言えない感情 ―3―


 昼休みにニュースヘッドラインを見ていたらしい祐介からSNSに連絡があり、昂は急いで自分のスマホでニュースを確認した。確かに昨日の夜、警察に捕まったはずの男の、死亡ニュースがあった。
『留置所内で死亡?』
『おいおい、どういうこった』
『あれが精神暴走・・・・・・ということなのだろうか?』
『ただの病死にしては、急だよね』
 確かに肥満気味の体形だったが、あれだけ元気に走っていたのに、いきなり心臓麻痺は不自然に思われる。寒い季節ならまだしも、いまは六月だ。
 昂はさらに検索をかけ、気になる事実を見つけた。
『与党議員の甥らしい。親は大企業の重役・・・・・・?』
『それでニュースになってるの?・・・・・・なんか変じゃない?』
『たしかに。それだけのコネクションがあるなら、逆に隠蔽されそうなものだ。・・・・・・いや、警察署内で死んだことの方が、世間的には問題なのか』
『まあ、死んじまったならしょーがねえ』
 竜司の言う通りで、改心させられれば良かったのだが、すでに死んでしまったものはしょうがない。どちらにせよ、これ以上祐介に付きまとう痴漢はいなくなったのだから。
「どうした、コウ?」
 いつになく険しい表情になった昂を、机の中からモルガナが見上げていたが、昂は首を横に振っただけで何も言わなかった。

 その夜、屋根裏のベッドに転がって考え事をしていた昂のポケットでスマホが震えた。
『昂、いまいいか?』
(祐介?)
 どうしたのかと返事を打つと、痴漢を捕まえられたことと、あの時身を挺して盾になろうとしてくれたことの謝意だった。
『これで安心して外出が出来る』
『祐介が無事でよかった。それに、俺もお礼言ってなかった。庇ってくれてありがとう』
 カロリーヌに蹴られたのかと思うほどの衝撃だったが、覆いかぶさるように背に張り付いた細身の感触に、頭の中の血が下がったり上がったり大変だった。
『そういえば、竜司から昂も怪我をしていたと聞いた。大丈夫か?』
『かすり傷だよ。祐介のおかげで助かった』
 ありがとう、そう打つと、しばらく間が空いて、お互い大事なくてよかった、と返ってきた。
『明日から社会科見学だったな。存分に見聞を広めてくるといい』
『うん。おやすみ』
『おやすみ。また後日』
 チャットを切って、昂は再びベッドに仰向けに転がった。
「うぅ〜っ」
「どうした?」
「あぁ、頭がどうにかなりそう・・・・・・いや、もうなってる自覚は十分あるんだけど」
 ベッドに飛び乗ってきたモルガナが、くせ毛頭を抱えて唸る昂に、呆れたようにため息をつく。
「頭がおかしい奴は、普通自分で頭がおかしいとは言わねえよ」
「モナは優しいな」
「ワガハイ紳士だからな」
 自称紳士の顎を指先で撫でてゴロゴロ言わせると、昂は幾度となく繰り返した明日と明後日の出来事にため息をつく。正直、憂鬱だ。
 祐介を襲った変質者の事件にしても、これが吉兆なのか凶兆なのか判断が出来ない。やり直すたびにレイヤーを重ねる様に、少しずつ認知を変えてきた歪のせいなのか。
 ラヴェンツァの呆れ顔も、五、六回を超えたあたりから数えるのを放棄した。それがトリックスターの決めたことなら、というありがたいお墨付きだ。
(神様の固定観念を削り取っているんだ。なんだってやってやる)
 自分の為に周囲の未来をも変えることに、まったく罪悪感を覚えないとは言わない。だが、その力と権利があるのにベストを尽くさないのは嫌だという、ただのわがままだ。
(俺自身の目的が出来た時点で、大義と手段が入れ替わっている・・・・・・結局、俺も同じクズなんだよ)
 明日初めて会う予定の何度も死なせた男に、昂はどこか壊死した心の中で呟いた。

 スマホを充電器に挿し、祐介は備え付けの勉強机に突っ伏した。右手の甲と肘の擦り傷は、もう気にならない程度の痛みに治まっていた。
 現実世界でまで、異世界での様な身のこなしで動けるわけではない。完璧に気配を消す昂はもはや別格だが、運動とはあまり縁のない祐介が、現実世界でいきなり機敏に動けるようになるかと言えば無理だ。
(余計な事をしただろうか・・・・・・)
 祐介がタックルするよりも、完全に自分の身体をコントロールする昂自身で動いたほうが、二人とも無傷で済んだのではないか。そう気付いてから、自己嫌悪でたまらなく気分がくさくさした。保護観察中の昂を警官の視界に置くよりはマシだったと思うのだが、自分が最善の立ち回りをしたのか自信がない。
 斑目の謝罪会見の後から、自分が酷く無力な子供に戻ったような気がしていた。選んだのは自分だし、『サユリ』を盗り返せたことはこの上ない喜びだったし、こうなる覚悟はしていた。後悔はしていない。ただ・・・・・・何事につけて心細いのだ。
 自分が正しい道を進んでいると、自分が正しい事をしていると、誰かに保証してもらわねば立っていられなくなりそうだ。見たくないものから目を背け、自分の両脚で立っていなかったツケが回ってきたのだろう。
(俺は、こんなに弱い人間だったのか)
 額と腕の間に挟まれた前髪がくしゃりとよれる。頬の下の無骨な冷たさが心地いい。
 もう少し時間が経てば、この浮き沈みの激しい気分も凪いでくるに違いない。昂たちが社会科見学に行っている間に、祐介もきちんと気持ちを整理しておこうと決意する。
 それにしても不思議な縁だ。あの三人と近付いたのは、間違いなく祐介の方からだった。もちろん、祐介にはそんなつもりはなく、ただ杏にモデルになってもらいさえすればよかったのだが・・・・・・。
(俺は何を見ていたのだろうな)
 思い返せば苦笑いしか出てこない。もちろん杏は素晴らしい造形の持ち主だし、溢れ出す生命力の輝きは豊かな表情と眼差しに迸っている。ただ、彼女の優しさも気の強さも、少し大雑把な所や意外と口が悪くて手が出るのが早い所など、友達付き合いをしなければまったく知らなかったし、昔の祐介ならば目を向けることすらなかっただろう。
 気付かせてくれた彼らには感謝しているが、それによっていままで単純な世界しか見てこなかった祐介の感性が、酷く揺さぶられているのも確かだ。虚飾と金にまみれた斑目の真の姿には、激しい怒りと悲しみがわいた。大切な人だと思っていたからこそ、その落差と裏切りに愕然となった。人の欲とはここまで醜く歪み、肥大するものなのかと。
 それとは全然方向が違うが、一昨日の夜に路上で抱き着いてきた男の欲望も、また祐介には衝撃的だった。自分が整った容貌らしいという自覚はあったが、自分の顔の善し悪しが絵の出来に反映するわけではないから、祐介自身にはまったく興味のない事だった。祐介は確かに長身に比して痩せ気味だが、それでも確実に男だとわかる骨格をしているし、なにより声は間違えようもなく低い男の声だ。
(・・・・・・興味はあるな)
 あの変質者が持っていた欲望に対して、だ。本人が死んでしまったので、メメントスで確認することは出来なくなってしまったが、祐介の何が良くて欲情したのか聞いてみたい気もする。・・・・・・十中八九、吐きそうなほど気持ちが悪くなるとは思うのだが、それでも芸術家の探求心は残念だと不満を漏らす。
(おかしいな。俺は美しいものを描きたかったはずだが?)
 『サユリ』のような美の結晶に、少しでも近付きたい。それは純粋な祐介の気持ちで、美しさとは何かを模索する事の大小は問わなかった。それがどういうわけか、最近は人の欲望に関する思索の方が多くなってしまって、これもまた祐介の頭を悩ませるのだ。
 裸婦像やヌードモデルを見慣れてしまったせいか、祐介にはあまり女性に対する性欲が強くない。状況やオプションが付いてしまうとたじろがなくもないが、完全に脱がれてしまうと、それはもう芸術の域に入ってしまうのだ。美術品になってしまうと、そこにある官能やエロスと言ったものは、喜怒哀楽のような表現のひとつに落ち着いてしまい、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。
(そういえば、触ったことはなかったな・・・・・・)
 現実世界から杏を追いかけて斑目のパレスに落っこちた時に、杏を抱き留めはしたが、女性にそういう目的で触れたことはない。もっとも、同様に男にも触れたことはないが。
「っ・・・・・・」
 背中に触れた体臭のきつい柔らかな肉感を思い出し、祐介は鳥肌が立った。二の腕は昂がおまじないをしてくれたが、どうせなら背中にも・・・・・・。
(なにをっ!考えている、俺はッ!!!)
 思わず机を拳で力いっぱい叩いてしまい、じんじんと痛む手をぶらぶらと振る。昂のおまじないは、驚きはしたが嫌ではなかった。では逆に、自分が昂に抱き付いたあの瞬間、昂は嫌ではなかっただろうか?そう気付いてしまうと、祐介はサーッと血の気が引くような気がした。
 あの時は緊急回避的なものだったし、そういう目的で密着したわけではないし、昂は嫌そうなそぶりを少しも見せなかったが・・・・・・。
 廊下で誰かが誰かを呼ぶ大声がする。風呂上がりだろうか、何人もゲームのおしゃべりをしながら階段をどやどやと上がっていく。ばたばたと祐介の部屋の前を走って行く足音が・・・・・・。
「ええい、うるさいっ!!」
 落ち着いて考え事もできないと、祐介は勢い良く立ち上がった。静かな家で暮らしてきたから、毎日が修学旅行のようなこの騒がしさは閉口する。四月に入寮してきた新入生も、そろそろ落ち着いてもいいはずだろう。
 寮にいれば朝夕の食事に困らないが、男子学生寮がこんなにうるさいとは思いもしなかった。共用部の掃除も行き届いているとはいいがたく、美術品の製作管理の面からそれなりに清潔を好む祐介には、苛立ちを覚えることのひとつだ。
 自分の立場に選択肢が多くないことはわかっているが、なんとか解決策を考えなければなるまい。

 TV番組での明智の発言に竜司が怒りの大噴火を上げていたが、祐介も明智の言葉で自分の気持ちがすんなり整理されて固まった。実際に苦しんでいる人間を助けたわけでもない外野が、何を根拠にしたり顔で正義を語るか。法律が祐介を救ってくれたか?警察が斑目の悪事を暴けたか?まったくのナンセンスだ。
 その明智に気に入られたらしい昂はといえば、どこか白けた様子で肩をすくめただけだ。なぜそんなに冷静なのかと思えば、打ち上げ鍋パーティーで聞けた、昂の前歴の話だった。あまりのことに言葉も出ない。それは四角四面の正義なんて、鼻で笑うようにもなるだろう。大人が支配する法治国家によってつくられた、冤罪被害者だ。
 互いが経験した理不尽な過去を共有すると、杏が妙なことを言い出した。
「みんなのこと、昔から知ってる気がする」
 似たもの同士だからかな、そう微笑む杏から、竜司やモルガナに視線を動かした祐介は、視界の端で昂の唇が緩やかに弧を描くのを見た。
「そうだな」
 傍らに座ったモルガナを撫でながら、黒縁の伊達眼鏡をかけた黒い目が、ひび割れた薄氷のように微笑んだ。
 この風景に、祐介は見覚えがあった。どこかで・・・・・・いや、いつのことだ?記憶の中に、既視感と同期するものはない。
 祐介は言い様のない胸騒ぎをおぼえたが、これからも昂をリーダーに怪盗団を盛り上げていこうという会話に呑み込まれ、それ以上、その既視感を深く考えることはできなかった。