追憶のマルガリータ‐2‐


 ・・・・・・んぎゃぁ・・・・・・ぅんぎゃぁ・・・・・・

 ふっと目を開けたイーヴァルの中に、目まぐるしいスピードで、様々なデータと数値が流れ込んでくる。
『システムオールグリーン。バックアップ、レディ』
『A.P.21・・・・・・ザザ・・・・・・AM4:46 前日比10分8秒遅』
『湿度上昇感知、不快指数170% 要早急処置』
『・・・・・・36.38℃、脈拍・・・・・・ザザ・・・・・・想定・・・・・・』
『最終経口摂取より五時間経過。栄養補完ミルクの要請開始。完成まで180秒・・・・・・』
 巨大な箱型医療機器たちの中に埋もれた、小さな小さな医療ポッド。そこから、くぐもった泣き声が漏れ出ていた。
「オハヨウゴザイマス!いぐなーつクン」
 ぎょっとしたイーヴァルのすぐそばを、白い物体が駆動音を立てて動いて行った。見た感じ、ずんぐりとしたテルテル坊主か、雪だるまのようなフォルムだ。しかし、頭と胴体の間のくびれは、さほど深くない。
「ヨク眠レマシタカ?今日モ元気デスネ!イマ、オシメ替エマスヨ〜」
 ロックが外れた医療ポッドの透明なふたが上がると、保育ロボットが足まわりを残してぐいーんと垂直に伸び上がった。そして、ボディの横から、よくそれだけの収納があると驚くほど長い四本の腕が伸び、器用に赤子をあやし、慣れた様子でおしめを替えはじめた。
 UR−9PCC・・・・・・その機種コードがすぐに出てきたのは、イグナーツがかつてイーヴァルに語った容姿そのままだったからだ。
「ハイ、スッキリシマシタネ〜。イマみるく持ッテキマスヨ〜」
 ロボットと認識させるためにわざとなのか、もっと高音質が可能なのにぎこちない音声を駆使し、保育ロボットUR−9PCC・・・・・・通称ナインは、妙に人間臭い言葉使いをする。
 器用に丸めた使用済みおむつをダストシュートに放り込みながら、ナインがミルクを取りに行っている間に、イーヴァルは・・・・・・というより、イーヴァルの意識は、医療ポッドに接近した。
「・・・・・・んぎゃぁ・・・・・・ぁんぎゃあ・・・・・・」
 その赤ん坊は、生後半年ほどにはなるのだろうか。それとも、すでに満一歳を迎えているのか・・・・・・育児に興味のないイーヴァルにはわからない。いや、たとえ興味や知識があったとしても、赤子の月齢が判断できずに、首をかしげていただろう。なにしろ、あまり血色がよくなく、泣き声も元気が足りない。痩せているのに青くむくんだような、一目で病人とわかる乳児だった。
(イグナーツ・・・・・・?)
 まだ細く柔らかな頭髪は、見慣れた淡い青灰色よりもさらに白く、銀糸というよりもたおやかな絹糸のように見えた。
「・・・・・・っんぎゃ・・・・・・・・・・・・ぅ?」
 乳児服に包まれた小さな手が、何かを掴みたそうに、ぎゅっぎゅっと動いた。
「オヤァ?ナンダカ、ゴ機嫌デスネエ。ドウシマシタカ?」
 哺乳瓶をよく伸びる手のひとつに掴んだナインが戻り、その頭の一部がぐるりと反転して現れる古臭いLED板に笑顔を描いている。・・・・・・そう、LED板だ。液晶ですらない。乳幼児の目にも認識しやすいように、という理由でなければ、これを作った人間は病的な懐古趣味に囚われていたのに違いない。
「ハァイ、みるくデスヨ〜」
 三本の腕に優しく抱き上げられ、哺乳瓶を小さな口に咥えて飲み始めても、乳児はどこか別のところを見つめているようだ。
「オヤァ?ナニカ変ワッタ物デモアリマスカ?」
 ナインのセンサーがあたりを精査しているのがわかったが、それよりもイーヴァルは、初めて見るものに視線を奪われていた。
(これが・・・・・・イグナーツの目か)
 乳児にしてはふくよかさの欠ける頭部のなかで、くりんとした目が大きく見開いてイーヴァルを見つめていた。
 それは、瞳孔の小さな、金色の目だった。

 ぞわりとした悪寒も一瞬に、激しいノイズが頭の中をかき乱した暗転から、イーヴァルは人の声に再び目を開けた。
「・・・・・・じゃ・・・・・・だ?」
「さあ、どうかなあ」
「代用できる部品だって、もうほとんど残っちゃいないだろ」
「そうは言っても、このタイプじゃないとダメだって。俺だってアンドロイドで良いと思うんだけどさ。キャストと違って、どうせ生きてるわけじゃないし」
 目の前で話している連中は、おそらくエンジニアだろう。見渡すと、メンテナンス中と思われるナインがいた。
「よし、バックアップ終わり。圧縮完了」
「こっちも終わった。やれやれ」
 再起動を果たしたナインがドライブモードにシフトすると、頭部の一部が反転し、あのLED板が笑顔を描いた。
『システムオールグリーン。エラー箇所修復確認。』
「修理アリガトウゴザイマス。助カリマシタ」
「おう。お前もいい年なのに、大変だな」
「オ気遣イ、アリガトウゴザイマス。当機ハ、べてらんナノデス」
「ハハッ」
「違いない」
「デハ、通常業務二復帰シマス」
 仕事が終わって休暇に入るらしいエンジニアたちを背に、ナインは工房を出て行った。イーヴァルも、それに付いていく。
 病院の中というのはわかるが、それのどこなのか、見当もつかいない。なにしろ、イーヴァルが調べた限りでは、イグナーツはアークスの病院船で育っている。つまり、シップ一隻が、まるごと病院施設なのだ。
 変化の乏しい施設内を移動し、無菌エリアへの区切りと思われるエアシャワーをくぐり・・・・・・突然、ナインのアラームが鳴って、急速移動を始めた。
「貴方タチ!マタ当機ノ不在時二、いぐなーつクンヲ連レ出シマシタネ!」
 イーヴァルが追いつくと、そこには完全防備のバイザーをかけた二人の男が、ストレッチャーを押して病室に入っていくところだった。
「再度抗議イタシマス!コノ子ノ保育実務二関シテハ、当機ガ全権ヲ委任サレテイマス!いぐなーつクンヲ病室カラ移動サセル場合ハ、どくたーノ許可ト当機の同行ガ義務付ケラレテイマス!」
 喧しいアラームと、LED板が怒り顔になっているナインの警告など聞こえていないかのように、男たちは無造作にストレッチャーからベッドに幼児を移し替え、そのまま病室を出て行った。
「マッタク、彼ラハ、コノ子ヲナンダト・・・・・・!」
「・・・・・・ぃん・・・・・・」
「いぐなーつクン!」
 ひゅいんぎゅいーんと駆動音を響かせて、ずんぐりテルテル坊主のロボットがベッドに駆け寄った。
「いぐなーつクン、大丈夫デスカ!?アア、コンナニばいたるモめんたるモ数値ガ滅茶苦茶二・・・・・・!」
 投薬プログラムを起動させ、室内環境を整えようと酸素濃度を上げたり微風を起こしたりと、しっかり仕事をしているロボットなのに、オロオロする仕草が妙に様になっていて可笑しく、イーヴァルはつい何気なくベッドに近付いてしまった。
「・・・・・・なぁ、ぃん・・・・・・」
 眉の上でぱっつんと前髪を切りそろえられた幼児は、ベッドに痩せた四肢を投げ出したまま、脂汗を浮かべて苦しそうな呼吸を繰り返し、顔色悪くぐったりとしている。だいぶイーヴァルの知っているイグナーツの面影が濃くなってきたが、それが余計にイーヴァルを戸惑わせた。
「ないんハ、ココニイマスヨ!大丈夫デス。モウ、怖クナイデスヨ!」
 ナインの手のひとつを、骨と皮だけの青白い手が握りしめると、うつろだった金色の目にふわりと涙が浮かび、ぽろぽろと痩せこけた頬に溢れだした。
「・・・・・・ずずっ・・・・・・ふ、ぇぇ・・・・・・っ」
「ゴメンナサイ。ないんガ、ズット付イテイレバヨカッタノ二・・・・・・」
 泣くことすら苦しいのか、喘ぎながら、ただ涙をこぼすばかりの幼児を、武骨なくせに器用な手がかき抱くと、しばらくしてレッドゾーンにあったストレス値が、徐々に回復していった。同時に、過度に負担がかかっていた心拍のデータも、ゆっくりと落ち着いていった。
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」
「オ水、飲ミマスカ?」
 こくんと小さく頭が動き、ナインがウォーターサーバーへと移動していく。
「・・・・・・なぁぃん、おぅた・・・・・・おーぅた」
「ハイ、カシコマリマシタ」
 スローテンポなバラード。何十年も前に流行った、子供向け番組のテーマソングをアレンジしたものだと、イーヴァルは思い出した。簡単なメロディーとわかりやすい歌詞でヒットし、イーヴァルが子供のころまで大人たちが歌っていたのだ。
 カップに注がれた水を飲み干して横たわった幼児の目が、ゆっくりと閉じていく。
「アトデ、どくたーニ診察シテモライマショウ」
 こくん、と幼児は頷いたが、不意にしっかりと目を開いた。
「なーぃん、なーね、ばっけーなの。ひ、と、ぉおぅしっ・・・・・・ばっけーなの・・・・・・なーね、しってーぅの!」
「・・・・・・ドウイウコトデスカ?」
 幼児語すら理解するナインは、その意味が分かっていないわけではない。イーヴァルも拙い発音の意味を理解できた。だが、どうしてそれを幼児のイグナーツが知り、理解しているのか。その残酷さに胸が冷えた。
「ないないよ・・・・・・うう・・・・・・。なーぃん、こわぁ?・・・・・・こわぁ?」
「イイエ、怖クナイデスヨ。大好キデス。ないんハ、いぐなーつクンガ、特別一番大好キデスヨ」
 疲れ果てた幼児がにーっこりと笑顔になり、不安定な呼吸ながらきゃっきゃとはしゃいた。
「なーぃん、おぅた!おうた、もっと!」
「カシコマリマシタ」
 繰り返される電子音の子守歌。それを聞きながらまどろむ幼児の体を、無機質な手が、穏やかに、愛おしそうに撫でていた。

 声変りをしていない、か細い声。明らかに成長への影響が出ている、痩せた体。どこかうつろな、金色の目。

「・・・・・・人・・・・・・ザザ・・・・・・だ?」
「トータルで・・・・・・ザザ・・・・・・ザザザッ・・・・・・」
「・・・・・・ぁ、けっこ・・・・・・ザザザ・・・・・・しかし、まだまだだな」
「全然足りませんよ」
「ザザザッ・・・・・・ザザ・・・・・・できれば・・・・・・」
 灰色の視界に酷いノイズが入った声。聞き苦しくて、イーヴァルは眉をひそめた。
「せめて、体がどうにか・・・・・・」
「・・・・・・に、・・・・・・でひと・・・・・・ザザザ・・・・・・」
「じゃあ、あっちはあ・・・・・・ぁ?・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ノイズと会話の内容にイラついて、イーヴァルは目を強くつむって、頭を振った。
「どうせ、代わりは・・・・・・」
(なに・・・・・・?)
 その嘲るような調子の禍々しさに、イーヴァルは悪寒を感じて目を見開いたが、その先はノイズに遮られ、遠ざかり、捕まえることは出来なかった。