言えない感情 ―1―
ただ好きなだけ絵を描いていればいい。そうやって十六年生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだと、ずっと思っていた。
美しい絵を描きたくて、技術が向上することに喜びを感じていた。心震えるテーマや目を奪われるモチーフに出会えた時は、文字通り寝食を忘れて絵に没頭し、またそれが許される環境で暮らしていた。 評価されることは嬉しいが、それがいつからか、自分への称賛でないことだとしでも、諦めていた。自分を生かしてもらえた、恩義があったから・・・・・・。 だがそれも、もう過去のことになる。 入寮の手続きを終え、喜多川祐介は少ない私物を斑目邸から運び出した。できれば休日にやりたかったが、斑目邸は警察が調べに入ることになっていたし、祐介自身も、もう平静な気持ちであそこにいられるとは思えなかった。 夕方までの雨は上がっていたが、重い曇り空は夜闇を深くしていた。荷物を積んだキャリーを曳いて渋谷駅に向かって歩いたが、明日からはこの通学路も変わるのかと思うと、少しは感慨が浮かぶ。なにしろ、物心ついたときからここに住んでいたから、世間でいう実家というものに近いのだろうか。 あばら家での平穏な日々、自分が斑目に譲った絵画たち、目の前を通りすぎていった多くの兄弟弟子、待ってくれ祐介と縋ってきたパレスでの斑目、白い狐の仮面・・・・・・。 とりとめのないことを考えていたら、すぐ近くに人がいることに気が付かなかった。 「!?」 「動くな」 脇に平たく堅い物が当たる。金属、あるいは刃物、その判断に、祐介は顔をしかめた。渋谷のセントラル街にほどほど近く、人通りが全くないわけではないが、いかんせん薄暗く狭い住宅街である。 「金なら持っていないぞ」 しかし、祐介の背後に立った男は祐介の腕をつかむと、そのまま刃物らしきものを押し付けたまま、ぐいぐいと脇道へ押していく。 「放せ!何のつもりだ!?」 振り払おうともがいても、二の腕をつかんだ肉厚な手の力は意外と強く、素肌に張り付いた他人の体温と湿気が気持ち悪い。男から漂ってくるむっとする酷い悪臭で、息が詰まりそうだ。 「いい加減に・・・・・・」 「うるさいっ!」 振り返ろうとした祐介の後頭部に、がつっと硬い衝撃が走り、思わず抱えていた『サユリ』を落としそうになる。 「つっ・・・・・・」 よろめいてマンションの壁に手をついた祐介は、落としてしまうよりはと足元にそっと『サユリ』をおろしたが、身をかがめたその首に、大型のカッターナイフを持った腕が後ろから組み付いてきた。幸い、刃はまだ出ていないが、指先のスライドひとつで致命傷をもらいかねない。 (こいつ、俺より背が低いな) 首と肩にかかる息苦しい重みで判断し、背中に当たる感触で筋肉質ではないと知れる。しかし、耳にかかる興奮した荒い呼吸からすると、この不審者が常軌を逸した膂力を発揮しないとは言い切れない。状況は圧倒的に不利。 「くっ・・・・・・目的はなんだ!?」 「ふーっ、ふーっ、うるさいっ!・・・・・・へへへっ」 やっとつかまれていた腕が解放されたと思ったら、今度はぴったりと密着されて、薄い胸をまさぐってくる。腿の後ろに当たった硬い感触に、祐介の全身が一気に粟立った。 「こ、この変質者が!!」 自由になった左手で、ナイフを持った締まりのないハムのような腕を固定し、右手で男の無防備なわき腹に肘鉄を喰わらせる。 「ぎゃっ!」 祐介は素早くしゃがみこんで痛みに硬直した身体から抜け出すと、ぶよぶよとした人型のシルエットに蹴りをお見舞いして転がす。異世界ならワンモアからクリティカルを出せそうだが、いまはそんなことをやっていられない。『サユリ』を抱え、荷物を積んだキャリーを半ば担いで路地から脱出した。あの臭いが自分にもまとわりついていそうで、止めていた息にむせる。 そのまま長い脚に任せて渋谷の雑踏に逃げ込み、乗り慣れた電車に乗り込むと、やっと落ち着いたため息が出た。 「はぁ・・・・・・」 まずは大切な『サユリ』が傷ついていないか心配だったが、幸い、どこにもぶつけていないようだ。まだ心臓はバクバク言っているし、そのくせ寒気がして仕方がない。冷や汗がにじんだ額と首を拭い、前髪をはらうと、シャツのボタンがひとつちぎれかけていることに気が付いた。 (服地が切れなくてよかった・・・・・・) 男を力任せに振り払う時に、引っかけてしまったのだろう。この程度なら自分で直せると、失くさないようにボタンを自分で取り外してポケットにしまった。 「・・・・・・・・・・・・」 ボタンのなくなった隙間の肌が、少しひやりとする。六月の湿った生ぬるい空気に撫でられると、背後に感じた体温を思い出して、祐介は思わず口元を手で覆った。いまさらながら、カッターの柄で殴られた後頭部がじくじくと痛む。つかまれた二の腕に他人の手の感触が残っていて、忘れたくてごしごしとこすりたい。 外を眺めようとして嵌め殺しの窓に映った顔は、いまにも倒れそうなほど青白かった。座席と手すりに寄りかかり、ドアに頭を預けて、祐介は少しの間だけと自分に言い聞かせて目を閉じた。 電車に乗る前に交番に駆け込めばよかったのではと気が付いたのは、がやがやと他人の声がうるさい寮の自室に入って座り込んでからのことだった。 渋谷帝急ビル連絡通路にて、スマホから目を離さない祐介に、坂本竜司が声をかけた。 「さっきから何見てんだ、祐介?・・・・・・怪チャン?」 「ああ」 「なにか気になる書き込みあった?」 反対側からのぞきこんできたのは高巻杏。二人にくっつかれるように挟まれて、祐介は力が入っていた肩を下げた。 「いや、そうではなく・・・・・・情報を探している。渋谷近辺で、刃物で脅して体を触ってくる変質者が出ると・・・・・・」 「はあっ!?」 「なにそれ、キモッ!!コワッ!!」 杏は顔をしかめ、自分を抱きしめるように、忙しなく二の腕をこする。女性が痴漢に拒絶反応を持つ気持ちに、祐介は深く共感した。 「名前とかわかんねえのかよ?ソレ、ぜってーターゲット案件だろ」 「俺もそう思って調べたんだが、これという情報がなくてな・・・・・・」 「うーん、じゃあ、その被害者に聞いてみる?どんな奴だったのかとか、ちょっとでも情報が欲しいじゃん?」 「俺が被害者だが?」 がんっ、というすごい音と、よりかかっていた手すりから伝わった振動に、三人は思わず驚きの声も上げられずに首をねじった。 「・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・こ、昂?」 「どした・・・・・・?」 バッグに入ったモルガナも、目を丸くしたまま滝浪昂を見上げている。おもむろに姿勢を変えて三人の方に向き直ったリーダーが、怒っている、それはわかるのだが、光を反射する眼鏡のせいで、表情がよく見えない。 「くわしく」 普段と変わらない、どこか茫洋とした口調とは裏腹に、いまにもペルソナが出そうな底冷えのする声だ。 「祐介」 「え、ああ・・・・・・」 昂の気迫に押されて、祐介は昨夜の話をした。 「マジかよ!?マジでやべー奴じゃん!」 「警察行った方がいいよ!そいつヤバいって!」 竜司と杏はしきりにヤバいと連呼するが、祐介にもヤバいのはわかっている。 「だが、男が男に痴漢されたと言って、警察が相手にしてくれるか?」 「しないな」 即答したのは昂だ。 「なんでだよ!?」 「・・・・・・うーん、たしかに。私が女に胸揉まれたって訴えても困るでしょ」 「う・・・・・・まあ、そういうもんか・・・・・・」 ガシガシと頭を掻く竜司だが、納得は出来んと眉間のしわが深い。腕を組んで思案していた昂は、硬い声のまま提案した。 「だけど、言い方ひとつだと思う。杏に頼みたい」 「いいよ」 「祐介、そいつの背格好を、できるだけ詳しく知りたい。竜司も協力してくれ」 「おう」 それからしばらく、見通しの良い連絡通路で男子高校生二人がくっついたりはなれたり、コントのようなやり取りをしていたが、やがて必要なメモが取れたのか、亜麻色のツインテールが何度もうなずいた。 「ホントに大丈夫か、棒読み女王」 「うっさい!」 「竜司も一緒にいってきて。美形な友達っていうよりも、竜司の友達だって言った方が、相手のヤバさが伝わるんじゃないかな」 「あはは!たしかにそうかも!」 「逆に信用されなくても知らねーぞ!」 ぶつくさ言う竜司を引っ張って、杏は任せておいてと、元気に走って行った。 「・・・・・・すまない」 ただでさえ師匠の斑目の件で、祐介は悪目立ちしている。そこへ痴漢被害などと騒がれたら、白い目で見られるどころでは済まなくなるかもしれない。いま祐介本人が動き回るのは、正直得策ではないだろう。 「謝ることないよ。災難だったな」 「そうだぞ、ユースケ。ワガハイだって、知らないニンゲンにいきなり抱き上げられたら暴れるぞ」 「猫はみんなそうじゃないか?」 「猫って言うな!」 バッグの中から昂に抗議するモルガナに、祐介は少し微笑むことが出来た。 「杏と祐介が戻ってきたら、メメントスに行くのだろう?」 「いや、やめておこう」 首を振る昂に、祐介は目を見開いた。そのために今日は集まったはずだ。 「依頼はあるんだろう?」 「あるにはあるけど、メメントスに行ったら帰りが遅くなる。祐介が心配だ」 「心配はありがたいが、俺はもう寮住まいだし、あの変質者だって同じ男を狙うなど・・・・・・」 「ありうる」 ほぼ断言した昂に、祐介は眉をひそめた。不快なことだが、犯人が捕まっていないのだから、昂の言うことも否定はしきれない。 「こんなこと、いままでなかった・・・・・・」 「?」 囁くような呟きにのぞきこんだ横顔は、厳しく鋭く、尖った表情をしていた。 |