人獣心中 −6−


 カンカンッと甲高い拍子木の音に目を覚まし、祐介は暗い室内を見回した。ふかふかの布団に入っている自分の身体が重だるくて、やっと先ほどまでの状況を思い出して飛び起きた。
「ッ・・・・・・!!!」
 しかし尻の違和感と腰の痛みにうずくまり、火の用心の声が遠く消えるまで、しばらくそのまま動けなかった。
(あ・・・・・・あの、外道がぁ・・・・・・ッ!!)
 自分を弄ぶ昂に一矢報いられたという手応えはあったが、あの後どうなったのか、まったく覚えていない。男物の寝巻に包まれた身体は清められ、縛り上げられていた腕や脚を撫でてみると、きちんと手当てがされているようだ。
(なにがなんだか・・・・・・)
 昂が何をしたいのかつかめず、祐介は額に手を当てた頭を軽く振った。掛け軸のこと、祐介の出生のこと、斑目のこと・・・・・・祐介が知らなかったこと、知らなくていいことまで教えて、それでいいのかと煽ってきた。祐介を飼い殺しにしたいのなら、そんなことまでする必要はない。斑目のように、何も教えずに黙っているか、適当に言いつくろえばいいだけだ。
(そういえば、奴は何処だ?)
 祐介は広い奥座敷に一人で寝かされており、枕元には忍道具一式が置いてあるだけ。障子の外も暗いが、祐介の体内時計は、まだ日が沈んだばかりの夕方だと言っている。
(そうだ!・・・・・・ム、何もないな?)
 自分の頭と尻の上あたりを手で探ってみたが、特に何もない。自在に動く尻尾もないし、耳も両方とも、頭の両側に普通の皮膚で付いている。あれは自分の勘違いかと思いかけて、それならさっきまでの出来事を丸ごと夢にしてしまいたかった。
(あんな、女のようによがるなど・・・・・・!!)
 経験のない快楽に溺れた記憶に恥ずかしくなって顔を覆ったが、とりあえず自分を犯した男を可及的速やかに消してしまわねばと判断する。
 ただでさえ痛みで言うことを聞かない体が、寝巻一枚の寒さで余計に動きにくいと感じた祐介は、掛け布団の上にかぶせられていた半纏に袖を通し、揃えて置かれた苦無を握り込むと、痛む腰をかばいながら、そろそろと座敷を抜け出した。
 襖の向こうは居間で、夕餉の支度が整っていた。囲炉裏にかけられた鍋からは、湯気といい香りが立ち上っている。その向こうは、昼間に祐介が座っていた縁側だろう。いまは中途半端に閉められた雨戸にもたれかかるように、昂が静かに座っていた。
 祐介は音をたてないように昂に近付き、彼が居眠りをしていることに、肩透かしを食らった気がした。疲れ切ったように眠りこける寝顔は、あまりにも無防備だ。
(いまなら・・・・・・!)
 自分が受けた屈辱と積もる怒りに、祐介は昂の首筋へと、鋼を握り込んだ手をひらめかせた。
「いッ・・・・・・!?」
 がりりと突き刺さる様な手の痛みに手放した苦無が、硬い音を立てて床に転がった。昂の目がぱちりと開き、瞬時に状況を理解したらしくため息をついた。
 暗殺に失敗した祐介は羞恥に身が縮こまりそうだったが、それよりも武器を持っていた手が痛くてたまらない。獣にでも喰いつかれているようだ。
「っつ!!いったたッ!!」
「もう、離してあげなよ」
 昂の呆れた声に、手を噛まれているような鋭さは消えたが、それでもまだじくじくと痛む。
「祐介が可哀そうだろ?・・・・・・別にかまわないよ。俺はそうされても仕方がない事をしたし」
 まだ眠そうに前髪をかきあげながら、昂は何者かと会話し、落ちていた苦無を拾い上げて、祐介に差し出した。
「俺が言うことじゃないけど、思ったより体は平気そうだな。はい」
「・・・・・・おい、誰と話している?」
 苦無をひったくるように取り戻し、祐介は薄気味悪く思いながら顔を顰めた。外は逢魔時、家の中には囲炉裏の明かりしかなくて薄暗いが、それでもここには、自分と昂の二人しかいないことは見て取れる。
「今回の依頼人だよ。・・・・・・祐介には見えないのか。困ったな」
 くせ毛をかき回してうーんと唸ると、昂は床付近に視線を落として、再び何者かと会話を始めた。
「大丈夫だよ。これでも枷は完璧に外れている。でも、このままじゃ連れていけないよね?・・・・・・うん、まだ祐介に全部を話していないし、しばらく預かるよ」
「おい・・・・・・!?」
 勝手に話を進めるなと文句を言いかけて、一瞬でその場の空気が変わったことに、祐介はぽかんとして目をしばたいた。外はますます暗くなり、どこか温かいのに張り詰めたような空気は、まだ冷たい春の夜気に変わる。そこにいた何者かが去ったせいだと祐介にもわかったが、いささか奇妙に過ぎた。
 だが、くつくつと響いてくる鍋の音に、なによりも祐介の腹が素直に状況を受け入れた。たっぷりの野菜が煮込まれた、味噌汁のいい香りが漂っている。
「う・・・・・・」
「ははっ、夕餉にしよう」
 緩慢に立ち上がった昂は雨戸を閉め、祐介を囲炉裏の傍へと誘った。しかし、その動きはぎこちなく、祐介と屋根の上で渡り合った時のような剽悍さは感じられない。
「謝って許されるような事をしたわけじゃないから、謝らないよ。それよりも伝えなきゃいけないことが、色々ある」
 また大名かと思われるほど豪勢な食事に困惑しつつも、祐介は大人しく箸をとった。料理にまたなにか入っているのかと疑わなくもなかったが、その考えはすぐに捨てた。もう昂が祐介を拘束する理由がなかったからだ。そして・・・・・・。
(美味い!)
 悔しいが、美味かった。しっかり出汁が効いて、疲れていた身体に染入る塩加減も絶妙だ。それに、くたくたに煮込まれた野菜が優しい舌触りで、いくらでも腹に入りそうだ。
「上方の出身か?」
 ぽつりとこぼれた質問に、昂はにこりと微笑んで答えた。
「いや・・・・・・いたこともある、という程度だ。俺にとっては、こっちの方が住み良いよ」
「そうか」
「祐介は、ずっと江戸に?」
「そう・・・・・・だと思っていたんだがな」
 自分が思い込んでいた出自に歪みがあったことを認め、祐介は軽く頭を振った。
「いまさら、詮無いことだ」
「ああ、そうだ。それも返さなきゃな」
「なにをだ?」
 貸したものなどないと本気で心当たりがなかった祐介に、昂はある意味最も妥当な返答をした。
「あの掛け軸だよ」


 翌朝、隣に敷いた布団から起き上がってこない昂に代わり、祐介は水仕事を片付けた。昨夜まであった身体の違和感はなくなったし、熱を出して動けない昂を放っておいて、何処へなりとも行けるはずだが、なんとなくそんな気持ちにはならなかった。事情はなんであれ、自分を強姦した男ではあるのだが・・・・・・。
 がらんとしてたいして汚れていない屋敷の中を掃除し、床の間に飾られた掛け軸に目を留めると、しばらくそこから動けなくなる。
「・・・・・・・・・・・・」
 そこには、仲睦まじい様子の狐の親子が描かれていた。技巧という点では、斑目の屋敷で見た作品たちの方が数段上だと思う。おそらく、多少経験がある、といった程度の素人が描いたものだ。だが、そこで動き回る生き物の隅々まで観察され、やわ毛一本にいたるまで、心を込めた筆運びだとわかる。描いた者の真面目さと、この狐たちへの愛情が、溢れんばかりに伝わってくる、素晴らしい絵だった。
(まさか、あの絵の下にこれがあったとは・・・・・・)
 祐介が昂から返された時には、もうあのおどろおどろしい絵は消え、この状態になっていた。元々は、とある神主が所有していた物だそうだ。そして、この狐たちは神使であるという。描かれた親子が、祐介と、その母親であるということも、祐介は昂から聞いていた。
(俺が、神使・・・・・・)
 まったく実感がわかない。祐介には、自分が人間であるという認識しかなかった。物心ついたときから、自分の周りには人間しかいなかったし、信仰心も人並みであると思う。それに、斑目の屋敷から昂に釣り上げられるまで、祐介に接触してくる神秘的なものなどなかった。
 おそらく、掛け軸に施された呪いのせいではないかと昂は推察した。神使としての在り方を封じられていたのだろう、と。
 そして、その呪いを祐介は自力で解き、自由になったと、昂は保証した。昂が『奪われたものを盗り返してほしい』と依頼されたのは、祐介の自由だった。だから正確には、神使としての姿を取り戻さなくても構わないし、戻りたければ斑目の屋敷に行ってもいい、それは祐介が自由に決めていいのだと昂は告げ、力尽きたように眠ってしまった。
 いくら自力で呪いを解かせるためとはいえ、祐介に発現させた力を鎮めるため、昂は相当な無理をしたようだ。祐介の怪我は擦り傷でも丁寧に手当てがされていたのに、チラリと着物の合間から見えたかぎりでは、自分の怪我はおざなりに布を巻いただけのようだった。
 祐介はさきほど、自分が監禁されていた土蔵を覗いてみたが、踏み固められていたはずの土間は荒れて隆起し、内側の壁や扉がボロボロになっていた。覚えていないだけで、人間とは思えない酷い暴れようだったとうかがえる。
(しかし・・・・・・なぜだろうな)
 祐介を激発させたいならば、暴れる体力も削れるよう、もっと殴るなり、乱暴に抱けばよかっただろうに。矛盾する言動が多い昂には、まだ祐介に告げていない事がたくさんあるのかもしれない。
(秘密主義すぎるのも、猫らしいか)
 祐介はもう一度掛け軸に視線を漂わせると、ほうきを片付けて、昂の様子を見に戻った。
「起き上がっていいのか?」
「うん。・・・・・・ごめん、祐介。色々やらせちゃって」
 台所に立っていた昂は、水を飲みに起きだしたらしい。まだ動きはぎこちないが、顔色はだいぶましになったようだ。
 ぼさぼさに跳ねている前髪を上げて額に手を当ててみると、朝に比べれば熱も下がってきた。
「・・・・・・おい、その耳はなんだ」
「ぅ・・・・・・あまりにも、びっくりして」
 渦を巻く黒髪から勢いよく飛び出した猫耳と、真ん丸に広がった瞳孔に、やはり目の前の男はただの人間ではなかったと思い知らされる。
(そういえば、猫は頭の上から手をかざされるのを嫌がるな)
 嫌がらせをするつもりはなかったので、首筋に手を当ててみた。やはり熱は下がってきているようだが、なぜか赤味が増してきた。顔も赤い。
「む?また熱が上がったか?」
「ゆゆゆうすけが、さわっ、る、からっ!」
「なぜだっ!」
 お前は散々俺に触ったではないか、と理不尽な反応に苛立ちを覚えて柔らかな頬をつまむと、昂はふぎゅっと小さな悲鳴をあげて、厠に逃げていった。
(おかしな奴だ)
 まったく善良ではないが、必ずしも悪だとは言い切れない。だからだろうか、祐介には昂を憎む理由はあっても、少なくとも嫌いではなかった。