キヨイオツキアイ ―5―
ふっと目を開けると視界の隅に遮りを感じ、手を当ててみると、自分の白狐の仮面だと知れた。手も水色のグローブに覆われ、すっかり盗み装束での侵入になったようだ。
(ここは?) 辺りを見回して驚いた。つい先刻までいた美術館の中だった。しかも、その辺を歩いている入場者には、フォックスの姿は見えていないようだ。 ゆらゆらと頼りない世界をそっと進み、よく知った後姿を見つけた。その向こうに、喜多川祐介と、無傷の『欲望と希望』が見える。 (これは、昂の記憶なのか?) どうせこちらの姿は見えないのならばと近付くと、二人の話し声が聞こえてきた。祐介がこれまでの協力を昂に感謝し、これからは自分が昂の助けになると宣言している。 (そんなことをここで話しただろうか?) 微妙な違和感に首を傾げていると、二人は展示場から少し離れた人気のない場所まで歩いていく。後をつけていったフォックスの前で、昂の背が緊張したように小さく震えた。その少し濡れたような滑らかな声の告白に、フォックスは息をのみ、一瞬で頬が熱くなった。 (なんだと・・・・・・) たしかに昂には好きな人がいると聞いていたが、それが自分だとは思いもしなかったし、こんな告白も受けていない。これは自分の妄想かと頬をはたきかけて、祐介の返事に耳を疑った。 「すまない。気持ちは嬉しいが、俺には、その期待に応えることは出来ない」 「馬鹿なッ!!!」 思わず叫んでしまったが、目の前の二人には聞こえていないようだ。フォックスはつかつかと二人に歩み寄ったが、やはりこちらに気が付かない。 「叶うのならば、このまま、友達でいてもらえるとありがたいのだが」 「待て待て待て!貴様!なんだその返事は!!そんなこと少しも、これっぽっちも思っていないだろうが!!訂正しろ、愚か者め!!」 嬉しさから怒りへと、頬の赤さの意味を変えてフォックスは怒鳴ったが、祐介は表情を変えず、昂は悲し気にうつむいた。 「・・・・・・そう。ごめんね、無理なこと言って」 「待ってくれ、昂!こいつの言うことなど嘘だ!・・・・・・昂!」 背を向けて歩き去ろうとする昂に手を伸ばしたが、フォックスのグローブは昂の手をすり抜けてつかめない。 「待ってくれ!」 声も届かず、触れることもできなかったが、フォックスは滑るように遠ざかる昂の後姿を懸命に追いかけた。 「昂・・・・・・なに?」 突然昂が二人にわかれ、片方はスマホを取り出して階段を下りていく。 「メメントス」 そこは渋谷駅ブチ公前で、メメントスへ行ったらしい昂の姿はもう見えなかった。慌ててもう一人を探すと、まだ先を歩いている黒いくせ毛頭が見えた。 「昂!」 息切れをするほど走って追いついたのは、暗い夜の公園。粘つくような濃い闇に覆われて、どこなのかはわからないが、ずいぶん広くて緑が多そうだ。 「昂・・・・・・」 そこでは複数のケダモノに圧し掛かられて、白い肌が闇に浮かんでいた。荒々しい息遣いと押し殺した悲鳴の中で、フォックスがつかもうとしていた手が、助けを求めるように、弱々しく宙をかいている。 「貴様らァ・・・・・・ッ!!」 『ちょっと、静かにしてくれ』 「!?」 呆れたような昂の声に、刀を抜きかけたフォックスは思わず辺りを見回した。 『さっきから、まったく・・・・・・悪趣味なことするなよ。こんなの見られちゃうなんて、恥ずかしいじゃないか』 まるで雑巾がけをするように世界が拭われ、風景はどこかの住宅街に変わった。また夜だが、さらりとした空気と街灯や周囲の家から漏れる光が、まだ人間の世界だと安心させてくれた。 「いまのは・・・・・・」 『もう終わったことだ。もっとも、君にとっては未来かもしれないけど』 「黙れ!」 『そう怒鳴るな。コウに気付かれるじゃないか』 「ぐ・・・・・・」 正論を言われて、フォックスは黙った。そして、不快なものは見せられたが、当初の目的通りの人物に会えたようだ。 「昂のシャドウだな?どこだ?」 『まだあの姿には戻れていなくてさ。こっちだよ、こっち』 声の出所を探して視線をおろすと、白いブーツの先に丸っこいものが駆け寄ってきた。 「なんチューことだ」 『この状況でもそれを言うのか』 両手に余るほど大きな灰色のドブネズミが、金縁の丸い目でフォックスを見上げてきた。 「昂のシャドウなのに、そんな姿なのか」 『俺はコウに嫌われているからな。こうして祐介と会っているなんてバレたら、問答無用でぶっ飛ばされるに決まっている』 祐介はぶるぶるっと体を震わせたネズミを抱えて、路上駐車していたセダンのトランクに乗せると、自分もガードレールに腰かけて、なんとか混乱を頭から追い出そうと努めた。 「あれはなんなんだ」 『済んだこと・・・・・・って言っても、納得しないんだろ?簡潔に、ぶっちゃけて言うと、コウは同じ一年をループしている。そのなかで、多少の選択の違いから、以前ああいうことが起こった。それだけのことだ』 「それだけって・・・・・・」 『今回は、まだそうなっていない。安心しろ』 「・・・・・・そうか」 安心してもいいのかどうかわからないが、とりあえずフォックスは、自分がカードを切れるターンが終わっていないことを悟って胸を撫で下ろした。同じ時間をループしているなど、そのまま受け入れて考え出したらきりがない。いまは脇に置いておくとする。 「ところで・・・・・・ここは大丈夫なのか?前回のように崩れたりしないだろうな?」 『大丈夫だろう。ここはコウの「嫌な思い出用ゴミ箱」の中だ。まあ、いきなりシュレッダーか焼却炉に放り込まれる可能性もあるけどな』 恐ろしい可能性に若干仰け反りつつ、たしかにここなら昂の意識が向くことは少ないだろうと、フォックスも腹を決めた。 『それで?』 「精神が暴走した人間が、俺ではなく昂を狙っているという可能性について、なにか知っていることはないか?」 シャドウは髭をぴんと張ってフォックスを見上げた。 『その認識は半分合っている。より正確に言うなら、無意識に二人とも狙っている』 「はあ?」 『仕掛けている方も、なんとなくやっているんだろう。コウが繰り返し認知を操作してきた結果だろうが、襲わせている方も、なぜそうしたいと思うのか、たぶん覚えていないんだよ。だから突然で、一貫性がない』 「ちょっと待て。・・・・・・まさか、精神暴走事件の犯人を知っているのか?」 『ああ。だからさっきも言っただろ、同じことを繰り返しているって』 「昂も・・・・・・」 『知っている。だけど、知っていることをそのまま言っても、お前たちは理解も納得もしないだろう?予言してやると、秀尽の学園祭に犯人が来る。奴は素知らぬ顔でお前たちを罠に掛けようとするが、お前たちは劇的なトリックでそれを破るだろう。・・・・・・コウの肉体と精神がもてばな』 不吉な一言に眉をひそめながら、それも聞いてみたかったことだとフォックスはうなずいた。 「昂の不調はどういうわけだ?夏からひどくなっているのか?」 シャドウはひょいと肩をすくめて見せた。ネズミの姿なのに、ずいぶん人間っぽい仕草だ。 『良くはないな。歪んだ世界をさらに自力で歪め続けている対価だろう。コウの存在が曖昧に、世界に溶けだしかけている。祐介がコウに入り込んでしまえるのも、きっとそのせいだ』 そこまで言って、シャドウは急に頭を抱えるような仕草をした。 『いや、まさかな・・・・・・。可能性はなくもないが、祐介のように物理的な接触はない。となると・・・・・・メメントスか?厄介だな。なにがインターフェースになっているんだ?覚えていないんじゃなくて、全部知っているのか?情報駄々洩れだったなんてシャレにならないぞ』 「何の話だ?」 『あ・・・・・・ぁいや、えっと、なんでもない』 シャドウはプルプルと首を振ったが、フォックスに見詰められて、半ばやけくそのように吐き捨てた。 『俺すらこの状態だからな。不確定なことも多いし、知らないこともある。コウが自分で望む方に変えたはずの記憶すら、どんどん抜けていっているし・・・・・・』 「なぜそこまで・・・・・・」 『ハハッ、あいつ要領悪いからな』 シャドウはひくひくと鼻を動かし、あたりを見回した。自分が言った陰口を、本人が聞いていないか気にしているようだ。 「では、最後にもうひとつだけ。昂の目的はなんだ?俺にも言えないことなのだろうか?」 『いや、それも半分バレたんじゃないかな・・・・・・』 「昂が、俺を好いてくれていることか。そうだ、あれはなんだ?なぜあの俺は、昂の告白を断った!?」 『俺に聞くな!俺だってあの時は、今度こそ絶対イケるって思ってたのに!振ったのは祐介じゃないか!』 「俺ではない!!」 互いに主張してみたものの、不毛なやり取りだと悟り、キツネとネズミはうなだれた。 「・・・・・・とにかく、恋人になれればいいのだろう?」 『それだけじゃダメだ』 「どうすればいい?」 『それがわかったら苦労しないよ』 肝心なところがぼかされて、祐介は唸り声を上げて頭を抱えた。 『そう落ち込むな。俺は祐介に期待しているし、ここまで知られているならバラしてもいいだろう。コウの目的は「自分自身を救うこと」だ。危いことに、これも忘れかけている』 「自分自身を、救う?」 フォックスの視線の先で、ネズミの小さな頭が首肯した。 『そうだ。お前たち怪盗団は近い将来、タキナミコウを巨大な組織から救出するだろう。それはコウが自分で、絆をゼロから紡ぎだしてきた結果であり、成果であり、掛け替えのない精神の救済だ。でも自己犠牲の末に世界がコウに微笑むのだとしても、コウが俺を取り戻して自身を救うには、別の何かが必要だ』 「昂は、お前を切り捨てたと言っていたが・・・・・・」 『安易に自分を裏切るような人間を、無条件に信じて疑わなかった、幼稚な自分が許せなかったんだって。それこそ、中学生みたいなメンタリティだろ』 シャドウはやれやれと小さな前足を上げて嘆息するが、フォックスはそんなことはないと首を振った。 「他人に怒り、憎むのは簡単だ。でも、自分の甘さを憎み、怒り続けることは難しい。・・・・・・それだけ、信頼し、愛していた人たちだったんだろう」 『祐介は優しいな。できればコウにも言ってやって欲しいところだが・・・・・・あいつのは単なる、厨二的な潔癖症だ』 シャドウはふふんと鼻で笑い、細い尻尾を大きく揺らした。そのまま身軽にアスファルトに飛び降りると、もう一度しなやかに尻尾を振って見せた。 『質問はもう終わりだな。ついてこい、出口に案内する』 「もうあんなものは見えないだろうな?」 『ハハッ、そうだといいな』 「おいっ」 素早い小動物を追いかけ、フォックスも暗い夜道を駆けだした。 『別に許されなくてもいい。ただ、そんなこともあったと過去のことにして、そのうち忘れてくれるようになれば・・・・・・。祐介、頼む。助けてくれ』 「無論!」 ふわりと白い光に飛び出し、フォックスは己の仮面を剥ぎ取った。 |