キヨイオツキアイ ―6―


「・・・・・・?」
「祐介?起きた?」
 さらさらと頭を撫でられる気持ちの良い感触に、祐介は驚いて飛び起きた。白い光は、いつの間にかシーツの白になっていたようだ。
 先に目を覚ましていたらしい昂は、柔らかな苦笑を浮かべていたが、悪夢にうなされた時のような疲れはないようだ。
「昂・・・・・・痛いところや、気分が悪いとかあるか?」
「ううん・・・・・・ちょっと、頭が痛いかも」
 ごそごそとくせ毛に指先を突っ込んで、昂は顔をしかめた。
「そちらは床に打ち付けてこぶが出来ている。検査の結果、頭蓋骨にもその中身にも、損傷は見当たらないそうだ。顔の傷も、縫うほど深くはない」
「そうか」
「・・・・・・すまない。また助けてもらった」
「祐介が無事でよかった」
 まるで花が開くような優しい微笑みに、祐介は思わず自分の気持ちを伝えようと口を開きかけたが、看護師らしい誰かが病室に入ってくる気配に、慌てて居住まいを正すのだった。

 なんとなくタイミングを逃したまま、祐介は昂をルブランに送り届けた。閉店時間まで待っていたという双葉とモルガナに迎えられ、惣治郎には一緒に夕食を食べていくようにとテーブルを示された。
「大丈夫か、昂?」
「さっきニュースでやっていたぞ」
 双葉とモルガナに見上げられ、昂は照れ臭げに頭を掻いた。
「うん、転んだだけ。眼鏡、壊れちゃったけど」
「別に目が悪いわけじゃないし、そのままでもいいだろ」
「ふっふーん。わたしのお面を貸してあげてもいいぞ?」
「え、あれはちょっと・・・・・・」
 中華街で売ってそうなかぶりお面を思い出したか、昂はフルフルと首を横に振った。あれをかぶって学校には行けない。
 コーヒーとカレーのいい香りが漂う店内に、さり気なく飾られた母子画を眺めていた祐介は、ふと視線に気が付いて首を巡らし、眼鏡越しでない視線とぶつかってふいと逸らされ、はっと、もう一度『サユリ』を見た。
(えっ・・・・・・まさか)
 昂の思い人には、拠り所にしている大切なものがあると言っていた。無断ながら思い人の正体を知った今、それは祐介が大切にしている物だというのは明白な答えだ。
(そういうことだったのか!)
 昂の心身が安定した万全な状態だったならば、祐介が無理に強請らなければ、昂は絶対にしゃべらなかっただろう。祐介が神聖視しているものに、祐介の芸術家としての生き方に対し、足を引っ張る様な発言をすることは、昂は恥と感じるに違いない。
 思わず手で口元を覆ったが、頬が熱くなるのを止められない。せめて、だらしなく緩む口だけでも隠さなくては。
(なるほど、これにヤキモチ・・・・・・いやダメだ、嬉しくても笑うな!)
 目の前を天地創造の一週間が駆け抜けるような衝撃か、もう少し表現を抑えるならば、うららかな春の野をスキップして踊りだしたい心を懸命に押さえつけ、祐介は深呼吸を繰り返してからテーブル席に座った。
「どうしたユースケ、嬉しい事でもあったのか?」
「なぜわかった!?」
 思わずテーブルを叩いて立ち上がってしまったが、モルガナは呆れたように半眼になっている。
「いや、わからないわけねーよ」
「おイナリは嘘つけないからな」
 双葉にまで笑われたが、カレーの皿を運んできた昂に宥められて、祐介は咳払いをしてソファに腰を落ち着けた。
「美術展で祐介の絵が入選したんだよ。今日の騒ぎで傷が付いちゃったんだけど、それも直してもらえるって」
「あぁ、そうだ。まったく無傷とはいかないが、専門家でない限り、肉眼では見分けがつかないほどになるだろう」
「おおっ、スゲーな!」
「キッチリ評価をもらってくるんだから、やっぱりユースケは一味違うな」
 最高に美味なルブランのカレーを頬張りながら賑やかなひと時を過ごし、満腹の幸せをかみしめながらルブランを出ると、祐介は昂を振り返った。
「どうした?」
「・・・・・・その」
 双葉に指摘されたように、祐介は親しい相手に嘘がつけないし、上手い誤魔化し方もできない。黙っていられるほど罪悪感に耐性があるわけでもなく、だからといってそのまま言ってしまえるほど無神経でもない。天然で空気が読めないとよく言われるが、それでも「あれ」を見てしまった今、下手な言葉が最悪の道を作りはしないかと、らしくもなく怖くなったのだ。
 言いよどんだまま拳を握り締めた祐介に、素顔の昂は柔らかく微笑んだ。
「そんなに言いにくい事なら、無理に言わなくてもいい」
「あ、いや・・・・・・そういうわけでは・・・・・・」
「今日のことなら気にしてないぞ?怪我もたいしたことなかったし・・・・・・祐介のせいじゃないよ」
「昂・・・・・・」
 そういうことを言いたいのではないのだが、祐介は上手い言葉を見つけられずに、自分の決意に保留をかけた。踏み出すには、適切な言葉が必要なはずだ。
「あまり無理をするな。体調の悪さに心当たりがあるのなら、早めに医者にかかれ。いいな」
「あ・・・・・・うん」
 それでも少し困ったように頭を掻く昂の頬に手を伸ばし、痛々しいガーゼに触れてしまうと、湧き上がる気持ちを押さえておくことは難しかった。両腕に抱きしめた人のふわふわしたくせ毛が、祐介の頬に弾んでは飛び跳ねていく。
「ゆ、ゆうす・・・・・・」
「本当に、大事なくてよかった。・・・・・・頼むから、無茶をするな。昂がいない世界なんて嫌だ。俺を、置いて行かないでくれ」
 一人で思考し、一人でどこにでも飛べ、一人で戦えてしまう。そんな強い光を自分に留めておきたいなどという方が、図々しく彼の足を引っ張っているのではないか。
(ああ、そうか・・・・・・)
 その罪を、自分一人で背負うのが嫌だったのかもしれない。畏れに立ち向かう責任感も度胸も覚悟もない。だから、自分の気持ちに目を瞑ってでも「みんなのジョーカー」でいて欲しかったのだろう。それが、フォックスが目撃した、昂を振る祐介だったのに違いない。誰かのものになどなってほしくない、自分の方を見ていて欲しいと駄々をこねるくせに、弱い自分を守るために、自分を好きになってくれた昂を傷つけた・・・・・・。
「俺は、恥ずべき卑怯者だ!こんな俺に、昂を責める資格などない!!」
「そんなことないよ!なに言ってんの!・・・・・・もう、祐介の言うことは、相変わらず極端なんだから!」
 祐介の腕の中で昂はじたばたともがき、無駄とわかると、くすくす笑いながら祐介を抱きしめ返してきた。
「うん、わかった。俺も祐介と離れたくないし、どうしても留守にするときは、祐介にちゃんと言うよ。約束する」
 ひんやりとした夜気の中で昂から握りしめられた手は、祐介の指に絡みついて、柔らかく、温かかった。


 大衆のパレスであるメメントスは、集合的無意識の混沌さながら、入るたびにその姿を変える。そして、そこに巣くう者も、姿を淡く保ったまま居場所を変えた。メメントスの地下深くに在るモノに、その存在を悟られないように。
 かろうじて人一人が通り抜けられるような小さな歪みから、強い気配をまとった男が滑り込んできた。斜めにストライプの柄が入った漆黒のライダースーツに、頭部をすっぽりと覆う黒い仮面。メメントスの住人であるシャドウではなく、他人からの抑圧をよしとしない反逆の魂を持つ者だ。
「どうだ、トルソー?」
『上々。感謝する』
 答えた方もシャドウではないが、反逆の魂を持つ者とも違う。淡く輝く真珠色の肌をした上半身は、しかし首までしかなく、両肩から先もない。上品な言葉遣いでも気安い雰囲気の綺麗な声は、いったいどこから発せられるのか。ふわふわと宙を漂う長い腰巻の下には、一応脚があるらしく、時折まろやかな素肌をのぞかせた。
 蝙蝠と鴉との、二種二対の翼を背中から生やした、首と腕の無い男性体は、たしかにトルソーの呼び名に相応しい。
「本当にこんなもので大丈夫なんだろうな」
『問題ない。ただ、アキラに勘付かれたかもしれない』
 禍々しくも鋭いデザインの仮面の下から、剣呑な眼差しがトルソーに放たれる。
「アキラ?」
『失われた翼だ』
「ああ・・・・・・」
 トルソーの背からは、下に鴉のような黒い翼と、その上に蝙蝠の膜翼が生えていたが、さらにその上に、別の翼が生えていた痕跡があった。
「テメェに影響はあんのか?」
『ない。・・・・・・それよりも、自分の心配をしろ。このまま上手くいけば、まもなく俺は、ここから消える』
「ハッ、俺はずっと一人で上手くやってきたんだろ?心配されるようなことは何もねえ」
『・・・・・・そうだったな』
 穏やかな笑みを含んだ声は、からかうというよりも、仕方がないとでも言いたげな慈愛を感じさせ、反抗期の子供のような男に唇を尖らせる。
「チッ、気にくわねぇ」
『また癇癪か?』
「ウルセェよ!あぁ、もう、なんでこんなことになっちまったんだよ!」
『売り言葉に買い言葉とはいえ、言い出しっぺはお前だからなぁ』
「だからって!なんでっ、俺までっ、こんなことをっ!」
 地団太を踏む黒いライダースーツに、トルソーは笑っているのか、その姿をさざめかせた。
『アケチは本当にいい奴だなぁ』
「ぶっ殺すぞ!!!!」
 口だけは威勢がいいが、遭遇したばかりの頃に返り討ちにあっているので、実際には玩具の光線銃もライトサーベルも振り回されはしない。敵意さえ向けなければ、トルソーはほぼ正確な情報をくれる協力者だった。
『滝浪昂が、自分を裏切った人間を許すことはないし、彼らを信じていた己を許すこともない。だが、それでは話が進まない』
「認知を変える必要か」
『その通り。アケチを含め、自分で新たに作った絆ならば、受け入れやすかろう』
「俺も入んのかよ」
『当然だ』
 嫌そうな顔をする男に、トルソーは何をいまさらと言いたげだ。
『お前は最初から敵対陣営にいた上に、パーフェクトさが無駄に胡散臭くて警戒されすぎた。裏切りの内に入らん』
「フンッ」
『それでも、何故かシンパシーを感じたから、付き合いを始めた。・・・・・・俺が言うのも何だが、奴は要領が悪くて頑固だ。それ以外は、顔も頭も性格も身体も、最高に素敵で魅力あふれていると思うんだけどなぁ』
「そう言い切るテメェのクソ頭は何処に転がってんだ?あぁ?潰れるまで蹴り飛ばしてやる!」
『ハハッ。さあ、何処にあるんだろうな』
 口汚い罵り文句をのらりくらりと包み込むように受け止め、トルソーは翼を広げながらゆるゆると地面に腰を下ろした。
『優秀な芸術家である彼女に嫌がらせをしていたグループの所業が、世間バレするのも時間の問題だ。彼女は精神薄弱状態で情状酌量が認められるはず。いつ自害するかもわからない状態だった彼女を保護できたんだ。アケチは良いことしたよ』
「・・・・・・なんだか納得できねぇな」
『改心はお前の正義に反するんだろう?そういうのをやりたいなら、怪盗団に入るんだな』
「まっぴらごめんだ!」
 噛みつくように言い返しても、作戦上怪盗団に入らなくてはならないことを思い出したようで、赤黒いバイザーの下にある秀麗な顔が醜く歪んだ。
「・・・・・・貴様の言うとおりにアイツを追い詰めれば、本当にもう同じことが起こらないんだな?」
『成功すれば、たぶんな』
「クソッ、いい加減だな!」
『未来なんてそんなものだ。・・・・・・Good luck』
 苛立たし気に足音高く、歪みの向こうに立ち去る精悍な後姿を、トルソーは心を込めて見送った。