人獣心中 −7−


 賊が侵入し、祐介が姿を消してから、もう二週間が経とうとしていた。正直、惜しいとは思ったが、自分のもとを去った者は仕方がないと斑目は思っていた。ただ、心配事は祐介のことではない。
「掛け軸はまだ見つからんのか!」
 苛々と足音高く屋敷の中を歩き回り、斑目は頭を抱えた。あの掛け軸はただの掛け軸ではない。その道では高名な術者が神使を捕らえた呪い物で、つまり陽の下にさらされては、斑目だけではなく各所に不味いことになる代物だった。
 もしもあれが、価値のわかる特殊な役人の目に留まれば、斑目は捕らえられて入手経路を厳しく追及されることは免れない。そうなれば・・・・・・いや、そうなる前に、斑目が口封じに殺される可能性が非常に高かった。
 斑目がいくら焦って探させても、あの夜侵入してきた賊の足取りはさっぱりつかめず、賊を追ったと思われる祐介も、武家屋敷街に向かったようだという情報を最後に、行方が分からなくなっていた。
 奉行所の同心ですら、武家屋敷には踏み込めないのだ。いち商人である斑目が、容易に入り込める場所ではない。下手に名が知られているせいで、商談と称して一軒一軒渡り歩くなど、それこそ悪目立ちしてしまう。藪蛇になっては元も子もない。
 完全に手詰まりだ。いっそのこと、大火でも起きて、掛け軸が消えてなくなってくれればよいのだが・・・・・・。
「これだから無能は度し難い」
 馬鹿にするのも無駄だと言いたげな低い呆れ声に、斑目はびくりと肩を跳ね上げた。首筋がそそけ立ち、冷たい汗がダラダラと全身を濡らしていく。
「ヒッ、ヒィィッ・・・・・・!!」
 自分の肩の上を鋼の輝きが滑って現れ、斑目は振り向くこともできない。恐れていた黄泉の使者が、斑目の命を刈り取りに来たのだ。
「こ、ころさないでくれ!頼む!か、必ず見つけるから!殺さないでくれぇ!」
 腰が砕けてへたり込んだ斑目は、必死で畳みに手をついてうずくまったが、頭上から降ってきた声は、意外なことを告げた。
「見つける必要はない。あの絵は効力を失った」
「へ?」
「呪術が解かれて、神使が解放されてしまったんだ。もう貴様の知っている図柄ではない」
「そ、それでは・・・・・・!」
 自分を殺す為ではなく、知らせるために来た使者だったのかと、斑目は助かった安堵に浮かれて振り向いた。
「ぁ・・・・・・」
 そこには黒い鴉天狗の仮面をつけた若い男が、切っ先を斑目に向けたまま、冷ややかに見下していた。
「あの掛け軸は、神使を捕らえておくことで、その加護を所有者に与えるものだ。ここで死ななければ、いままで不当に得ていた加護が無くなった貴様が、これからは分相応の生き方になる、ただそれだけの話だ。・・・・・・どちらの方が、貴様にとって楽かは知らんがな」
 鴉天狗の男は歯をむき出しにしてニタリと笑い、振り抜くために刀を引いた。
「こちらにとっては、いま死んでくれた方が、楽でいい」
「やめてくれぇ!頼む!金なら・・・・・・金ならいくらでも出すから!」
 斑目は両手を合わせて拝み倒し、女中の不審がる声に呼ばれるまで、そのまま悲鳴を上げながらはいつくばっていた。
「いったいどうなさったんですか?」
「はっ・・・・・・はぁっ・・・・・・」
 顔を上げた斑目の前には、困惑した顔の女中だけがおり、あの黒ずくめの鴉天狗は、いずこかへと姿を消していた。


 祐介と暮らし始めてから、昂は苦笑いすることが多くなった。その理由のほとんどは、祐介の奇天烈な言動にある。
 子供の頃に「忍」として定型された理念が行動基準になっていたので、それが外れたいま、祐介がもともと持っている感性が爆発したのは無理なからぬことだろう。祐介は屋敷の門外に出ることはほとんどなかったが、家事をする昂の後ろについて回ったと思えば、ふてぶてしい態度の野良猫を撫でまわしていたり、庭に作られた畑の野菜に付いていた虫を飽きもせず観察していたりする。晴れた日には満開の牡丹をあちこちから眺め、匂いを嗅いだかと思うと毟って分解していたし、雷雨の日には、危ないからと昂が引きずって家に入れるまで、松の木の下で雨に打たれる松葉を見上げている、など・・・・・・。
(大きな子供だな)
 祐介は素直で、好奇心旺盛で、なんでも観察し、そこに在る美徳をいくつも見つけ出す。昂には、その清々しい祐介の在り様が、目を細めずにはいられないほど眩しかった。
 いまの祐介のお気に入りは、絵を描くことだ。紙と筆と墨と硯を渡してやれば、一日中、それこそ昂が飯の香りを漂わせない限り、いつまででも描いていた。斑目のところにいた時は、大勢の弟子たちの手伝いをすることはあっても、自分で筆を執ることはなく、いまになってその時間を取り戻すかのように、熱心に描き続けていた。いまは床の間に飾られている掛け軸のような絵を、自分でも描いてみたいそうだ。
 昂に絵の心得はなかったので、祐介に専用の道具を揃えてあげたくても一人で見に行くわけにもいかない。だが斑目の護衛をしていた祐介を店に連れていくと、面が割れているだろうし、まだ祐介を探している斑目たちに見つかる危険が高かった。
 なにかいい方法はないかと頭を悩ませていたある日、思い切り眉間にしわを寄せた祐介に「おい」と声をかけられた。さっきまで屋根の上で瞑想していたはずだが・・・・・・。
「どうしたの・・・・・・」
「俺が聞きたい」
 祐介の頭には白い狐の耳が飛び出し、邪魔そうにたくし上げられた着物の尻はもこもこと動いている。
「なにかきっかけは?」
「ない、と思う。気が付いたら、こうなっていた」
 祐介は恥ずかしそうに目を伏せて、昂から視線を逸らせる。
「ふむ」
 昂は指先でくせ毛をいじりながら考える。昂自身はと言えば、興奮したりすると出るが、基本的に自由に出し入れができる。最初からそれができたので、そんなに苦労した覚えがなかった。
「引っ込められる?」
「どうやるんだ?」
「えぇっと・・・・・・」
 感覚的なことを説明するのは難しい。人間の姿を思い出して、と言うのは、そもそも狐である祐介に対して言うのは奇妙だ。本来の姿を思い出しかけている可能性の方が高いのだし。
「まあ、しばらくすれば慣れるよ」
「それでは解決になっていないぞ」
「それはそうと、着物が邪魔そうだな」
 昂の怪盗装束のように、尻尾を通す穴を開けねばならないだろう。昂はさっそく、裁縫道具と着物を何枚か抱えた。
「・・・・・・絶景かな」
「どこを見ている、助平が!!」
 作業の間、祐介には久しぶりにくのいちの服を着ていてもらおうと思ったのだが、尻尾が邪魔で猿股も六尺も着けられないときている。膝上の短い裾を尻尾が押し上げ・・・・・・つまり、角度によっては丸見えだ。
 慌てて正座して昂を睨みつける祐介の後ろで、膨らんだ白い尾がばったんばったんと床を叩く。
「なぜこんな破廉恥な格好を強いられねばならぬ・・・・・・ッ!」
「いや、それ元々祐介の服だし。似合ってるし」
 顔を赤くして頬を膨らませる祐介が可愛くて、昂は殴られない程度に笑顔を保ったまま、急いで着物の細工に取り掛かった。
「・・・・・・器用だな。以前から思っていたことだが」
「そうか?」
「うむ。貴様の家事は基本的に手順に無駄がなく、要領も勘もいい。最終的な完成図を精密に想像でき、かつ技量が伴うのは才能だ」
 そんなに褒められると手元が狂いそうだと内心照れながら、昂は短く「慣れだよ」とだけ答えた。
「一人暮らしが長いから。長屋住みの兄さんたちだって、このくらいやれるだろう」
「そういうものか・・・・・・」
「あ、別に出来ないのが悪いとは言ってないからな。他にやってくれる人がいるとか、環境によるんじゃないか」
 祐介を傷付けたかと慌てたが、昂が見たのは、なんとも言えない表情で小首をかしげる姿だった。
「いや・・・・・・以前もこうして、誰かの世話していたのかと・・・・・・違うならいい」
「え・・・・・・」
 それはいったいどういう意味だと、頭の中がぐるぐるしはじめた昂は、指先の痛みに我に返った。針で突いてしまったようだが、血は出ていない。
「基礎知識はあったけど、お師匠さんのところで世話になっていた時に、もう少し上達したと思う」
「師匠とは、盗みのか?」
「それもあるけど、命の恩人かな」
 あの頃を思い出すと、今でも身が引き絞られるような苦しさを感じたが、過去は過去だと折り合いをつけられるようになってきた。忘れることなど、到底出来はしないが。
「はい、とりあえず一着出来たよ」
 裁縫道具をわきに除けて向き直ると、目の前に祐介の顔があって昂は仰け反った。
「わあっ!なにっ!?」
 眉間から高い鼻がすらっと伸びた彫りの深い顔立ちに、間近で睨まれるとけっこう迫力がある。着物の合わせ目から胸が丸見えだよと教えたものかと迷っているうちに、祐介は不服そうな表情のまま、すんすんと昂の匂いを嗅いだ。まるで、飼い犬が自分の主についた知らない匂いの正体を探すかのようだ。
「ど、どうしたの・・・・・・?」
「わからん。だが・・・・・・なにか、胸がもやもやする。痛い、わけでは、ないのだが・・・・・・」
 祐介は忌々しそうに目を眇め、さらに身を乗り出して昂をべたべたと触り始めた。
「な、なに・・・・・・」
「そうだ!悔しい、というのが、一番近い。なぜだ?」
「えぇ?」
 また祐介の謎回路が開いてしまったのだろうかと、昂は大人しく祐介にされるがままになっていたが、あまりに圧し掛かれると危ない。男にしてはほっそりとした背に腕を回して注意を促すと、祐介は大人しく腰を落ち着け、まじまじと昂を見つめてきた。
「・・・・・・わかった」
「そう・・・・・・」
「わかったぞ!貴様のせいだ!」
「なにが!?」
 まったくついて行けない昂の前で、祐介は頭を抱えて叫ぶ。
「貴様に余所見をされると駄目な体になってしまった!!」
「・・・・・・・・・・・・」
「だいたい今日だって、貴様を描こうとしたら耳と尻尾が生えたのだ!俺を撫でながらあんなまぐわいをしておいて、いまはなにも触ってこないから物足りないのだ!責任を取れ!!」
 恥じらいもどこかにすっ飛んだ祐介の言動に、昂は頭のどこかがブチッという音を立てたのを感じだ。祐介は昂の忍耐など知らないのだろうが、据え膳食わねば男の恥である。