、イグナーツは飛び上がるように変な声を出した。
「・・・・・・冷たい」
「な、なんだよ。起きてたのか」
 驚いて落とした濡れタオルがイーヴァルの胸元にあり、それを慌てて取り上げた。
「驚かすなよ・・・・・・。首元と脇と、どっちがいい?それとも、着替えるか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 だるそうな溜息はどれも否定ということだろうか。
「水」
「はいはい」
 水差しから水を移したグラスにストローを挿して差し出すと、一瞬で中身が無くなった。
「はぁ。・・・・・・・・・・・・焔か」
 イーヴァルの声は擦れてしまい、いつもの沁み込んでくるような質感が無い。イグナーツはイーヴァルの部屋着を整え、上掛けを丁寧にかけなおした。
「頼まれたんだよ、納品に行ったときに。アンタが倒れたって聞いても、なんだか信じられなかったけど、なぁ」
「・・・・・・」
「ドクターが往診に来ていたぞ。薬もある。・・・・・・なんか食べるか?」
「いや・・・・・・」
「じゃあ、夕方になったらリゾット持ってくるからな。っと・・・・・・これ、食後でいいんだよな?」
 イグナーツが薬の袋を持ち上げて書かれてある処方を確認していると、ベッドがごそごそと動いた。
「イグナーツ」
「ん?」
 にゅっと伸びてきた手に腕をつかまれて、イグナーツは慌てて薬の袋を落とさないように戻した。
「なな、なんだよ!?」
「入れ」
「は!?・・・・・・俺と一緒じゃ、寝苦しくないか?」
「いい」
「あ、そう。わかったら放せ」
 イグナーツはジャケットとブーツを脱ぐと、イーヴァルに引き寄せられるまま、ベッドの中にもぐりこんだ。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・重い」
 抱き枕のように抱きしめられて少し苦しいのだが、イグナーツはそれ以上文句を言わずに、イーヴァルの少し高い体温を感じていた。
「・・・・・・・・・・・・」
「?」
 頭の上の方でイーヴァルが何か言ったようだが、イグナーツにはよく聞き取れなかった。
(ま、いっか)
 焔にはうつされないようにしろと言われたが、具合が悪くて苦しいとき、誰かの体温を感じていたいという気持ちはよく分かった。
(役得、役得!)
 普段はあまり甘やかしてくれないイーヴァルに、こんなふうにくっついていられるなら、少しぐらい風邪をもらったって構わないと、イグナーツは不謹慎な下心いっぱいにほくそ笑んだ。