気紛れなオムレット‐3‐


 外気に馴染んだ細い体は、火照った体に気持ちよかったが、それよりも確かなものが手元にある安心感が、満足に動けない自分に対する苛立ちを静めてくれた。
 ふと目を覚ますと、ベッドにはイーヴァル一人だけだった。よく寝たためか、体はだいぶ楽になっていたが、それよりもイグナーツがいないことに失望した。ベッドサイドにはタオルやら水の入ったボウルやらが積み上がっていたが、それを用意したはずのイグナーツがいなかった。
(帰ったか・・・・・・?)
 時計を見れば、二十時を過ぎていた。医者の往診があったのが昼過ぎだと思うから、だいぶ時間がたっている。
「イーヴァ?」
 もう一度寝なおそうとベッドにもぐりかけて、間抜けな声に眉を寄せた。
「大丈夫か?そろそろ起こそうかと思ってたんだ。・・・・・・って、何拗ねてんの?」
 寝室に入ってきたイグナーツがベッドのそばまできて、イーヴァルを覗き込んでくる。
「・・・・・・別に拗ねてはいない」
 まだ声がかすれていて、イーヴァルは一つ咳ばらいをした。
「どこへ行っていた?」
「いま?便所。・・・・・・そのくらいで怒るなよ。ほら、もうすぐメシが出来るぞ。起きれるか?無理ならここに運んでくるけど」
「・・・・・・シャワーを浴びたら行く」
「ん。気分悪くなったりしたら呼べよ?」
 一通りイーヴァルのバイタルチェックをして、昼間より熱が下がってきたことを確認したらしいイグナーツは、濡れたタオルや水の入ったボウルを持って寝室を出て行った。
「・・・・・・・・・・・・」
 目が覚めたときにイグナーツがいなかったのは、確かに残念だと思っていた。だが、それを拗ねているとか怒っているとか言われる筋合いはない。
(焔のヤツ、余計なことを・・・・・・)
 本当ならイグナーツをよこしてくれたことを感謝するべきところなのだろうが、そこまで考える理由をイーヴァルは持っていない。ただ、やり始めたサービスは最後まで行うものだし、出来ないのならやらないか、出来る人間をよこすべしと思っている。この場合、イーヴァルが目覚めるまで、イグナーツがベッドにいることだが。
「・・・・・・・・・・・・」
 だがまあ、頭の足りないペットにそこまで要求するのは酷なことだろう。そうイーヴァルは思い直し、ベッドから起き上がった。まだ少し頭がふらつくが、寝すぎて固まった身体を伸ばしながら、シャワールームへと歩いた。

 ダイニングにはリゾットとサラダとスープが並べられ、温かそうな湯気を上げていた。
「ほら、ガウン着てろよ!冷えたらひどくなるぞ!」
 イグナーツに押し付けられたガウンに袖を通したイーヴァルが席に着くと、二人そろってスプーンを取り上げた。
 パプリカとチーズのリゾットやポタージュスープは、イーヴァルにはちょうどいい料理だった。シャワーを浴びている最中までは食欲はないと思っていたが、料理の香りと美味そうに食べるイグナーツの笑顔を見ているうちに、イーヴァルもなんとなく完食してしまった。
「よし、ちゃんと薬飲んで寝ろよ。明日も明後日も、ドクターストップで仕事は休み。焔さんにも言ってあるからな」
「ああ・・・・・・」
 ハチ蜜を垂らしたハーブティーを飲んでいるイーヴァルに薬と水を渡し、イグナーツはせかせかと水差しの水を入れ替えている。
「会社忙しそうだったな。バレンタインって書き入れ時なんだろ?」
「・・・・・・まあ、客単価は小さいが、数が出るからな」
「ふんふん」
 薬を飲み終わったイーヴァルの側で、イグナーツもハーブティーをすすりだした。
「イーヴァもバレンタインには、女の人からいっぱいチョコもらうんだろ?」
「俺か?いいや」
「へ!?会社の女性社員とか、取引先とか、この前のミオラみたいな女優さんとかからも?」
 そんなに意外だったのか、まくしたてるイグナーツに、イーヴァルは頷いて見せた。
「断っているからな。社内でも面倒事のきっかけになりかねないから禁則事項だ。俺や焔宛のギフトは、全て送り返しているか、送り主がわからなければ処分している。会社の案内にも明記されているぞ」
「・・・・・・はあ、ソウデスカ」
 イーヴァルとしては面倒が起きる前にシャットアウトしているだけなのだが、イグナーツはなにやら微妙な顔をしている。
「言っておくが、プライベートは別だぞ。そこまで社員を締め付けるほど、愚かではない。社内恋愛で寿退社した者もいる」
「ああ、うん・・・・・・」
 納得したのか、イグナーツはお茶を飲み干すと立ち上がった。
「んじゃ、そろそろ帰るわ。ちょっと出かけるつもりだったのに帰りが遅いと、マスターが心配するからな」
「マスター?」
 イグナーツからの聞き慣れない言葉に聞き返すと、呆れたようにため息をつかれた。
「うちのチームマスターだよ。おっとりしたいい人なんだけど、ちょっと心配症でさ。別に変な関係じゃねーっつの」
「ああ」
 アークス個人によって結成可能な、共闘グループの発起人の事だ。イーヴァルはソロだと思っていたのだが、いつの間にかイグナーツも所属していたらしい。
「大人しく寝てろよ」
 しつこいぐらいに言い置いてイグナーツが帰っていくと、イーヴァルは寝すぎて冴えた目が、満腹と薬で眠くなってくるまで、一人掛けのソファで思案を重ねた。途中で焔からのメールに気付いて返信をすると、ベッドに移動して目を閉じた。
 のびのびと手足を伸ばして横になると、すぐに意識に靄がかかってきたが、腕の中に別の鼓動と寝息を感じながら寝るのも悪くなかったと思う。体調が戻ったら、またいい声で鳴かせることにしようと、イーヴァルは深く心に決めた。


 週末にかかるバレンタインデーに、イーヴァルはスイーツ食べ放題のプランを用意してイグナーツに連絡を取った。
『ぅ・・・・・・風邪ひいた・・・・・・』
「この馬鹿者が!」
 ガラガラの声で唸っているビジフォンを切って、イーヴァルは焔に愚痴ったが、うつしたお前が悪いと一言に切り捨てられてしまった。
 イーヴァルと焔のそれぞれの自宅に届いた、小さなチョコレートの箱だけでは気がおさまらないが、それでも相手が寝込んでいるのではどうしようもない。
 それまでバレンタインデーなど、ただの世間一般のイベントの一つとしかとらえていなかったイーヴァルであったが、この時ほどイチャイチャしながら外を歩いているカップルを憎悪した年はなかった。

 体調不良から復帰した社長の機嫌が悪く、過労でふらふらしながらも機嫌のいい副社長が対照的だったが、次の週末には二人ともツヤツヤと元気で機嫌がよくなったそうだ。
「まあ、チョコでも食って元気出せよ」
「ううう・・・・・・」
 代わりに、親友にからかわれながら、風邪は治ったものの、涸れたようにぐったりと寝込んでいるアークスが一人、いたとかいないとか。
「やっぱりろくなことになんねー」
「いまさら何言ってんだ。来月はホワイトデーがあるんだぜ」
「もうやだー」
「よく言うぜ。まんざらでもないくせに」
「ひぃん・・・・・・」
 ケーキまみれになりながら二人がかりでやられすぎて、ぴきぴきと痛い腰をレルシュにさすってもらいながら、イグナーツはクロムからもらった義理チョコを口に入れた。
「やっぱ、甘いのが一番だよな」
「・・・・・・まあ、な」
 いつになったらレルシュたちに同情されなくなるのかと、イグナーツはちょっと涙が出そうになった。イグナーツが抱きしめられるだけで幸せだということを、イーヴァルはまだ当分わかってくれそうもない。