お菓子の城‐6‐


 イーヴァルの声が聞こえた気がして、イグナーツはぼんやりと自分を自覚した。
 そしてすぐに、周囲へと感覚を広げる。誰かいた。どこか安心できる大きな影。それから、声が聞こえる。知っている声と、知らない声と。
「まあな」
「・・・おお、『混血』か・・・・・・」
(混血?・・・・・・レルシュのことか!?)
 出て行けと声を強くするレルシュが、イグナーツを守ってくれようとしている。そして、その相手はレルシュを馬鹿にした。
 イグナーツの中で、ふつふつと怒りがこみあげてきて、肺にたくさんの空気を送り込むように脳が命令を下す。起きろ。ヤツらの相手は自分だ。
 明るい世界は、思っていたほど明瞭ではなかった。でも、すぐそばから、仕立てのいい服からただよう独特の香りと、体に刻み込まれた気配があった。それだけで、心強さが増した。
 どうにか起き上がろうとすると、温かくて力強い腕が支えてくれた。しかし、感謝する気持ちを伝える前に、イグナーツを守ろうとしてくれる二人の背中が見えた。
「レル、ファムたん・・・・・・」
 まだ、頭がふらふらして重い。身体の中心に、ひきつるような違和感がある。でも、自分でやらなきゃいけない。耳から入ってくる声に返事をするので精いっぱいだけど、相手が知りたいことはわかる。
(俺の眼を、見たいんだろう?)
 なんとか顔をあげ、長い前髪を指先でかき上げて、ベッドを取り囲むように立っている連中を見渡す。よく知っている白衣の壁。だけど、博士たちが付けていたミラーコーティングのグラスじゃない、その辺にある色の薄いサングラス・・・・・・。
(あれ?)
 妙によく見える、目、目、目・・・・・・。自分を見つめる目たちを見つめ返し、即座に自分が禁忌を侵したと思いだした。レルシュの叫ぶような声も耳にいたかったが、いまさらどうにかなるものでもない。
 悲鳴を上げ、次々と自分の命を絶っていく人たちを、イグナーツはぼんやりと眺めていた。粗相をしたような罪悪感があったが、謝る相手がいないこともわかっていたから、何も言うことはなかった。
 でも、柔らかなコートが頭からかぶさってきて、顔に当たるのを退けようとして、顔が濡れているのに気が付いた。こんなことでも悲しいのだ。興味本位で求められて、目の前で最悪の形で拒絶されて、また恐怖と嫌悪と興味を周りに撒いてく。他に代わってくれる人もいないし、憐れんでくれる人もいない。自分のこの気持ちをうまく言葉にすることは難しかったが、誰にも助けてもらえないことだけは確かな自分が可哀そうだとは思えた。
 担ぎ上げられて運ばれたのは、馴染みのある空間だった。自分のベッドの上に転がされて、ぽろぽろ溢れる涙を一生懸命手で拭った。
「寝顔よりも泣き顔の方が子供っぽいというのはわかった。だから、もういい加減に泣き止め」
「ひっく・・・・・・、なん、だよ・・・・・・。いっつも、泣けっていうのに・・・・・・」
「俺が泣かしているでもないものが、楽しいわけないだろう」
 至極真面目に返された答えに、イグナーツは思わず微笑んだ。ああ、こいつはやっぱりイーヴァルだ、と。
「ああ、ごめん・・・・・・」
「わかればいい」
 イグナーツはイーヴァルのコートを下敷きにしていることに気づき、ベッドの端に腰掛けたイーヴァルにコートを返して、自分のベッドにもぐりこんだ。とても落ち着く。
 落ち着いたところで見上げてみると、イーヴァルは偶然にもミラーグラスをかけており、このおかげでイグナーツの眼の影響を受けなかったのだとホッとした。イグナーツの眼が、相手の感覚器官としての眼と認識しない限り、「目が合った」ことにはならない・・・・・・というのが、今のところ大きな被害を出しながら導き出されている定説だった。だから、イグナーツが自分の視線をぼやけさせるか、相手が自分の目を見せなければ、日常生活では十分に防げるはずなのだ。ただ、現在のイグナーツに自衛が万全だという自信がないので、なるべく視線を追わせないように瞼を伏せた。
「なんで、こんなところにいるんだ?」
「約束の二週間後だ」
「え・・・・・・」
 もうそんなに日がたっていたのかと、慌てて時計についたカレンダーを見ると、やはり最後にこのベッドを出てから一週間以上が過ぎていた。
「そんなに・・・・・・」
「俺の予定はちゃんと空けてあった。仕事も終わらせた。この落とし前、どうつけるつもりだ?」
「え、う・・・・・・」
 なにやら効果音が付きそうなオーラを背後に立ち上らせているイーヴァルに、イグナーツはシーツを手繰り寄せて薄い防壁にした。
「わ、悪い・・・・・・」
「・・・・・・ふん。まあ、珍しいものは見せてもらった。それでチャラにしてやろう」
「・・・・・・・・・・・・」
 あの酸鼻極まる現象を「珍しいもの」で片付けられる神経が、やはりイーヴァルがイーヴァルである所以だろう。
「怖くないのか・・・・・・?」
「別に。それよりも、お前が見せてくれる恐怖というものに、興味はある。・・・・・・ぜひ、見てみたいものだ」
 どこかうっとりと唇を歪ませるイーヴァルに顔を撫でられ、イグナーツはもう一度、鼻の奥がツンと痛くなった。
「いいぜ。そのミラーグラスを取って、俺の眼を見ればいい」
「いいのか?」
「ただし、俺を放っておけばあと三秒で死ぬ状態にしてからだ」
 意味が分からなかったのか、小首をかしげたイーヴァルに、イグナーツはなげやりに笑って見せた。
「俺の死んだあとのことなんか、知ったこっちゃないからな。アンタが狂うところなんて、見たかねぇよ」
 高級紳士服のブランドオーナーが、いちアークスの自室で変死したなんてニュースは、恥ずかしくて見てられないと付け加える。
「無理な注文だな」
「は?」
 毅然と商談に臨む社長の態度で、イーヴァルは自分の不利益をイグナーツに指摘してみせた。
「何パーセントの割合かは知らないが、あのデューマンのアークスや研究員のように、お前の眼の影響に耐性がある人間が存在する。もしも俺がその何パーセントかに属する人間だった場合、俺は恐怖を見ることができず、さらに貴重な玩具をも失うことになる。・・・・・・ばかばかしい。話にならん」
 イグナーツは客観的に、いま自分はぽかんとしている状態なのだろうと自覚した。イーヴァルの指摘は確かにその通りなのだろうが、そういう考え方をする人間が存在することが、イグナーツにとって想定外だった。
「・・・・・・変なの」
「変なのはお前だ。理論的な話をしろ、低能」
 イーヴァルに言いきられ、イグナーツはなんだか自分の頭がすごく悪いような気がしてきた。あれだけ苦しんでいたのに、何が悲しかったのか、どうして辛かったのか、のどに詰まって言葉にならないでいたものが、イーヴァルにかかると、あまりにもあっさりと片付けられてしまい、やるせなさやもどかしさを訴えるよりも、そんなものだと諦めてしまったほうがいいような気がしてきた。
 イグナーツの眼によって、理由なく人が狂死していく事実は変えられないし、それはとてもイグナーツを苦しめたが、恐れるに足らぬと一蹴されてしまうと、かえって自分の方が臆病だったのかと戸惑わずにはいられない。もちろん、それは相手がイーヴァルだからそう思えるのであって、いままでに言われたことのないことを、全ての人に対する基準にするつもりはなかったが・・・・・・。
「なんか、アホらしくなってきた・・・・・・」
「アホはお前だ。だいたい、こんな怪我をするくらいなら、最初から俺に飼われていればいいのだ」
「わあっ、なにすんだ!?」
 シーツをはぎ取られ、病院服もめくりあげられると、イグナーツの体には包帯が巻かれているだけだった。
「ずいぶん傷口が大きそうだな。どれ・・・・・・」
「包帯ほどくな!あと、嬉しそうに言うんじゃねえ!串刺しだぞ!?すげえ痛かったんだからな!!」
「・・・もったいない。俺もその場にいたかった」
 実に残念そうに言うイーヴァルに、イグナーツは思わず拳を握りしめた。許可さえ出れば、この変態をアザーサイクロンでぶん回したい気分だ。
「っ・・・・・・!」
「ふぅん・・・・・・うしろから刺されたのか」
 イーヴァルはイグナーツの腹の縫合痕を指でなぞった後、背中にある縫合痕も、丁寧になぞっていく。強く押されなければ痛くはないが、傷をこじ開けられそうな雰囲気は、気色のいいものではない。
「っ、はぁっ・・・・・・、イーヴァ、よせ・・・・・・。気持ち、悪い」
「ふん」
 ぐったりとイーヴァルにもたれかかったままのイグナーツに、さすがに無理がきかないと判断したのか、それとも単につまらなくなったのか、イーヴァルは傷痕をなぞるのをやめてくれた。
 イグナーツはそのまま、包帯やガーゼが散らばるベッドに寝転がり、クラクラする頭と吐き気に目を瞑った。
「やれやれ。いい眺めなのに、もったいないことだ。早く回復しろ」
 なんでアンタの都合にあわせなきゃならないんだと言い返そうとしたところで、くしゃりと髪を撫でられて、びっくりした。
「お前の身辺調査をさせてもらった」
「は?」
「生まれた時から快癒するまで、ずっとアークスが管理する病院にいたことも知っている。お前の鎖を握っているのは、さっきのような連中か?」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあ、あんな間抜けがお前の生殺与奪を握っているわけがない。シップの縄張り意識に囚われない、もっと上のやつだろう」
 イグナーツ自身も、自分がどこまで上の人間に見られているのかは知らなかったが、たしかにあんな無防備な研究員に絡まれたことは今日まで無かった。
「その目を潰したかったら言え。俺が潰してやる」
「でも・・・・・・」
 目が見えなくなったら、イグナーツは戦えない。アークスとしても、研究材料としても役に立たなくなる。
「この目は嫌いだ。だけど俺、体質で人工臓器入れられないし、本当に盲目になっちまうから、アークスとして働けなくなる」
「別にかまわないだろう。俺の玩具として飼われていればいいだけの話だ。壊れるまで、俺にいい鳴き声を聞かせ続けてくれれば、世話ぐらいしてやるぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
「お前の鎖を持っているのが、アークスから俺に変わるだけだ。犬にはお似合いの生き方だな・・・・・・で、なんで泣いている?」
「っ。だって・・・・・・」
 自分を憐れんでこぼした冷たい涙とは違う、驚くほど熱い涙がぼろぼろとこぼれて、どうにも止められなかった。イグナーツは自分の額に載せられたままの大きな手を両手でつかんで、包むようにさらに額に押し付けた。
「もうちょっと、このままでいて・・・・・・」
「変なやつだ」
「うっ・・・・・・ひっく、アンタが、泣かしてるんだ。もうちょっと・・・・・・喜べ・・・・・・っ!」
 涙で視界がぼやけたイグナーツには、そのときイーヴァルの唇が邪悪に笑みの形を作ったかどうかはわからなかった。ただ、この悪魔の元へ永久就職できるという誘惑に、痩せこけた心が救われたことだけは、確かだった。