言えない感情 ―4―
洸星高校の美術室で、祐介は描きかけの作品を前にしても、評価を気にして次の一筆をどう入れるかさえ躊躇われるようになってしまった。
(まいったな・・・・・・) 自分の立つ姿勢は決まったのに、後ろ盾がなくなっても特待生の資格を維持していかなくてはならないプレッシャーから、あれこれと余計なことを考えてしまう。さらに、前々から目をつけられていたらしい秀尽学園の生徒会長に、怪盗団だと正体がバレて脅されたのも、新たなストレスとして加算されそうだ。 くさくさした気分をどうにかしたくて、祐介は『サユリ』を眺めようと、自宅に戻る昂に付いてルブランへ向かった。祐介がスランプだと訴えると、昂は解決に協力しようと快くうなずいてくれた。いままで、あまり他人に悩みを打ち明けるような付き合い方をしてこなかったので、こうしてかしこまらずに受け入れてもらえるのはありがたい。 マスターの惣治郎は買い物に行っているらしく留守だが、自分も門限があるし遅くまでお邪魔をしては悪いと立ち上がった祐介は、そういえばと昂を見つめた。 「ひとつ、聞きたかったことがある」 「なに?」 「あの・・・・・・痴漢を捕まえたとき、俺が飛びついたのは、嫌ではなかったか?」 「は?」 まったく想定外の質問だったらしく、昂は目を丸くしてしばらく絶句した後、言葉を選びながらよく跳ねる前髪を指先で弄った。 「えぇっと・・・・・・どういうことだ?俺は全然嫌じゃないというか、むしろ嬉しかったんだけど?」 「そ、そうか・・・・・・」 「あっ、もしかして、おまじない、やっぱ嫌だったか?」 「そうではない!断じて!」 全く少しも不快ではなかったと力説する祐介に、昂はほっとしたように微笑んだ。 「・・・・・・ただ、昂は俺に触られて不快ではなかったかと、心配になっただけだ」 「ハハッ、ないない。だって祐介だもん」 ほらもっと触ってみる?と両腕を広げた昂に、祐介はおずおずと近付いて、白い半袖シャツに包まれた腕に触れた。異世界では体操選手の様に軽々と自身の体重を持ち上げるくせに、意外と細い。あれは祐介自身にも覚えがある、己が怪盗であるという認知が大きく関わって成しえる技なのだろうが、それにしてもこの腕は男子高校生の平均を超えることはないだろう。肩もしっかりとした硬さはあれども、まだ少年の甘さが抜け切れていない。 モルガナよりも猫背な竜司ほどではないが、少し斜に構えた立ち姿のせいで、昂の実際の身長はわかりにくい。実は、昂と祐介はあまり身長が変わらない。せいぜい、数ミリ祐介の方が高いかもしれない、というくらいだ。ふわふわしたくせ毛のせいで、真っ直ぐ立った昂が普段から姿勢のいい祐介の隣に並ぶと、傍からはほとんど同じに見えるだろう。視線の高さも、肩の高さも、差はごくわずかだ。 下手をすると華奢と言われかねない祐介と違うのは、スレンダーでも健康的な筋肉と皮下脂肪があることで、関節などが薄い皮膚から病的に突き出ていることはない。胸は厚いとはいいがたいが、あばらが浮くこともなく、シャツの下にはしなやかな前鋸筋が感じられる。腹直筋と外腹斜筋がぎゅっと締まった美しいバランスを維持し、滑らかな広背筋は見た目に反して強い力を秘めているに違いなく・・・・・・。 「はっ」 「ん、どうした?」 すぐ目の前に昂の顔があって、祐介は慌てて飛びのいた。夢中になってペタペタ触っていたようだ。これではあの痴漢を批判できない。 「どうだった?杏ほどモデル向きじゃないと思うけど」 「いや、まあ・・・・・・そうだな。いや、そうでもないか」 ぶつぶつ呟く祐介に、昂は少し首を傾げたようだ。量の多い前髪が、眼鏡の縁にふわりとかかる。 「で、俺は祐介に触られても平気だって、わかってもらえたか?」 「わかった。・・・・・・では、もうひとつだけ、わがままをきいてもらえるだろうか」 「なに?」 にこにこと楽しそうな昂に、祐介は真剣な面持ちで頼み込んだ。 「この前のおまじないを、もう一度、今度は俺の背中にしてもらえないだろうか」 「へぁ!?」 驚きすぎたのか変な声が出た昂が、慌てて咳払いをする。 「な、なんで?いや、してもいいんだけど・・・・・・」 「実は・・・・・・」 あの時からふとした拍子に、背中に抱き着かれた感触がよみがえって気持ちが悪いのだ、と祐介は告白した。キャンバスに向かっている時、自室で勉強をしている時、教室でクラスメイトと話している時、お構いなしだ。最初につかまれた腕にはそんなことが起こらないので、きっと昂のおかげなのだろうと。 「あぁ・・・・・・あー・・・・・・、うん。それは、大変だ」 口元を手で覆ってうつむき加減になった昂の表情が、祐介からは見えない。断られるかと祐介が不安になりかけたところで、昂は眼鏡を取って少し紅潮させた顔を微笑ませた。大きな黒い瞳が、アンティークな電燈の光を受けて、とろりと輝いている。 「いいよ」 その蠱惑的な表情に見惚れていた祐介の体を、昂はひょいと反対向きにさせ、あっという間に体を密着させた。 「祐介を困らせる気持ち悪いものが、どっか行きますよーに」 とすん、と軽い衝撃と共に、穏やかな温もりが祐介の背中に触れ、すぐにぎゅぅっと両腕が胴に巻き付いてきた。 「大サービス」 祐介の耳元で囁かれた声は、なぜかとても嬉しそうだ。 「・・・・・・祐介って不思議な匂いがするな」 「ふむ、絵の具の匂いか?」 「なんだろうな?」 祐介は自分でも嗅いでみるが、よくわからない。心当たりは、絵の具かにかわ、あるいは炭や紙や麻などだろうか。そう祐介が言うと、深く感心したような声が後頭部のあたりから聞こえた。 「祐介が大事にしている世界の匂いなんだな」 「・・・・・・そうか。汗臭いのかと心配した」 「そんなことないよ」 胸の下あたりで組まれた腕に触れると放そうとしたので、祐介はそのままつかんで制止した。とくんとくんと自分以外の鼓動を背に感じて、泣きたくなるほど安堵する。不安ばかりで、なにが不安なのかもわからなくなりそうなほど苛立つのに、背を預けられる人間がいるという確信と安心が、まだ自分は前に進めると奮い立たせてくれる。 「ありがとう、昂」 祐介が手を放すと、昂の腕も祐介の体から離れ、背の温もりも消える。ただ最後に、襟の下あたりに柔らかな感触が触れた。 「おまじない完了」 「ああ、元気が出た」 「そう?よかった」 祐介が振り返ると、昂はさっと眼鏡をかけて、ブリッジを指先で押しあげた。普段はあまり見られないので、もう少し素顔のままでいてくれてもいいのにと、やや残念に思う。ここには前歴を理由に昂を疎外する人間なんていないのだし。 「長々とすまない。そろそろ行かねば」 「ああ」 わざわざ駅まで送ってくれた昂に、祐介は手を挙げてから改札を抜けた。いつだったか、悩んだら相談しろと言ってくれた言葉を頼ってよかったと胸をなでおろす。 (意外と、気さくなのだろうか・・・・・・?) 第一印象が最悪だったせいか、物静かな昂との距離の取り方に、まだ躊躇いがある。自分には人付き合い経験が少ない自覚もあることだし。 思ったことがストレートに口に出てしまう竜司や、自分の不安も素直に口にする杏ならば、「ここまではいいよ」「それ以上はダメだ」と跳ね返してくれる。だが、自分からあまり口を開かない昂は、踏み込んだら踏み込んだだけ受け入れられてしまいそうで、少し・・・・・・恐ろしい。 (失うもののない強さ、か・・・・・・) 伊達眼鏡に隠れた大きな目が、時折光すら吸い込むような深淵を帯びることに、杏や竜司は気付いているのだろうか。同世代の人間が戸惑う祐介の表現にも動ずることなく向き合い、諦めずに自身の正義を示せと情熱的に鼓舞するかと思えば、怪盗団に必要な名声でなければ己への評価には興味なさそうな態度であるなど・・・・・・。 (ふむ。俺たちのリーダーは、なかなか興味深い人物のようだ) 昂が抱きしめてくれた背は、まだ適度に硬く温かな感触を覚えていて、あのぶよぶよした気色悪い記憶を忘れさせてくれる。不安や苛立ちも薄れ、祐介の気分は上々だ。 困ったらまた甘えさせてもらうとして、さしあたり渋谷で広がっているというマフィアの被害について、明日から調査するとしよう。電車の窓に映る自分の顔に向かって、祐介は決意を新たに小さくうなずいた。 客がいないのをいいことに、昂はカウンターの奥にいる惣治郎の目を盗んで、腰が砕けたようにボックス席のテーブルに突っ伏した。 「・・・・・・モナ、俺今年中の幸運を使い切ったかな?」 「ワガハイに聞くな、ユースケフリークめ」 人語をしゃべる黒猫はバッグから半身を出し、はぁーっと大きなため息をついて顔を洗う。昂の恋路を応援してくれるのはありがたいが、ドン引きされているのはわかっている。 (これはついに来たか!?本当にフラグ立ったのか・・・・・・!?むしろなにがきっかけでこうなったかわからないのが怖いっ!) 祐介に抱き着けて嬉しいのだが、これが昂の望む未来に直結していると判断するのは早計だ。どこで足元をすくわれるともわからないから、いつまでも浮かれてはいられない。 いままで何度失敗して、彼のモナ・リザになり損ねたことか。考えると悲しくなるので、いまさら数えたくもない。祐介にサライはいらないのだ。 昂はテーブルに肘をついて、壁に飾られた『サユリ』を眺めた。腕に抱いた赤子を見つめる眼差しは、慈愛と喜びに満ちているが、やはりどこか儚げだ。 「・・・・・・いい女だな」 「オマエ、時々ワガハイ以上に上から目線にならねえか?」 「正直な気持ちだよ。・・・・・・この人が祐介を産んでくれた。それだけで、俺は頭が上がらないよ」 「高校生が言うセリフじゃねーだろ。どっから出てくるんだ、その感想は」 「そんなこと言われても・・・・・・」 精神時間で十年くらい片思いを拗らせている昂は、苦笑いを浮かべるしかなかった。自分でもよく諦めないと思うのだが、彼を思う気持ちは毎回新鮮で、募ることはあれども醒めることがない。そんな昂がいまだに勝てない相手が、目の前の『サユリ』だ。 綺麗だとか、優しそうだとか、そんな言葉では『彼女』を言い表せない。子と別れねばならない悲しみと、子の行く末を案じる憂いと、自分の死を覚悟した厳しさと、それらを影として内包した母の強さと希望が、サユリの輝きをいや増している。 (だからって、偉大な女なんて呼ばれたくはないだろう) 祐介に画家として尊敬され、母として慕われ、逆に目標として祐介を引き上げ、見守る象徴。 (妬けるほど、いい女だ) 昂はひとつため息をついて、自室に引き上げようとモルガナ入りバッグを持って立ち上がった。 『今回』も、まだ始まったばかりなのだ・・・・・・。 |