キヨイオツキアイ ―3―


「あ・・・・・・でも、俺、起たないから」
 初めてそれを聞いたのは、男三人で銭湯に行ったときだったはずだ。杏は彼女としてどうだなどという話をした流れではなかっただろうか。あまりにもあっさりと言われたので、聞き流してしまいそうだった。
「へ・・・・・・?」
「病気じゃないから大丈夫。精神的なものだろうって」
「それは・・・・・・例の事件のせいか」
「たぶんね。だけど、眠れないとか、食べても吐くとかの方がしんどいよ。起たなくても死なないからいいけど、前歴持ちを好きになる子もいないだろうし、彼女は作れない。・・・・・・だからって、女の子は嫌いじゃないからな?」
「お、おう・・・・・・」
 単純な竜司は思考回路がオーバフローしたらしく、「昂は彼女出来ないけど女の子が好き」という、自分に都合よいところだけが記憶に残ったようだ。
 まだかすかに四人で食べた鍋の匂いが残る屋根裏で、借りた毛布を掛けながら、祐介はふとベッドの昂を見やった。
「なあ、まだ眠れなかったりするのか?」
「え?いや、大丈夫。・・・・・・たまに、変な夢は見るけど」
「そうか」
 その言葉を信じで祐介は目を瞑ったが、翌朝、苦しげな寝顔の昂を起こそうかと迷った。顔にかかったくせ毛を梳き上げるように撫でると、幾分表情が和らいだので、モルガナも一緒に眠っていることだし、結局、そのままにしてしまった・・・・・・。
 二度目に違和感を覚えたのは、夏の修学旅行だった。
 杏は仲間以上に見られないから自分もそうしたと笑い、調査のために恋人役を頼んでいた真も顔を赤くしながら全力で首を横に振る。双葉はよく昂にくっついていたが、あれは保護者としての力量を認めているからだろう。
 そして祐介は、ハワイの浜辺を一二三と寄り添って歩く昂を見ていた。女流棋士の一二三から戦術を学んでいるときいてはいたが、そこまで深い仲だとは知らなかった。たまたま旅行先がかぶったのだから、一緒に歩いていても不思議はないのだが・・・・・・。
 昂が得た密かな協力者は多い。その中で女性だけを引き出しても、祐介が知っているだけで、祐介の同級生である一二三、クラス担任の川上、記者の大宅、医者の武見、占い師の千早がいる。直接面識があるわけではないが、彼女らも昂に対して好意的なのは疑いない。
(手当たり次第、というわけではないし・・・・・・)
 そんな考えが浮かんだ自分に、祐介は嫌悪を覚えて頭を振った。昂は『怪盗団に必要だと思ったから』彼女らに近付いたのであって、恋人になりたいから近付いたのではない。もっとも、昂のサービススマイルはメギドラオン級の破壊力に加えて、洗脳UP付きブレインジャックを追加発動させているに違いない、という感想は、祐介を含めた怪盗団全員の共通認識だ。
(普段は・・・・・・そんな風に笑わないのにな)
 眼鏡で隠れている部分もあるのだろうが、昂はあまり表情が動かない。良い事も悪い事も、淡々と過ごす。表面は空気を読んで多少繕っているのだろうが、その下はまるで・・・・・・。
 それでも、仲間に対しては柔らかな優しい表情を見せるし、怪盗行為を成功させたときは満足そうに笑う。それは、本当に心からの笑顔だとわかる。
「・・・・・・昂」
 上野駅で電車から降りた後も昂の顔色は優れず、祐介は眉をひそめた。また悪夢にうなされたようだが、それにしては立ち直りが遅い。
「少し休もう」
「え、大丈夫だよ」
「青い顔でふらふらしているくせに、どこが大丈夫だ」
 祐介は昂の手をつかむと、休める場所を探して歩き始めた。記憶が正しければ、こちらにいくつかベンチがあったはずだ。
「え、あっ・・・・・・ちょ、祐介っ」
「なんだ、うるさい。・・・・・・ああ、あそこがいい」
 美術館や博物館が点在する上野恩寵公園は、観光客も多くきちんと整備されて道も広いが、休憩できる場所もちゃんとある。
「ここならいいだろう、昂?」
 振り向いた先の昂が、申し訳なさそうな顔をしていたが、なにか様子がおかしい。
「祐介、これ、恋人繋ぎって言うんだけど・・・・・・」
「なに?」
 祐介としてははぐれないように手を繋いだつもりだったのだが、互いの指を絡ませるようなつなぎ方は、俗にそう呼ばれるらしい。
「ほう」
「・・・・・・そう見られている自覚、ないよね。はぁ」
「なんのことだ?」
 なんでもない、と昂は疲れたようにベンチに腰を下ろした。モルガナの入っていないバッグから取り出した宇多川の名水をぐびぐびと飲むが、あまり回復はしていないようだ。
 祐介も隣に座り、残暑の中にも香るようになった秋の風が、森の木々を通って吹き付けられる心地よさに目を瞑る。応募した絵の出来には自信があるが、それが果たして入選に値するかどうかは、祐介には行ってみなければわからない。
 師と決別したあの時、自分は失ったと思っていた。でも、実際は得ていたのだと思う。自分の脚で立つことを、自分の才能を正しく評価される機会を、自分以外の感性が見るもの知ることを、自分の知らない常識を、対等に触れてくれる手の温かさと力強さを、自分を含めた人間の心の在り様を、その本質を理解する時間を・・・・・・。仲間とともに盗り戻した『サユリ』は、いつでも祐介に課題を投げかけていた。幼い憧れから一皮剥け、その一幅に含まれた表裏と奥深さの理由を突き詰めていくことが出来た。その結果、そばにいて支え続けてくれた光に気付き、思いのたけをキャンバスに描き切れたと思う。だがそれでも、第三者からの評価を見るまでは緊張した。
「昂にはぜひ俺の描いた絵を見てもらいたかったのだが、体調の悪い時に誘ってしまったようで、すまなかった」
「いや・・・・・・」
 昂は大丈夫だとぱたぱた手を振るが、苦笑いを浮かべる顔色はあまり良くない。
「ずっと、礼を言いたかった。俺に付き合うのは面倒だったろう?だが、おかげで俺自身の光を見つけることが出来た。『サユリ』に秘められた真の美しさに気付けるよう、蒙昧な俺の心を啓いてくれた。俺はあんな絵を描けるようになりたい。その為に、一人の絵描きとして以前に、一人の人間として成長できたように思う。感謝する」
 まだ評価を見ていないが、どんな結果でも、これだけは言っておかねばと思っていたことを伝える。頭を下げた祐介に、昂は眩し気に小さく、うん、と微笑んだ。
 蠱惑的で愉快なことが大好きな本性を、控えめで物静かな優等生の顔が隠している。そんな昂を祐介は見てきたが、今日の昂はやはり調子が出ないのか、夏のあの豪雨の日のように、どこか儚げな印象だった。
「・・・・・・ねえ。祐介は、他人や他人の物を羨ましいと思ったことある?」
「無いとは言わないな。正確に、誰のどれを欲しがったかは覚えていないが・・・・・・いまは充実しているからだろうか、そんなことは思わないな」
 嫉妬とは無縁そうに見える昂からそんな質問が出るなど、変なことを聞くなと隣を見れば、表情を半ば隠す黒縁眼鏡の向こうで、ふいと視線が逸らされるところだった。
「昂にも、妬ましいものがあるのか?意外だな」
「買い被りだ、俺は聖人じゃない。けっこう欲張りだし、性格も悪い。いまも、羨ましくてしょうがないものがある」
「なんだ、それは?」
 反射的に出た声に好奇心がにじんだせいか、昂の柔らかそうな唇はためらいがちに言葉を呑み込んでしまった。しかし、知りたいと思うのが人情だろう。特に昂は、自己利益に関してはほぼ無欲と言って差し支えない、と祐介は思っていたのだから。
「聞いてみたい」
 昂はいつも祐介のわがままを聞き入れ、ほとんどの質問には答えをくれた。祐介ならいいよ、その言葉を、今回も期待しなかったわけではない。だが昂の口はやや重く、小さな声が祐介の耳に届くまでには、少し時間がかかった。
「・・・・・・好きな人が拠り所にしている、大切なものだよ。俺じゃそれ以上の存在になれなくてさ、ずっとフラれてる」
「・・・・・・・・・・・・」
 思ってもみなかった答えに、祐介は言葉が出ない。急に、ちりちりと胸が痛みだして渋い表情になった祐介に、昂は悲しげに微笑んだ。
「友達でいようって。最後は必ず、お前も笑って生きろって・・・・・・どうして、一緒に苦楽を共にしようとは言ってもらえないんだろうな。俺って、そんなに魅力ないかな。こんなどうしようもないことにヤキモチを妬いているようなちっちゃい男じゃ、仕方がないのかもしれないけど」
「そんな、ことは・・・・・・」
 否定の呟きが、祐介の口の中でわだかまる。祐介が否定できても、昂の思い人は、そうではないのだろう。
「ずいぶん粘って、頑張ったつもりだったんだけど、最近限界を感じて・・・・・・今回が、もう最後かなって」
「諦めるのか?」
 その瞬間、祐介に向けられた視線は、熱せられた刃を感じるほどに鋭かったが、伊達眼鏡にさえぎられて、昂の本心を祐介に届けはしなかった。
「ああ。今回がダメなら、潔く最後にする。取り返しのつかないことになる前に」
「どういうことだ?」
「忘れかけているんだ!なぜ俺がこんなことを繰り返しているのか!」
 悲鳴のような声を押し殺して、昂は祐介の視線から逃れるように両手で顔を覆った。
(また・・・・・・)
 祐介にはわかないことで苦しむ昂を目の前に、祐介は強く唇を噛んだ。何もできないという無力感と焦燥に加えて、怒りにも似たわけのわからない感情が渦巻いて、胸をかきむしりたいほどの痛みを祐介にもたらした。
「本当に、それでいいのか」
「他人を巻き込んで自滅する馬鹿には、なりたくないからな。俺は大切な人が生きる世界を守ろうとは思うけど、大切な人を巻き添えに消滅したいとは思わない」
「世界・・・・・・?」
「あ・・・・・・ごめん、変なこと言ったな」
 昂は気にするなと誤魔化したが、はっきりと目に宿る決意は気高く、その選択は多くの人間にとって「最善」あるいは「最良」とされるものなのかもしれない。
(でもそれは、とどのつまり昂一人を犠牲にしていることと、同意義ではないのか?)
 それは嫌だと、祐介は思わず立ち上がった。しかし、同時に気が付いたことに愕然となった。
(昂が諦めなければ、昂が誰かのものになる・・・・・・)
 それがどうした、いまでもお前のものではないだろう、そう呆れる心の声に、祐介はますます奥歯をかみしめた。昂に協力すると言ったのは自分だ。約束をたがえるような恥知らずになった覚えはない。
「祐介?」
「・・・・・・具合はどうだ?」
「ああ、もう平気そう。うん」
「では行こう」
 戸惑う昂の手を引きながら、祐介は自分の狭量さに反吐が出そうだった。自分は昂のような心持になどなれない。心に決めた誰かの為ならば、その人さえいてくれるのならば、祐介にとってこの世など、取るに足りない仮初の夢のようなものだ。
(たとえあの世だろうと、どこに行っても絵は描ける。だが・・・・・・いなくては・・・・・・)
 昂に後ろから手を引かれて、祐介はようやく美術館の受付を素通りしようとしていたことに気が付いた。