キヨイオツキアイ ―1―


 その辺にはちょっとない処方薬が詰まった紙袋を受け取った高校生に、武見妙はそういえばと口を開いた。
「あ、ねえ君。例のアレ、もう治っちゃった?」
「いえ、まだですけど?」
 出会う人間すべてを虜にしかねない魅力を伊達眼鏡に隠した少年は、綺麗なアーモンド形に開く大きな目をしばたかせた。
「あー・・・・・・投薬治療、やってみる?」
「トラウマまで治せちゃう新薬でも出来たんですか?体だけ無理に動かしても・・・・・・」
「大事な思春期なんだから、放っておけないじゃない。君、このままじゃ若年性更年期障害になるか、疲れ切った視床下部や脳下垂体がイカレて、体のあちこちが使い物にならなくなる可能性だってないとは言えないんだよ」
「脅かさないでください」
 勘弁してくれと言わんばかりに首を回した患者に、武見はミニスカートから伸びた膝に頬杖をついたまま、ため息をついた。デリケートな話だが、主治医としては注意喚起くらいしておきたいのだ。
「一口に勃起と言っても、メカニズムはけっこう複雑なわけ。あっちこっちの神経やホルモンや酵素が、うまくかみ合ってああなるの。詳しい検査をしていないから確実なことは言えないけど、たぶん現在の君は、中枢神経と男性器周辺との交信音声が小さすぎて、体の中で報連相が出来ていない状態。わかる?むこうとこっちの両方で、聞いてないぞ、返事しろ、もしもーし!ってやってるの。いまのところ、アレ以外の君はすこぶる健康体。だけど、それは現時点での話。正常な機能を起こせていない不格好なホルモンバランスや、神経伝達物質の過不足は、いずれ体にも大きな影響を出す。君が十代の少年じゃなくて、体の出来上がったオジサンだったら、ここまで言いはしないよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「君に治す気がないとは言っていないけど、投薬のサポートを考えてもいいんじゃない?ってこと。ま、強制じゃないし、そういう用意もあるっていうだけの話よ」
「はあ」
「その気になったら、またおいで。とってもいいオクスリ、だしてあげてもいいから」
 うふふ、と武見が笑顔を見せると、少年は目だけで「嘘だー」と言ってきた。「いいオクスリ」なのは違いないが、八割ほどは実験・・・・・・いや、治験だから、少年が嫌そうな顔をするのは仕方がない。
「おだいじに」
 時々もこもこ動く通学バッグを肩にかけた少年が、武見内科医院の青いドアから出ていく。
 武見は手元のカルテを見下して、患者の名前に小さくため息をついた。彼の下の名前は、問診票に書かれた直筆のサインと保険証とでは、振られた読み仮名が違っていた。訳ありの子だというのは、わかっている。武見も助けられた、現在の密かな活躍も知っていた。だから余計に、悔しく思うのだ。
(あんなに若い子が、どれほど酷いショックを受けたっていうのよ!)
 「誰かを助けたがる者は、得てして誰かに己を助けてもらいたがっている者だ」と、そう学生時代の教授が言っていたことを思い出し、武見は額を押さえて唇を噛んだ。


 薄暗く、乾いた風が吹き止まない、渋谷の地下、メメントス。コンクリートの壁を侵食する捻れた線路と巨大な何かの骨、そこに不気味に明滅する赤い管が絡み合い、多くのシャドウたちが跋扈する巨大な大衆のパレスに、今日は人影があった。
 白い狐の仮面を頭に引っ掛けた男が、スケッチブックに一心不乱に鉛筆を走らせ、そのそばでは壁にもたれた男が、装飾の施された大振りなナイフを弄びながら、暇そうに宙を見上げている。時折、ぼちゃっという音と共に地面から起き上がる塊には、壁際から疾風の速さで黒衣が飛び掛かり、赤い手袋が不気味な仮面を剥ぎ取っては、瞬く間に無へと還していく。
「フォックス、そろそろ時間だ。移動するぞ」
「了解した、ジョーカー」
 メメントスを縄張りにする「刈り取る者」を、正面から相手にするのは骨が折れる。特に、今日は二人でしかきていないから、余計な危険は回避するのが一番だ。止まったままのエスカレーターを上って、最上階の改札口フロアに戻る。
「まだかかりそうか?」
「そうだな。もう少し描いていきたい」
「わかった」
 世を賑わす怪盗団のリーダーは、きわめてマイペースな芸術家に、実によく付き合っていた。暇なのかといわれてもおかしくないが、本人はいたって真剣だ。
「浮かない顔だな」
「え?」
 ドミノマスクをしていても、フォックスにはジョーカーの表情がつかめるらしい。
「いまに限ったことではないが、時折、そういう顔をしている。俺たちには見えない、なにか別のことを考えている」
「そうか?」
「ああ。今日のところはさしずめ・・・・・・奥村社長のことだろう?」
 図星だったのか、ジョーカーの視線が気まずげに泳いだ。
「やはりな。それで・・・・・・まさかとは思うが、失敗するのか?いまのところ、書斎に籠りきりという春からの情報だが」
「ストレートに聞いてきたな」
「お前相手に、オブラートも何もなかろう。それで?」
 柱に背を預けて腕を組んだフォックスに、ジョーカーはひょいとドミノマスクを額の上に押し上げてため息をついた。
「改心は成功するさ。だけど、奥村社長は・・・・・・春のお父さんは、助からないと思う」
 いやにはっきりと言う昂に、祐介は眉をひそめた。
「なぜだ?」
「たぶん、間に合わなかったと思う。あの様子じゃ、暗殺されたな」
「例の黒い仮面にか」
「ああ。俺たちの決行日を、奥村社長自身がバラしてしまったからな。真のお姉さんが集めた情報からみると、あの人はずいぶん廃人化の依頼をしていた。自白なんて、『上』が黙っていないさ。口止めできないなら、いっそ殺してしまえ、そう考えてもおかしくない」
「それは・・・・・・」
「誰にも言っていない。特に、春になんか言えるわけないだろ」
 春は実父の改心を望んだが、それが死に直結しているなど、思ってもいないはずだ。
「あの時、俺がパレスからの脱出を諦めて黒い仮面と戦って足止めすれば、奥村社長のシャドウを本人に還すことは出来たと思う」
「馬鹿な!」
「そう。そんなことをしても、結局は現実世界で殺されるだろう。物理的にな」
 どうあっても奥村邦和の死は免れない、と昂は結論付け、その推論に祐介も頷かざるを得ない。しかし、春の気持ちを思うと、胸が痛む。
「それは、決定事項か」
「まあ、そうだな。あー、何も聞かなかったことにしてくれ」
 昂はいま上ってきた階段の壁にひょいと腰かけ、足をぶらつかせながら首を回した。自分たちの力だけではどうにもならないと、その態度が言っている。
「それはそうと・・・・・・俺って、そんなにわかりやすいか?」
「他の誰も言っているのを見たことがない。たぶん、俺だけだ」
 肩をすくめた祐介に、昂は筆で書いたようにシャープな眉をひょいと上げた。
「さすがだな」
「よしてくれ。ただの思い込みかもしれん」
「ご謙遜。もうちょっと隠し事が上手くなるように、どんな顔をしているのか教えてくれ」
 くすくすと自嘲する昂に、祐介はため息をつきながら指先で前髪をはらった。
「お前なぁ・・・・・・まぁ、いい。俺が時々昂に感じているのは、さっきのように俺たちの知らないことを知って考え込んでいる、見知らぬ大人のような顔。それともうひとつは、何もない、虚無を思わせる深淵だ。目が、そうなっている」
「・・・・・・へえ」
 昂の唇が笑み歪んだが、目が笑っていない。祐介はこの際だからと、腹をくくって言葉をつづけた。
「実に不可解だ。俺はお前や仲間たちに、明るく温かく、力強いものを感じている。だが同時に、昂の目には暗く冷たいものが凝っている」
「俺の欲望かな」
「違う。言っただろう?何もない、虚無を思わせる深淵だと」
「・・・・・・・・・・・・」
「人の心など、俺はまだまだ、知らないことだらけだ」
 抱えたままのスケッチブックに手を添え、祐介は目を閉じた。自分の未熟さは折々に感じていたが、こうありたい、と思えることが、最近形になってきているように思う。
「祐介ならいいよ」
 はっと目を開いた祐介の前で、頼りない電灯の明かりを受け、そこに深淵が在った。
「昂・・・・・・」
「知りたくないのか?」
「知りたい。教えてもらえるのなら」
 即答できたこの探求心と好奇心が身を滅ぼさないことを願いながらも、祐介は転がってきたチャンスを逃したくはなかった。昂はゆっくり頷いて、冷気を吐き出すように語り始めた。
「俺が不能だって知っているだろ?」
「ああ。地元での冤罪事件からだと」
「そうなんだけど、直接の原因は事件そのものじゃない。たぶん、事件後の、まわりの反応のせいだと思う」
 そこに座っていた黒いコートが、内緒話をするように滑らかな動きで祐介の隣にやってきて、静かに柱にもたれた。
「誰も俺を信じてくれないし、誰も俺を助けてはくれなかった。不安で眠れなくても、自分はやっていない、って抗っていられるうちは良かった。判決が出て、首を切り落とされたような気分になって、食事が出来なくなったけど、怒りは持てた。・・・・・・だけど、いよいよ地元から追い出されるって理解した時に、諦めちゃったんだろうな。自分は、自分の知っているすべてから見捨てられたんだって、ここに居場所はないんだって、認めてしまったんだ・・・・・・」
 繋がれていたはずの手は振り払われ、全幅の信頼を寄せていた命綱はあっけなく切り離され、どこまでも奈落を転がり落ちていった先で、惨めにうずくまって諦めたと、昂は語る。
「諦めたら、起たなくなっていることに気付いたけど、ちゃんと寝られるし、環境が変わったら惣治郎さんのカレーも食べられた。美味しいって、思えた。諦めて楽になったことは多い・・・・・・人には諦めるなって言うくせに、な。お前が言うなって話だ」
 不健康な笑みを貼り付けた昂は、祐介だけが知っている秘密についても告げた。
「あの時、祐介も俺のシャドウに会っただろう?あれが、肉親や秩序を・・・・・・世間の正義を信じていた、お目出度い俺だ。あれを自分から切り捨てて、俺はようやく・・・・・・」
 もう一度立つことが出来たんだと、暗い瞳が嬉しそうに微笑んだが、祐介にはそれを直視できるような度胸はなかった。ただ、かすかにコーヒーの香りがする黒い人影が、このまま消えてどこかに行ってしまわないように、抱きしめた両腕に力をこめることしかできなかった。
「祐介、苦しいよ。・・・・・・聞かない方がよかった?」
「黙れ・・・・・・」
 掠れて震えた声しか出なかったが、祐介は聞けて良かったんだと首を横に振った。欠けていたピースが埋まる様な気がした。ジョーカーの姿が、高らかに鳴る突撃のファンファーレだとするならば、あの深淵は、踏み止まる為の重低音のリズムだ。使い物にならなくなった己の一部を切り捨ててまで、自分の力で立ち上がろうとする、執念にも似た圧倒的な気高さ。それこそが、滝浪昂の魂が持つ輝きだ。
「辛い話をさせて、すまなかった。・・・・・・昂が、ここに・・・・・・俺たちのところにきてくれて、よかった」
「・・・・・・うん」
 こつ、とくせ毛に包まれた頭がもたれかかってきて、祐介は自分の背にそっと腕が回されるのを感じた。