キヨイオツキアイ ―2―


 祐介にしがみつきながら、昂はしゃべってしまったことに早くも後悔していた。
(はぁ〜、これじゃなんだか、同情をひいているみたいじゃないか)
 いままでは恋人になりませんか的な表面のアプローチしかできなかったのに、今回は昂の内面をさらすような場面ばかりで、本当に精神が削られる。胃が痛い。
(それと、目の毒なんだが・・・・・・)
 フォックスの盗み装束は、首回りが大胆に開いている。抱きしめられるのは心地いいが、目の前に白くて滑らかな肌が「どうぞ」と言わんばかりにさらされていて、非常にムラムラする。起たない体で良かった。
 舐めたり噛んだりしたいのを、理性総動員で押さえつけて、昂はなんとか自分の体を祐介から引きはがした。
「悪いな。気分のいい話じゃないだろ」
「それでも、知らないより良かった」
「そう」
 普通の人間にはつまらない話でも、祐介の芸術家感性にかかれば、すべて絵筆を振るう腕に還元されるだろう。ある意味、人の役には立ったようだ。
「それと、昂のシャドウに言われたことの答えが、わかりそうな気がする」
「アイツが?なんか言ってたか?」
 あの時は部屋が崩れそうで、脱出することと無念さで頭がいっぱいで、昂はアキラとどんな会話をしたのか覚えていない。疑問符を浮かべる昂の前で、祐介はどこか満足そうに微笑んだ。
「ああ。俺はお前に、とても信頼されているようだ」
「え・・・・・・なんでそんな、いまさら・・・・・・」
 余計に首を傾げる昂を、祐介はくつくつと喉を鳴らすように笑い、白い狐の面をおろした。
「さあ、地上に戻るか」
「え、まだ描くんじゃないのか?」
「いや、もう十分だ。本当は、ただメメントスに来たかっただけなんだ。この暗い世界が人の心なのだとしたら、俺はそれを晴らす為の絵を描きたい。俺にとっての『サユリ』がそうだったのように、誰かの光になる絵が描きたいんだ。いつか必ず、昂にもその絵を見せよう」
「うん」
 昂もドミノマスクを下げると、二人は用を成していない改札を通り抜けた。視界の端に双子の看守がいたが、むこうもこちらをちらりと見ただけで知らんぷりをしている。彼女たちからの課題はだいぶ前に片付けたので、気心が知れていると言っても過言ではないだろう。
 地上へ向かう階段を昇れば、軽い目眩と共に、周囲に喧騒が戻ってくる。渋谷はいつも人が多いが、もうしばらくすれば帰宅ラッシュに巻き込まれるに違いない。
 いささか呆けていたらしく、昂は立ち止った祐介にぶつかりそうになった。視線の先には川鍋が立っており、祐介に一通りの嫌味を言った後、悠々と歩き去って行った。
「美術展、近いんだったな」
「ああ。作品なら完成して、もう提出するだけだ」
「え、早いな」
「そうか?」
 祐介は首を傾げるが、昂の遠い記憶では、このころまだ描いていないはずだ。
「・・・・・・昂」
「何?」
「美術展で入選したら、その後で頼みたいことがある」
 昂は目を見開き、少し首を傾げた。こんな展開あったかなぁ、というのが内心の声だが、祐介の頼みを断るという選択肢はないので頷いた。
「いいけど、なん・・・・・・」
「俺の絵のモデルになってくれ」
「・・・・・・はい?」
 同じセリフを今年の春にも聞いた覚えがあるのだが、それは昂に対してではなかったはずだ。
「年度末に提出する絵を描かねばならない。今度の美術展で入選すれば、特待生としての面子は保たれるだろうが、それとは別に、進級前の課題がある」
「えっ、杏でなくていいのか?」
 正直、モデルなんて自信がなかったし、「苦悩」や「贖罪」をテーマにしたいと言い出した時のような状況が脳裏によぎって、昂は若干身構えた。しかし祐介は真面目な顔で、その澄んだ眼差しを真っ直ぐに昂に向けてきた。
「昂がいい」
 昂の顔面がぶわっと熱くなって、呼吸の仕方すら忘れたように、返事の声がうわずった。
「・・・・・・そ、そこまでいうなら」
「ありがたい」
 心からほっとしたような祐介の声に、また昂の心臓が過剰運動を始める。もう十月も近いのに、シャツが肌に張り付いてくるのがよくわかった。
「では、また連絡する」
「あ、ああ」
 じゃあな、と手をあげて歩き去っていく姿勢の良い背中を人混みの中に見送ると、昂は思いだしたように息を吸い込んだが、そのしゃっくりのような呼吸にむせた。
「げほっ・・・・・・な、なんだ、何が起こっているんだ!?」
 ぶつぶつ呟きながら頭を抱え、まだ熱を持った頬を手で擦り、たった今上ってきた階段を下りる。夢見心地のまま、ホームに入ってきた田苑都市線にフラフラと乗り込み、ぼんやりと吊革につかまった。
 芸術家然とした独特の感性と、変人扱いされる突飛な言動に付き合いつつも、昂はいままで祐介に、その芸術の素材になってくれと言われたことはない。基本的に祐介は綺麗なものが好きだし、最近は美醜が同居する人間の心にも理解を深めてきたようだが、専門は美人画だ。
(マジなのか!?素直に嬉しい!嬉しいけど、ちょっと待てッ!!)
 まだ心臓はドキドキとうるさいし、ガンガン血が巡っている頭の中は飽和状態で、冷静で理論的な思考ができない。
(・・・・・・どうしよう。オッケーしちゃったよ・・・・・・)
 祐介のことだから、おそらく脱ぐことは避けられないだろう。起たない体なのでそういう失態はないと思うが、恋焦がれている相手に全裸を見つめられ続けるというのは、非常に・・・・・・。
(恥ずかしいッ!!!)
 これでも思春期真っ盛りな高校二年生なのだから、ちょっとは手加減してもらいたい。絵が出来上がったとして、それが誰に見られるかとかはどうでもいい。どうせ昂の知らない、他校の誰かだ。
(・・・・・・東郷さんに、見られないといいな)
 唯一、祐介と同じ学校に通っている知り合いは一二三だけだが、彼女ならきっとスルーしてくれる・・・・・・といいな、などと希望的憶測を立てる。まじまじと鑑賞された上に感想まで述べられたら、もう彼女と将棋が指せなくなりそうだ。盤上でまで玉を素っ裸にされて王手とかされたくない。閃いてしまった彼女ならやりかねないし。
(いや、落ち着け。まだモデルになってくれと言われただけで、フルで脱げと言われたわけじゃない・・・・・・)
 祐介の描いた絵が美術展で入選するのは確実だが、その先について、昂は未知の領域に進もうとしていた。
「・・・・・・・・・・・・」
 上手くいっているはず、半分祈るような気持で自分に言い聞かせるが、なにしろ祈りを聞き届けてくれる優しい神がいない。毎回のように人事を尽くしても、昂に対する天命は無情だ。
(あれ?なんで俺・・・・・・)
 どうしてそこまで祐介にこだわるのだろうか。昂はふと疑問に思い、次の瞬間には、全身の血の気が引いた。
(ヤバイヤバイヤバイ・・・・・・忘れるな、忘れるなって!!)
 繰り返す時間の中で、ぽつぽつと記憶が抜け落ちているのは気が付いていた。何をしても同じ結果ならば忘れてもかまわない。だが、自分がこの茶番を繰り返す根幹を忘れてしまっては、自分が望んだ結末でループを抜け出すことが出来なくなってしまう。
(何のために?俺は何を変えたくて、これを繰り返しているんだ?)
 悪人たちの歪んだ欲望を盗み、ついには思い上がった悪神すらも捩じ伏せて、この世界に希望と活気を取り戻す。それは抗うトリックスターに与えられた使命であり、運命の囚われである昂には逃れられない戦いである。
(俺は、世界なんてどうでもいいと思っていたはずだ)
 自分の存在が許容されない世界など無意味だし、自分の正義が通せられれば、それでよかった。
 四軒茶屋駅に停まった電車から降り、地上に向かって階段をのぼりながら、昂は順を追って考えようとしたが、ばらばらの記憶がコラージュのように貼り合わさって上手くいかない。
(そうだ。大切な人がいる世界だから、守ろうと思ったんだ)
 本当に?それは本当だ。本当に・・・・・・?
「・・・・・・・・・・・・」
 昂はルブランのドアを押し開けながら、このドアを開けるのは何回目なのかと、くだらないことを頭の隅で考えた。


− いい加減にしろ、ゴミクズが!思い上がってんじゃねえよ!

このわからず屋!少しは素直に聞き入れろ!

− お前こそ、他人に構っている暇があったら、てめえのことぐらいてめえで救ってみせろ!

ッ・・・・・!言わせておけば・・・・・・いいだろう、やってやる!

− そうだ。いいか、二度と俺に構うんじゃねえ!

おい、待って・・・・・・

− 自分の愚かさの償いくらい、自分でできる・・・・・・取引、忘れるなよ

あけ・・・・・・!!

「っ・・・・・・!!」
 びくっと体を震わせて、昂は目を覚ました。ドキドキと心臓が早鐘を打ち、手のひらに冷たい汗を感じる。夢の中でこの手は、冷たい鋼鉄の壁を叩いていたように思う。
 どうやら、電車の中で居眠りをしていたようだ。立っている人がまばらな車内を、ビルが反射する日の光が車窓を突き抜けてきて、昂の顔を一瞬眩しく照らした。かたんかたんと揺れる座席の上で、誰かにもたれかかっていたのに気が付いて、昂は慌てて姿勢を正そうとした。
「すみま・・・・・・」
「起きたか?」
「え?」
 隣に座っていた見慣れた男に、昂の頭の中はさらなるパニックに襲われた。
「祐介・・・・・・なんで?え?ちょっと・・・・・・」
「どうした?」
 祐介の気遣わし気な視線に、昂は状況の把握が出来なくて問い詰めた。
「何でここにいる?今日は何月何日だ?」
「はあ?・・・・・・これから上野に行くのだろう?」
「それは何回目だ?」
「・・・・・・昂、落ち着け。言っている意味が分からん」
 昂は震える手で顔を覆い、何度か深呼吸を繰り返したのち、川鍋主催の美術展に、祐介の絵を見に行くところだと説明された。
「・・・・・・そうか」
 スマホの日付を見て、昂はもう一度、大きくため息をついた。
「まだ、これからか・・・・・・」
 目の前に一大イベントが控えていることを思い出すと、夢の中の出来事が遠くかすみ、それが何回目のことだったのかも忘れてしまった。
(どうか、今度こそ・・・・・・)
 キリキリと痛む胃が電車の振動に悲鳴をあげる前に、なんとか上野着のアナウンスが流れてきた。