人獣心中 −1−


 じゃりちゃりりりん、と軒下の下駄脱ぎに積み上がった銅銭の中から、男の指は器用にも小玉銀を探し出して、その一粒だけをつまみ上げた。
「前金だけもらっておこう。上手くいくかは、わからない」
 少し困ったような調子ながらも、男は請け負ったと銀貨を懐にしまった。
「期待しないで待っていて」
「お前以外に、誰ができようか。同胞の忘れ形見じゃ。何卒お頼み申す・・・・・・」
 犬が唸るような聞き取りにくい言葉だったが、その声には痛みを堪えるような必死の懇願がにじんでいた。
「・・・・・・微力を尽くすよ」
 月明かりが流れる雲に覆われた瞬間、軒下にわだかまっていた気配が消え、下駄脱ぎの上に盛られていた銅銭の山も消えた。ひょいと眉を上げた男は懐をゴソゴソと探り、もう一度鈍い銀の輝きを指先につまんだ。
「葉っぱにならなくてよかった」
 戻った月明かりに照らされ、血色の良い艶やかな唇が、可笑しそうにニィッと吊り上がった。


 繁盛しているらしい賑やかな飯屋の席で差し向かいに座り、かつおだしの香り漂う熱々の蕎麦をすすりあげながら、三島由輝は意外そうに首を傾げた。
「うーん、斑目屋の噂かぁ・・・・・・お上の覚え目出度く羽振りはいいみたいだけど、扱っている美術品に贋作や盗品があるって聞いたことはあるよ」
「それ本当か?」
 滝浪昂は箸を持ったまま中性的な美貌を顰めたが、三島は肩をすくめて首を振った。
「俺にはわからないよ。滝浪だって、茶碗や屏風の善し悪しなんてわからないだろ?見た目が綺麗でも粗悪品だったっていうヤツもいるし、ただのやっかみだって言うヤツもいるし」
「ふむ・・・・・・」
 美術商の斑目一流斎は、高額の美術品を売買する傍ら、自らも掛け軸や屏風絵をしたため、それらは大名たちはもちろん、上方の公家や僧侶たちも、こぞって買い求めているそうだ。そういったことから、斑目の蔵には美術品の他にも金銀小判が積み上がっているともっぱらの噂だが、盗みに成功した者はいない。警備も厳重そうだ。
「斑目と取引したことのある奴の話だと、商品は倉に、斑目自身の所有物は屋敷に置いてあるそうだ。だけど、滝浪が言う様な、物の怪が憑いた品って言うのは、聞いたことが無いなぁ。あの斑目屋なら、そういう物も持っていても驚かないけど」
「そうか、ありがとう」
 昂が礼を言うと、三島はにひひっと照れ臭げに笑った。少し頼りなげに見える童顔の三島だが、結構世情に通じており、昂はよく噂話を聞きに声をかけていた。今回もそうだ。専門知識を要する件は佐倉屋の双葉嬢でなくてはならないが、下町での噂を得るには、三島に聞くのが一番早い。
 蕎麦を腹に収めて席を立った昂を、三島は真面目な顔で呼び止めた。
「あと、斑目に近付くなら気を付けろよ。凄腕の護衛がいるって話だ。屋敷に忍び込んだ賊は、みんなそいつが捕まえたってさ」
「わかった。用心しよう」
 またな、と手を振る三島と別れると、昂は歩きながら思案に暮れた。


 あてがわれた質素な自室にて、喜多川祐介は布団に入ったまま眠れなかった。
(気が立っているのだろう)
 巷にばらまかれた怪文書には、祐介の雇い主である斑目が神仏を冒涜する品を所有しており、必ず回収されるであろうと書かれていた。斑目本人は、そんな物はない、出鱈目だと激怒していたが、祐介にはわからない。敬愛する主人は、そんな物は持っていない、と信じるしかないが・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
 それとは別に、最近、屋敷でも斑目の駕籠を護衛している外でも、時折絡みついてくるような、妙な気配を感じていた。視線ならば、わかる。斑目は裕福だったし、祐介自身についても、その多くが女性からであったが、よく見られていた。
 しかし、その気配は「観察している」段階を通り越し、「傍で匂いを嗅いでいる」ように感じるほど近かった。斑目一流斎に仕えるようになって以来・・・・・・いや、自分の生涯で、いままでこのようなことは覚えがない。
「・・・・・・はぁ」
 若干の寝不足を感じながらも、行燈の明かりもない暗闇の中で祐介は起き上がった。屋敷内を警邏する護衛はいたが、祐介は不安を感じて忍装束を身にまとい、そっと自室を抜け出した。なにもなければ、すぐに戻ってこようと。
 屋根伝いに敷地内をぐるりと回って、護衛たちが寝ずの番をしている倉も上から下まで確認して、やっと気持ちを落ち着けて屋敷の屋根に飛び移ろうとしたとき、縁の下から廊下へと、丸い影が素早く動いたように見えた。
(なんだ?)
 人間にしては速すぎる。ネズミ避けに放し飼いにされている猫だろうかと首を傾げたが、自分のように子供の時から忍として働いている者もいる。それに、この先には斑目の作品庫があるはずだ。場合によっては子供を手にかけねばならないかと気持ちが沈んだが、自分の職務を思い出して、祐介は音もなく屋敷の廊下へと飛び降りた。
 床板をきしりともさせずに斑目の作品庫へとたどり着けば、やはりかかっているはずの錠前がない。
(この短時間で開けたか!)
 錠前破りの腕も、中に閉じ込められることを避けて閂を錠前で固定してしまう用心深さも、本職とみていい。すぐに飛び込んでいきたい衝動をぐっとこらえ、祐介は相手を確認すべく、そっと覗きこんだ。賊というのは祐介の勘違いで、斑目がいるのかもしれない。
(・・・・・・?)
 すらりとした若々しい影からして、老年の斑目ではない。獣のような素早さで動けるようだが、背丈は祐介とあまり変わらないように見える。なにより奇異なのは、祐介すら目を細める灯りひとつないこの暗闇の中で、その人物は目的のものを探すように、棚に収まっている掛け軸の桐箱をぽいぽいと除けていた。
「!」
 一瞬動きが止まった影は、見つけたとばかりに掛け軸を広げ、小さな舌打ちをした。
「目的の物は見つかったか?」
「ああ。隠すならここだろうと思ったよ」
 祐介が様子を窺っていたことに気付いていたのか、若い男の凛とした声は少しも動揺せずに返事をしてきた。賊はくるくると掛け軸を丸めて手早く背嚢にしまい、足元に転がった掛け軸たちを踏まないよう、危なげない足取りで祐介が待つ扉までやってきた。
「・・・・・・誰の趣味?似合っているからいいけど」
「ッ・・・・・・!」
 全身黒ずくめの男は、扉にもたれるように腕をかけ、長い睫毛に縁どられた大きな目で、祐介を上から下まで眺めてきた。驚くべきは、特徴的な渦を巻いて跳ねる頭髪から、にょっきりと先の尖った獣の耳が生えていることだ。唖然として声も出ない祐介は、目の錯覚かと何度も目をしばたいた。そんな様子が可笑しかったのか、わずかな星明りを溶かし込んだ目は機嫌良さそうに細められ、艶やかな唇がニィッと笑みを添える。
 祐介は直感した。この男が、あの気配の主だと。
「貴様が・・・・・・!!」
 祐介の手は宙を掴み、素早く抜かれた苦無も、目標を失って祐介の手に握り込まれた。
 ととと、と漆黒の廊下に消えようとする影を追って、祐介は走った。相手は祐介よりも身のこなしが軽い。呼び笛を咥え、思い切り吹いた。
 屋敷中に響き渡る笛の音に、眠りに付いていた空気が一斉に緊張を高める。篝火が焚かれて夜空に金色が舞い、護衛たちがどたどたと集まり始める。祐介は中庭に降り立ち、声を張り上げた。
「曲者だ!!!であえであえ!!」
「何事だ、祐介」
 寝間着姿のまま寝所から飛び出してきた斑目に、祐介はかしこまって膝をついた。
「申し訳ございません、賊の侵入を許しました。旦那様の作品庫より、何某かの品を持ち出した様子!」
「なに・・・・・・!?」
 斑目のしわに埋もれた顔の中で目が見開かれ、慌てて確認に行こうとするも、いたぞ、という護衛の声に屋根の上へと視線をやった。
 つるつるした滑らかな瓦の上で、その影は高らかに笑い声をあげた。
「神を畏れぬ不徳の輩、斑目一流斎よ。オタカラは頂戴していくぞ!」
「鼠めが!捕まえろ!!」
 斑目の叫び声が終わる前に、祐介は屋根に飛び乗って、賊へと距離を詰めていた。しかし苦無を振るっても、相手は猫のような敏捷さで曲芸よろしく瓦の上を跳ね回る。なんの冗談か、奴の尻からは細長い尾が伸びてゆらゆらと揺れ、その姿態に絶妙な均衡を保たせているようだ。
「おのれ、面妖な鼠よ!」
「失礼だな。俺は猫だ」
「黙れ、曲者!!」
 祐介は黒猫のような賊へと苦無を投げ、宙を切って避けるその着地場所に向かって、さらに苦無を投げた。植木が枝を伸ばしていて見えにくいが、そこは屋根の終わりで、宙で方向転換しない限り、賊の後ろには何もない。
「!?」
「覚悟!!」
 走りながら背負った忍者刀を抜き放ち、体勢を崩しながらも着地を試みる賊へと渾身の力でもって振るう。
 ギンッ、という金属に当たったような手応えに、防がれたという驚愕と痛恨の口惜しさが、祐介の唇から鋭い吐息となって吐き出される。しかし祐介の斬撃を受けた賊は、予想以上に吹き飛び、まるで羽でも生えているかのように、道を挟んで隣接する近隣の屋根へと飛び移って行った。衝撃を推進力にして上手く逃げたようだが、勢いを殺して足元の屋根瓦が何枚も割れて剥がれた。
「すごい力だな。こわいこわい」
「舐めた真似を・・・・・・!!」
 祐介も飛び移ろうとした矢先、足元の道へ提灯を掲げた同心たちがなだれ込んできた。そちらへ一瞬気を向けた隙に、屋根の上からは賊の姿が消えていった。
「待て!!」
 しかし祐介の声は夜気に吸い込まれ、提灯や篝火の明かりが夜闇を突き上げてしまい、それ以上、闇へと紛れていった賊を追うことは出来なかった。