ジョーカーの鎖 ―3―
夢も見ない深い眠りからぽっかりと目を覚ました暁は、寝汚い質にしては早い時間にベッドから起き上がった。しばらく学校に行く必要はないが、昨日までの心身の疲れがようやく解消され、若い肉体と瑞々しい精神が活力を取り戻したのだろう。
階下からの物音で、惣治郎が店の準備をしていると知れた。 「んっ・・・・・・」 ぐいと伸びをすると、まだあちこちがひきつった痛みを訴えたが、身体が砂袋になったような重さは、きれいさっぱり消えていた。昨夜までかすかに残っていた頭痛もない。武見の治験に協力した時だって、こんなに後を引くような症状はなかった。まったく、酷いカクテルを打たれたものだ。 「んあ・・・・・・?」 「おはよ。まだちょっと早いよ」 「ん。オマエも、休んどけ・・・・・・どうせ学校には、行けないんだし・・・・・・」 布団の中で丸まったまま、またむにゃむにゃと眠りに戻ったモルガナを起こさないように、暁はそっとベッドから降りた。 (あ、これなら・・・・・・) すっくと立ちあがった脚に違和感はまだ少し残っていたが、竜司の手当てが的確だったおかげで、足は軽く上がり、階段を駆け下りるくらいの負荷がかかっても大丈夫そうだ。 (さすが元陸上部) 感心しながら体を伸ばしたりひねったりしていると、額からヒエールシートの残骸がぺろりと剥がれ落ちてきた。暁は頬に貼られていた分も剥がし、スウェットから普段着に着替えた。 用をなさなくなった湿布を貼り換え、剥がれかけの絆創膏を取り、初冬の寒さに手早くシャツを着ると、両手首に巻かれた包帯が目に留まる。 「・・・・・・・・・・・・」 ベルベットルームでの重い手枷、現実世界ではめられた手錠、それらは自分が囚人だと強く思わせたが、こうして手当された白は、温かく眩しかった。 (甘やかされてるな) 温かく力強い竜司の手のひらも、ひんやりとした細く長い祐介の指先も、暁を大事に思ってくれていることがよくわかった。怪盗団のリーダーとして、彼らの労と期待に応えねばなるまい。 暁は良く飛び跳ねる黒髪に軽く指を通し、足音軽く階段を下りて行った。 「おはようございます」 「おう。調子はどうだ」 厨房から顔を出した惣治郎に、暁は大丈夫だと頷いて見せた。手洗い場の少し曇った鏡を覗き込めば、頬の腫れもだいぶ治まり、青痣の端が黄色く広がっている。真剣な面持ちでシートを貼り付けてきた祐介を思い出し、暁は小さく苦笑した。怒らせると一番怖いのは真だが、祐介もなかなか迫力がある。 顔を洗って、惣治郎が用意してくれたモーニングを美味しく腹に収め、香り高い朝の一杯で頭をしゃっきりさせると、カリカリを渡されて上に行ってろと追い払われた。いくらルブランの中とはいえ、他人の目を避けるためには自室に引っ込んでいるのが一番だ。 「よう、元気そうだな」 布団から出てきて伸びをするモルガナの隣に座ると、スマホが震えた。担任の川上からだった。こちらの無事を伝えると、学校のことは任せろと請け負ってくれたが、最後のハートマークはなんなのか。マッサージだ洗濯だと呼び出す暁が悪いのか、無事を喜んでもらえるのは嬉しいが、若干べっきぃが混ざっているように見える。 双葉が選んで買ったお高めのカリカリを貪るモルガナをよそに、暁は思案にふけった。獅童との戦いはこれからだし、とりあえず明智の銃弾をやり過ごしたに過ぎず、これからのことを考える材料はいくらでもあった。ただ、それよりも先に、暁には引っかかることがあった。 ベルベットルームの主、イゴールのことだ。確かに彼は、暁の「ペルソナ使い」としての成長の手助けをし、『死んでみせる』トリックでの生還を称賛してくれた。だが、そもそも話がおかしいのだ。 (明智を罠にはめて、俺は死という『破滅』を回避した。だけど、牢獄からはまだ出られず、『自由への更生』もまだ終わらない) 獅童や明智との決着がまだだ、という理由も納得できるが、それが成されたとして、はたしてあの牢獄から出られるという保証はあるのか。 (俺の死が『破滅』ではないのか・・・・・・?) 暁は自分の背筋がすっと寒くなるのを感じた。たしかに暁の死は、暁にとって『破滅』だろう。しかし、『破滅』=暁の死、ではないのではないか。そういえば双子の看守が、アルカナの旅について話していた。何か関係があるのか・・・・・・。 (ちょっと待て。もしかして、イゴールがイセカイナビを俺に渡さなければ、俺は明智から命を狙われなかった・・・・・・?) 怪盗団が存在しない世界など、いまとなっては想像したくもない。だが、ペルソナにも目覚めていない暁の前に現れたイゴールは、最初から『破滅』を予見していた。 (イゴールは、なにか隠している。そして俺も・・・・・・なにか重大なことを勘違いしているんじゃないか?) その重大なことがわからない。たしかにイゴールは協力してくれる。だが、信用はならない、と暁のうちの声が警鐘を鳴らす。 その代わりと言っては何だが、不思議と双子の看守は信頼できた。暁の前で苦悩し、困惑し、喜んだり怒ったり照れたりする彼女らの、欠けた記憶とちぐはぐな印象は、暁の心にすんなりと味方であると許容させた。だが、イゴールは違う。 (うさんくさい・・・・・・) 明智の作り笑顔もたいがい胡散臭かったが、イゴールのそれは底が見えない。あの老人が何を考えているのか、暁にはさっぱりわからなかった。 「・・・・・・。おい、暁!」 「え?」 モルガナの声に驚いて、意識を思考の海から引っ張り上げると、愛らしい黒猫が心配そうに暁を見上げていた。 「大丈夫か?まだクスリが抜けてねーのか?」 「それは大丈夫。ちょっと、考え事」 「ははーん、シドーのキーワードか。よし、ワガハイも一緒に考えるぞ」 勝手に勘違いしてくれてほっとしたが、また嫌な記憶が目の奥で棘を刺してきた。 頑として黙秘を続ける暁に浴びせられた暴力は、今残る痛みのほかには、ほとんど覚えていない。自白剤を打たれるときに抵抗したはずだが、その前後を含めて、記憶はぼんやりとした霧がかかったままだ。 冴以外には絶対口を開かないと心の中で懐剣を握りしめ、嫌らしく眺め降ろしてくる監視カメラを睨みつけた。監視カメラが動いていれば、暴力以上のことはされないだろう。人間は痛みにはある程度耐えられるが、快楽には抵抗しにくい。もし冴が予定通り来なくて、クスリと一緒にそういう方向へ持っていかれたら、さすがの暁も心が折れたかもしれない。 暁を脱出させるために監視カメラをいじろうかという双葉の提案に、真はすぐに首を横に振った。明智が暁を殺すところがカメラに映っているのはまずいから、きっとその瞬間は電源が落ちるはずだ、というのが真の考えで、理にもかなっている。カメラが動かなくなった時が、暁の命のタイムリミットだった。 特別尋問室で冴と別れた後、監視カメラの電源が落ちて一気に緊張が増した。冴にスマホのことは伝えられたが、クスリで朦朧とした頭では、冴の問いにひとつずつ答えるのに精いっぱいで、余計なことをしゃべっていないか、あるいは必要なことをしゃべり足りていないか、自信は半々といったところだった。 数分後に再び冴が現れた時には、会心の笑みを浮かべるとともに、安堵で気が遠くなりそうだった・・・・・・。 「・・・・・・屠殺場」 『候補が見つかりません』 「空中庭園!」 『候補が見つかりません』 「・・・・・・神殿」 『候補が見つかりません』 「病院はどうだ?」 『候補が見つかりません』 「はぁ・・・・・・」 「ダメだぁ・・・・・・ワガハイ、もう思いつかない」 「仕方がない。みんなと議事堂前に行ってから、もう一回考えよう」 「そうだな」 暁はスマホを充電器に差し込み、表示された時間に目を走らせた。そろそろ昼だが、ルブランにはお客が入っているようで、暁の昼食はもう少し先になるだろう。 「なぁ・・・・・・」 「なに?」 竜司が置いて行ってくれたスポーツドリンクに口を付ける暁に、モルガナは毛繕いをしながら話しかけた。 「すまんな。それ、痛いだろ」 それ、とモルガナの視線が指すのは、包帯が巻かれた暁の手首。 「怪盗が手錠をかけられるなんて、わざとだとしても屈辱だ」 「気にするなよ。手錠なんて慣れてる」 「はぁっ!?」 瞳孔が真ん丸になったモルガナが、いつの間にそんなプレイを?などと言い出しかねない雰囲気に、暁は慌てて否定した。 「二度目、だからさ」 「あ・・・・・・すまん」 しょんぼりとうなだれてしまったモルガナを抱き上げ、暁はチャンスとばかりに滑らかな毛並みを撫でまくって堪能した。 「おい、ちょっ・・・・・・」 「和む・・・・・・。双葉や春たちにばっかり撫でさせないで、たまには俺にも撫でさせろよ」 「別にっ、ワガハイは許可出してねーからっ!あれは、あいつらが勝手に・・・・・・ああぁ〜にゃふぅぅ〜」 ゴロゴロと言い出したモルガナの頬や額をこちょこちょしながら、暁はふと思いついた。 「あっ、モルガナに教えてもらえればいいんだ」 「あぁん〜にゃにがぁ〜」 「手錠抜け」 「ふぎゃっ!?」 「あ、この手じゃ手錠かからないか」 ぷにぷにと肉球を指先で押すと、正気を取り戻したモルガナは素早く机の上に逃げてしまった。 「ちっ・・・・・・」 「舌打ちすんじゃねーよ!・・・・・・まあ、暁の器用さなら、ちょっと練習すれば抜けられるようになりそうだけど?」 「ふむ・・・・・・岩井さんの店にそういうのあったかな?」 パーティーグッズのようなチャチな物は、簡単に外れるようになっており、それでは練習にならない。ミリタリーショップならば、本物とは言わなくとも、それに極めて近い物なら手に入りそうだ。 「・・・・・・・・・・・・」 「おい、ジョーカーの顔で笑ってるぞ」 「怪盗スキルが上がっていいだろ?」 「はぁ〜。まずは捕まらないようにだな・・・・・・」 「万が一を想定して備えるのも、悪くない」 完全にやる気になっている暁に、モルガナはやれやれとため息をついた。 |