気紛れなオムレット‐1‐


 壁ひとつ向こうが絶対零度であり、エアーコンディショナーが完璧に動いているアークスシップでは、季節の温度変化などまったく関係ない。
 それでも暦は二月に入り、バレンタインデーが近づいて、そわそわしだす男女はそこらじゅうにいた。
「落ち着け、ファムたん」
「だってさぁ、だってさぁ・・・・・・」
 愛しいノエルへのチョコレートを用意して、それを渡す日を心待ちにしているラダファムは、そわそわそわそわと落ち着かない。クエストに出ても上の空で、マイルームにいてもぐるぐる回っているか、ベッドでため息をついている。
 そんなあぶなっかしい状態の後輩をイグナーツは眺めているわけだが、ここまでわかりやすく自分の気持ちを表に出せるラダファムが、いっそ羨ましくも思えてきた。イグナーツの場合は、期待するだけ無駄というか、こちらが仕掛けたアクションで結果がどう転ぶかわからない危険がある分、素直になりきれないのだと自分に言い聞かせている節もある。なにしろ、イーヴァルの誕生日は散々だった。
「デートの約束は?」
「した!」
「デート服は?」
「決めた!」
「チョコは?」
「用意した!」
「じゃあ、他にやることねーべ。その日になるまで大人しくしてればいいじゃん」
「ううぅ〜〜っ」
 頬を染めてまたぐるぐる歩き回りはじめたラダファムには、高ぶる若い慕情をコントロールするのが難しいようだ。
「ナッツはなんでそんなに冷静なんだよ!」
「そんなこと言われてもな・・・・・・」
 甘い物が嫌いではない相手だが、だからといってイグナーツからのチョコレートを喜んで受け取ってくれるかどうかは微妙だ。そのまま体を要求される方が想像しやすい。しかも痛いのがわかっているぶん、テンションは微妙にならざるをえない。
「ナッツは心配じゃないのかよ!あの人なら、絶対ほかの人からのチョコだって来るはずだろ!?あああああ、ノエルにもきっといっぱいチョコが来てるんだろうなぁ〜。俺のチョコ、これで大丈夫かなぁ〜」
 頭を抱えて情けない顔をしだしたラダファムに、イグナーツはかろうじて「考えすぎだ」と返したが、たしかにイーヴァルはモテる。
 中身は置いておいて、顔の良さと金だけはある男なのだ。去年のイーヴァルの誕生日に起こったトラブルを考えてみれば、一般人からは高嶺の花といって差し支えない女性からのチョコだって届くだろう。
(むーん、ちっと面白くねぇかな)
 イーヴァルは全然気にしないだろうし、イグナーツもそれはわかってはいるのだが、やきもちというには小さすぎる、もやもやしたものが湧かなくもない。
(ちょっと様子見てこようかな)
 ちょうど依頼されていた物品が揃ったところだったし、イーヴァルが忙しくなければ、少し話をすることもできるかもしれない。
 イグナーツは立ち上がって、まだ一人で悶々ともだえているラダファムを残して出かけて行った。

 高級紳士服ブランド「レイヴン」の本社は、オフィス街のなかでも大きなビルを丸ごとひとつ占領していた。
 イグナーツは注文されていた龍族の水晶やガルフルの毛皮を抱えて、受付嬢に資材課への訪問許可を求めた。
「はい、アークスのイグナーツ様ですね。お世話になっております。ただいま資材課が来客中でして、少し混んでいるかもしれません。担当者としてモリノが承りますので、彼を訪ねてください」
「了解しましたー」
 営業スマイルの受付嬢たちに愛想よく笑顔を返し、イグナーツはテレポーターでビル内を移動した。
 イグナーツは、「レイヴン」は服飾企業であるから、社内も「レイヴン」の店舗のように重厚な雰囲気なのかと思っていたが、そうではなかった。エントランスは店の雰囲気に近く、休憩所は小洒落たカフェのようだったが、その他はほどほどにシンプルな内装だった。そして、様々な服飾素材が持ち込まれる資材課は、物流センターかと思われるほど、いつも荷物が積み上がっていた。広々とした倉庫のようにぶち抜かれたフロアの一角だけが壁で仕切られ、そこが事務所のようだったが、イグナーツはそこまで入ったことはない。
「すんませーん。モリノさんいますかー?」
「はい、はーい!・・・・・・いま行きまーす!」
 ざわざわと賑やかな空気に負けないように声を張り上げると、タグが貼り付けられたコンテナの向こうから声がして、イグナーツは資材課のカウンターでしばし待った。
「すみません、お待たせしました!」
 ばたばたと走ってきた眼鏡のおじさんのネームプレートに、「モリノ」とある。イグナーツもここに荷物を届けに来て、何度か見かけた事がある人だった。
「ああ、ご苦労様です」
「これお願いします」
「はい、はい。たしかに」
 手早く検品するモリノの向こうで、何人かの男たちが集団で歩いていた。
「ああ、受付で聞いたお客さんって、あの人たちの事?」
「ええ。布地を扱うメーカーが見に来ているんですよ。はい、オッケーです」
「あ、ども。んじゃ、お邪魔しました・・・・・・」
 受領サインをもらったイグナーツが踵を返そうとして、誰かに呼ばれたような気がして振り向いた。
「へ?」
「イグナーツ!」
 先ほどの男たちの集団の中から、見知った男が一人抜けて駆けてきた。
「焔さん?」
「イグナーツ、丁度良かった。頼みがある!」
 せわしなくイグナーツの腕をつかんだのは、「レイヴン」の副社長である焔だった。そのまま壁際まで引っ張っていかれたイグナーツの耳に、焔の口が寄せられる。
「イーヴァの様子を見てきてくれないか?」
 自分の期待を見透かされたのかと思って、イグナーツはドキドキと胸が躍ったが、焔の様子が少しおかしい。
「どうしたの?」
「風邪を引いて倒れた。いま、自分のマンションで寝込んでいるはずなんだが・・・・・・」
「・・・・・・えっ!?」
 イーヴァルと、風邪という単語が結びつかなくて、イグナーツは軽く混乱した。あのイーヴァルが、風邪を引いた?
「マジ、ですか?」
「・・・・・・あいつはどこが痛いか自分でわからないから、気付かないうちに間に治るか、今回のようにこじらせるかの二極なんだ」
「あああ・・・・・・」
 イグナーツは額に手を当て、言葉を失った。そういえば、イーヴァルは無痛症だった。怪我をしても痛くないが、病気でどこか痛くても、自覚できないのだ。人間として当たり前の防御機能が働いていないせいで、風邪を放っておいてしまい、こじらせたのだろう。
「一応、医者に往診は頼んだが、自分で自分の事が出来るかどうか・・・・・・。俺も様子を見に行きたいが、ちょうどバレンタイン商戦の只中で、どうしても仕事が詰まっていて・・・・・・イーヴァの分も片付けなくちゃいけないしな」
 なるほど、バレンタインのプレゼントに、「レイヴン」の小物は喜ばれるだろう。ある意味書き入れ時だ。
「わかりました。行ってきます」
「すまない。うつされないように気をつけるんだぞ」
「はい」
 イグナーツが頷くと、焔はまた忙しそうに集団のなかへ駆け戻っていった。
「副社長と、お知り合いなんですか?」
 意外そうに眼鏡の奥の目を丸くさせているモリノに、イグナーツははにかんで言葉を選んだ。
「え、ああ・・・・・・ちょっと別件で、人伝に知り合って。その関係で、「レイヴン」の仕事もしてみないかって誘われたんですよ」
「ああ、なるほどねぇ」
 トップが若いせいか、「レイヴン」は年若い人が高い役職についていても不思議ではない。下っ端アークスと思われているイグナーツが、焔から直接言葉をかけられても、それほどありえないことではないのだろう。・・・・・・実際は、社長のイーヴァルを含めて、もっとありえない関係なのだが。
「んじゃ、お邪魔しましたー」
「ご苦労様です〜」
 イグナーツが届けた素材を抱え上げたモリノに見送られ、イグナーツは忙しさと活気に満ちた「レイヴン」の本社を後にした。