お菓子の城‐2‐


 疲労しきった心身のせいで、一度深く沈んだ意識が、水音と人が立てる物音で急速に覚醒した。しかし、周囲は暗いままで、寒い。
(おい・・・・・・)
 いつものことながら、呆れる。体の拘束も解かれていないし、シーツの一枚もかけられていない。やりっぱなしだ。
(やれやれ・・・・・・)
 ひとつ大きく息を吐き、やや痺れた四肢に力が入るかどうか試みる。少し勢いがつけば、なんとかなりそうだ。
 その時、室内のドアが開く音がして、ふわりと温かい空気が動いた。
「ようやく目が覚めたか」
 冷ややかというには甘く、穏やかというには妖しい色気を含んだ低い声が、人の気配と一緒にイグナーツに近付いてきた。
「のんきなことだな」
「ぃ・・・・・・けほっ、はっ・・・・・・」
 からからに乾いた喉からは、叫びすぎて嗄れた息しか出なかった。
「ククッ、いい鳴きっぷりだった」
 目隠しにかかる長い前髪をかき上げるような指の動きに、イグナーツは反射的に腕を動かして、相手の手を肘で打ち払った。そう強くはないが、明確な拒絶だ。
「さわんな・・・・・・!」
 擦れたしわがれ声しか出なかったが、真剣さは相手にも伝わったようだ。
「・・・・・・やれやれ」
「どけよ・・・・・・ふっ!」
 頭上で拘束されたままの両手をベッドにつき、両腕と肩を支えに、腹筋と胸筋を緊張させて、下半身を持ち上げる。そのまま、後転の要領で体を頭上に向かって倒し、ベッドの柵を背後に起き上がる。
「いっつつ・・・・・・!」
 錐で刺された左足と、同じく傷付けられた腿の痛みに、バランスが崩れそうになる。なんとかうずくまる手前でこらえ、手探りで手首の革ベルトを外しにかかった。
「ほう。ダイナミックな縄抜けだな。次回は縛り方を変えるとしよう」
「・・・・・・・・・・・・」
 からかわれても、言い返す元気が出ない。自由になった手で、少しだけ目隠しをずらして視界を確保し、両脚の革ベルトも手早く外す。のんびりしていると、それだけ痛みがぶり返してきて、動く気力がなくなってしまう。
 ベッドを下りて服に手を伸ばしたイグナーツに、少し不満げな声がかかった。
「シャワーぐらい使っても構わないぞ?」
「いい・・・・・・すぐに帰る」
「いっそのこと、ここに居させたいのだがな」
「勘弁してくれよ。俺の鎖は今のところ、アンタじゃなくて、アークスに繋がってんだよ」
「ふん、不愉快だな」
 血と精液で汚れたシーツで、簡単に自分の体を拭い、イグナーツは痛みをこらえて自分の衣服を身に着け、最後に背を向けて目隠しを取り、素早くサイバーグラスを付けた。
「ふぅ」
 目をしばたき、部屋の明るさに慣らす。サブライトと間接照明だけの薄暗い室内だったが、一切目を閉じていた後では、少し目を眇めずにはいられない。
「腫れてきているな」
 舌舐めずりでもしそうな微笑をたたえ、イグナーツの顎をとって上を向かせた人物が見下ろしてくる。黒髪に、紫の目をした、すこぶる綺麗な顔をしたニューマンの男。180センチあるイグナーツよりも頭一つ分近くも背が高く、体の幅も厚みも多い。均整のとれた立派な体つきの彼の横に立つと、余計にイグナーツがひょろ長く見えるだろう。名前はイーヴァル、イグナーツのクライアントの義兄で、高級紳士服ブランド『レイヴン』の社長だ。
「泣き顔は、アンタのご要望だろうが、イーヴァル」
「クククッ」
 そして、とんでもないサドであることは、イグナーツの身体中に残された傷で、万人に証明できる。
「こうしてグラス越しには見えるのに、素顔を見られないのは残念だ」
「やめてくれよ。これ以上この目に興味を持つなら、アンタとはこれっきりだ。いくら金を積まれてもな」
「ふむ、その方が残念だな」
 泣き腫らした目元でも舐めたそうな雰囲気だったが、自分の趣味に付き合ってくれる稀な人間を手放すが惜しいのか、それとも十分に欲求を満たせた余裕なのか、イーヴァルはイグナーツの顔から手を離した。
「じゃあな」
「また二週間後に連絡する」
「・・・・・・はぁ。はいはい」
 痛む足をひょこひょこと引きずりながら、イグナーツはイーヴァルのプライベートルームを後にした。
 マンションの高層階をワンフロア持っているイーヴァルに呼び出された後は、テレポーターで階下まで下り、いつも待機している車に乗り込む。
「お疲れ様です」
「どーも」
 運転手はいつもの男で、イーヴァルは備え付けの端末からクライアントにアクセスして、オーダーの達成報告を上げた。まあ、いつも通りの成果といっていいが、いつも通りの被害状況だとも付け加えておく。さすがに足の甲を攻撃されるのは、人間の身体構造上痛すぎた。まともに歩けやしない。
 すぐにクライアントの焔から返信が来て、いつも通りの謝礼を振り込んだことと、毎度申し訳ない、助かる、といった言葉が並んでいた。
「はぁ・・・・・・」
 窓の外に人工の夜景が過ぎていくのを見ながら、イグナーツはシートに体を預けて、うずく痛みをこらえた。
 委細呑み込んでいる運転手は余計なことを喋らず、車内は静かな駆動音だけが響いていた。やがて、アークスロビーの入り口に到着すると、ドアの安全ロックが外れた。
「歩けますか?」
 イグナーツがマンションのエントランスで、足を引きずりながら歩いていたのが見えたのだろう。心配そうな運転手に、イグナーツは明るい笑顔を見せてやった。
「なんとかね。お疲れさん」
「お気をつけて」
 手をあげて送迎の車と別れると、イグナーツは人気の少ないロビーへと、足を引きずりながら、なるべく急いで歩き出した。深夜を過ぎて閑散とはしているものの、こんなに弱った姿で歩いているのを見られたくない。
 外傷による血圧の低下で貧血を起こし、眩暈と吐き気がした。それでも、その辺で倒れるわけにはいかず、イグナーツは根性で自分のマイルームにたどり着いた。
「はっ・・・・・・はっ・・・・・・」
 そのままシャワールームに転がり込んで、ぐったりと倒れるように床にうずくまる。震える指でシステムを動かし、ブーツもジャケットも着たままの体に温かい湯が降り注いできた。
「はぁ・・・・・・ふう・・・・・・」
 暖かく湿った空気を吸い込み、冷えた体が少しずつ温もりに弛緩していくと、ようやく眩暈がおさまってきた。
 床に座りなおしたイグナーツはサイバーグラスを外し、湯がしたたり落ちてくる長い前髪をかき上げた。普段人前でさらすことのない切れ長の目は、あまり穏やかなイメージはない。金色の目は瞳孔が小さく、自分でも特徴的だと思う。グローブを外して手のひらの沁みる痛みに顔をしかめる。痛みをこらえてもがいた時に爪が食い込んで、両手共に傷になっていた。その手のひらで顔を覆えば、肉付きの薄い骨格に触れる。
「はぁ・・・・・・あー・・・・・・」
 疲れはてて、少しも動きたくなかったが、このままここで寝ると、異常を検知したシステムがアラームを鳴らす。住人の許可もなく踏み込んできた救急隊員に、この傷だらけの身体を見られるのは嫌だ。
 なんとか自分を叱咤して、びしょ濡れになった服を、一枚一枚脱いでいく。
「いっつ・・・・・・ぅ!」
 沁みる傷が多すぎて、怒りすら湧いてくる。両手両脚の束縛痕はまだいいとして、ナイフの傷と錐の傷を見るたびに、よく正気でいられるものだと自分で感心してしまう。
(あのやろう、何回刺しやがった?)
 腫れた足の甲と同じ傷口が、太腿に合計五か所もあった。全部が痛くていくつあるのかも視認するまでわからなかった。いたぶって遊んでいる時だけでなく、セックスの最中も刺していやがったに違いない。
 その他に、わき腹やふくらはぎ、尻、二の腕に、ナイフによる切り傷、胸や腰に爪痕・・・・・・。今回はなかったが、前回は首筋に噛みつかれて、本当に喰われるかと思った。
「はぁー・・・・・・」
 散らばった衣服の上に座り込んで、イグナーツは降り注ぐシャワーを見上げて目を閉じた。
「・・・・・・・・・・・・」
 あのまま、イーヴァルの部屋でシャワーを使いたかった。だけど、そこで動けなくなりそうだから、いつも自分の部屋まで帰ってきていた。
 あの苦痛と快楽に満ちた生ぬるい牢獄から動けなくなったら・・・・・・きっと、イーヴァルのイグナーツへの興味は半分以下に激減するだろう。あの男は、獲物をいたぶるのと同時に、完全に自分の物にする過程も楽しみたいのだ。
(俺は・・・・・・あいつのものになるのか?)
 それはありえない。少なくとも、イグナーツの意思では。だが、イグナーツの心が折れたら、自動的にイーヴァルの物に成り下がるのだろう。
(はぁ・・・・・・むなしい)
 イーヴァルの遊びに耐えるのはきつかったが、高額の支払が滞ったことはないし、それどころかボーナスと言わんばかりに高価な贈り物が届けられることもあった。イーヴァルだけでなく、イグナーツのこともちゃんとイかせてくれるセックスは、痛いのを除けば気持ちがよかった。
 焔に感謝されるのも、イーヴァルに満足してもらえるのも、実を言えば嬉しかった。でも、何か満たされなかった。
「はぁー・・・・・・いってぇ・・・・・・」
 イグナーツのフォトンが、体中の傷を癒そうと躍起になっているのがわかる。でも、それすらむなしかった。全然テンションが上がらない。
(疲れているんだ・・・・・・)
 そう、きっと疲れすぎていて、気分が上向かないのだ。ベッドでゆっくり眠れば、すぐに回復するはずだ。
「・・・・・・ああそうか」
 顔に打ちつける温かな水滴に、ふと目を開け、唐突に思い当った。どうしてこんな気分になっているのか。
(やっぱり、気になるもんかな)
 動けないイグナーツの目隠しに手を伸ばしたイーヴァル。それはだめだと説明していても、あの男の支配欲は変わらないらしい。戯れのように触れたところが、イグナーツの心に傷をつけたとは思っていないだろう。
(あいつ、ほんとドSだわ・・・・・・)
 いまさら涙があふれてきて、イグナーツは傷ついた体を丸めるようにして、抱えた膝に顔をうずめた。体とは別のところが、ひどく痛かった。