キヨイオツキアイ ―4―
昂の片手は相変わらず祐介と恋人繋ぎになっていたが、解くなどというもったいないことはできず、周囲の視線が若干気になりはしたが黙っていることにした。
(祐介は、気にしてないってことだし) 体調が戻って冷静になったら、絶対に頭を抱えるような状況だというのはなんとなくわかっていたが、とにかく思考が支離滅裂で、理性がちゃんと働いているのかさえ怪しい。 今回で最後だと自分で言ったくせに、その最後を完遂できる気力も覚悟も、砂のように崩れていきそうだ。 (・・・・・・俺、さっき祐介に何言ったんだっけ?) 言っちゃいけないことを言ったような気もするのだが、その内容すらおぼろげにかすんでいく。 (変だなぁ・・・・・・) ぼんやりとした頭のままで、祐介の描いた『欲望と希望』の前に立つ。さっき水を入れた胃の周りが、硬くこわばっているような重さを感じたが、吐きそうな気配は今のところない。 「よかった・・・・・・」 「おめでとう、祐介」 「ああ」 祐介の絵はちゃんと入選しており、川鍋からの評価も良い。祐介は斑目と決別してから、たくさん苦しんでもがいて頑張ったのだから当然だと昂は思う。 それに、あの斑目も根っからの悪人というわけではなく、途中で歪んでしまっただけで、祐介も利用されるだけではなかった、何かしらの情を持って育ててもらったと納得しているようだ。 (俺とは大違いだ・・・・・・) 申し訳ありませんっ、と突然頭の中に声が響き、昂はとっさに頭を押さえた。 「ッ・・・・・・」 −愚息がとんだご迷惑を・・・・・・ −俺じゃない! −お前がどうかじゃない、怪我をさせたのは事実だろう! −素直に謝りなさい! −なんで信じてくれないんだ! 「・・・・・・う?」 (なんで、いまごろ・・・・・・) 目がちかちかして見えない。息が上手くできない。嫌な思い出のスライドショーを、無理やり見せられているようだ。胸が苦しい。平衡感覚が定まらなくて気持ち悪い。 「昂!?」 その場にへたり込んで浅い呼吸を繰り返すが、すべての感覚が昂から遠ざかりそうだった。祐介の声を頼りに、必死で指先に力を込めるが、冷たく滑って手を繋いでいるのかもわからない。 「大丈夫かね?」 「川鍋さん・・・・・・」 「担架を。医務室へ連れて行こう」 塞がれた耳の向こう側から聞こえてくるような会話を遮って、引き裂くような叫び声が響いた。 「なんだ!?」 悲鳴は連鎖し、逃げろと叫ぶ声が聞こえてくる。すぐそばの二つの気配も、驚いたように中腰になったのがわかる。昂も大勢の人間が走る様な振動を感じ、立ち上がって安全なところにいかねばと、無理やり目を開けた。 「なんてことを!やめなさい!!警備員!ここだ!!」 昂の横から走って行った川鍋が、何かすごい力で脇に吹っ飛ばされて床に転がった。 「なっ・・・・・・!」 祐介が息をのんだのもうなずける。老年とはいえ、それなりに恰幅のある川鍋を殴り飛ばしたのは、小柄で華奢な女性だったからだ。 「ああああああああああああああああ!!!!」 きーんと頭に突き刺さる様な叫び声を上げながら、女は壁に掛けられた絵に向かっていく。ガツッガツッという音がするたびに、美しい絵画たちに傷がついた。 「やめろ!!」 悲鳴のような祐介の声を聞きながら、昂は妙に冷静な頭で目に映る物を分析していた。傷付けられる絵ではなく、気が狂ったような様子の女でもなく、彼女が持つ、その物に、急速に焦点が絞られていく。 (刃物?ナイフや包丁じゃない。・・・・・・工具?鑿かな) 金槌で叩かなくても結構刺さるんだな、などと思ったが、川鍋を吹き飛ばしたあの力ならさもありなん。美術館近辺なら、彫刻に使う鑿を持っている人間が歩いていてもおかしくはない。 「やめろ!その絵は・・・・・・!!」 祐介が駆けだそうとしたのを、昂は必死でしがみついて止めた。 「祐介!」 「昂!?」 たいして力は入っていなかったが、祐介の脚をもつれさせることは出来た。 「行くな!逃げろ!」 「だがあの絵は、大切なお前たちを描いたんだ!!」 わかっているし嬉しいが、ここは異世界ではないのだから、武器を持った人間に生身素手のままで突っ込む阿呆が何処にいる。こんなところで祐介を失うわけにはいかないのだから、昂はガクガク嗤う膝を叱咤して、半分祐介にもたれるようにして立ち上がった。こちらに向かってくる警備員が見える。 「絶対に・・・・・・」 「こ・・・・・・!」 祐介の視線が流れたと認識すると同時に昂の肘が跳ねあがったが、それでも間に合わなかった。眼鏡のフレームを強く弾かれる痛みと、ざりっとした熱い感触が頬を鋭く撫でていく。 もともと自力で立っていられないような状態のところに襲い掛かられたのだから、受け身も取りようがない。せめて、祐介を巻き添えに倒れないよう、手を放すしかできなかった。 (いっ・・・・・・たいなぁ・・・・・・) 硬い床に頭を打ち付けたその感想を最後に、昂は瞼をおろした。 気が狂ったように危険な女を昂から引きはがすのに、警備員や警察官でも少々手間取った。それは女のせいではなく、昂が意識を失ったまま、女の頭髪をつかんで離さなかったからだ。 結局、女が暴れるせいで昂の指にごっそり髪が絡みついたまま、ようやく引き離すことができた。 (おかげで、それ以上の被害が出なかった) 展示されていた絵画は『欲望と希望』を含めて数点が切り裂かれたが、川鍋は擦り傷と打撲だけで済んだし、祐介にいたっては、まったくの無傷だ。 病院に運ばれても眠り続ける昂に付き添い、祐介は双葉に連絡を取った。 『どうした、おイナリ?』 『昂が俺をかばって怪我をした。今病院だ』 『ナニ!?大丈夫なのか?』 『目が覚めれば帰宅できると思うが、転んだ時に頭を打ったようで、泊りになるかもしれん。マスターに言っておいてほしい。それと、モルガナが渋谷で杏といるはずなんだが・・・・・・』 『おけ。モナのことも任せろ』 『頼む』 祐介はスマホを仕舞い、ため息をついた。簡素な病室は救急処置室に近かったが、外来区から遠いようで、思いの外静かだった。エタノールと塩素のかすかな匂いがただよう、カーテンに仕切られた小さな空間で、祐介は硬い丸椅子に座っていた。 ベッドに横たわる昂の頬には白いガーゼが貼られ、目の周囲の何ヶ所かには、軟膏が塗られた擦り傷が赤くなっている。幸い、鑿で削られた頬の傷はあまり深くなかったが、それでもしばらく痕が残ってしまうかもしれない。 (目を傷つけなくてよかった) 昂の黒縁眼鏡はフレームが割れ、修復は難しそうだ。もっとも、器用な昂のことだから、瞬間接着剤で綺麗に直してしまいそうではある。 「・・・・・・・・・・・・」 祐介は両手で顔を覆い、後悔でつぶれそうな胸を持て余した。もう少し外で休んでいればよかっただろうか。あのとき昂の言うことを聞いて逃げればよかったのだろう。そもそも、今日でなくても良かったではないか。 昂に身を挺して守られたのは二度目だ。一度目はかすり傷ですんだが、今回は・・・・・・。 (すまない・・・・・・!) 緊急時にリーダーの指示に従わなかったばかりに、無用な怪我を負わせてしまった。これは十分断罪に値したし、仲間にも謝罪せねばならない。 昂がすうすうと落ち着いた寝息を立てていることだけが、いま安心できる唯一のことだ。無理を押して付き合ってもらうより、安らかな寝顔を見ている方が、ずっと心が凪ぐ。 (・・・・・・そういえば) 精神を暴走させられたとみられる加害者に、祐介はこれで二度も襲われたことになる。二人の加害者から別々に襲われるとなど、そうあるだろうか? (偶然?) そうでないなら、故意に狙われたことになる。しかし、祐介にはそこまでして狙われるような覚えはない。公に斑目の弟子と認知されているのは、現在では祐介だけだが、襲ってきた方は二人とも斑目とは無関係だった。では、本当の狙いは・・・・・・。 (昂・・・・・・?) すうっと血の気が引く感覚に、祐介は思わずベッドの端に手をついた。心臓がばくばくと鳴り、冷や汗が吹き出す。ただの推測というより、思い付きでしかないが、その可能性に祐介は悲鳴を噛み殺した。昂なら確実に祐介をかばう、犯人はそう知っているのだ。 (皆にも聞いてみなければ。真なら、なにか対策を考えついてくれるかもしれない) 真とて万能ではないから、祐介の推測と少なすぎる情報しかないのは困るだろう。 (昂に直接聞ければいいのだが・・・・・・) だがもしこれが、昂が祐介にすら頑なに発言を拒む案件に絡むことであったなら、昂から情報を得ることはまず無理だろう。とはいえ、昂がますます弱っていくのを、ただ傍観しているしかないのは避けねばならない。このことを知っているのは祐介だけなのだし。 (いや、まてよ) 祐介は昂本人ではない情報所有者に、一人だけ心当たりがあった。上手くいくかはわからないが、やってみる価値はある。 「・・・・・・・・・・・・」 祐介を引きずり倒してしまわないよう離された昂の手を握り、ふわふわの前髪を梳き上げて、首筋を支える。 (すまない、昂。少しだけ通してくれ) こつん、と額同士が触れた瞬間には、もう祐介の意識は自分の肉体を離れていた。 |