雨に歌えば ―4―
店を閉めた後も心配そうな惣治郎を双葉が大事だと家に帰し、昂は体がスパイスとカフェインを欲しているとぶつぶつ言いながらカレーを作り始めた。
「昼間寝すぎた・・・・・・」 それでもまだ、昂の頭はぼんやりしているらしい。出来上がったカレーは激辛だった。 「むぐぅっ・・・・・・!!」 「ぶっ・・・・・・く、ぅ〜っ!辛ッ!!」 「クククッ、素晴らしい。常識という概念を根源から吹き飛ばすこの刺激!!まさに、頭の中が生まれ変わるようだ!!」 祐介のテンションが突き抜けるのはいつものことだが、痺れる辛さに昂の頭もようやくはっきりしてきた。実体化したアキラを失ったのは痛いが、それよりも祐介がナビすら使わずに昂の中に入れたことが問題だ。祐介がおかわりを食べている間に、コーヒーを淹れた昂は考え込んでまた無口になっていた。食事が終わったモルガナは、雨の上がった夜の散歩に出かけて行った。 「なあ。立ち入ったことだと思うが・・・・・・あのシャドウが、昂のニケか?」 顔を上げた昂の前で、祐介はカップを持ったまま気まずげに目を逸らせた。顔のない勝利の女神、そのキーワードからたどり着いたのだとしたら、やはり祐介のセンスは鋭い。 「すごいな、祐介は。俺でも気付かなかったことを言い当てた」 「どういう意味だ?」 「アキ・・・・・・いや、あいつをどうにか俺のコントロール下に置ければ、たぶん勝てるんだ」 「何に?」 嘘や誤魔化しを許さない真っ直ぐな眼差しに、今度は昂が目を伏せた。 「さあ、何にだろうな」 「・・・・・・・・・・・・」 それ以上昂に言う気がないと見て取ったか、祐介は口を噤んでコーヒーを飲んだ。苦すぎない、いつもの味だ。 「祐介は、どうやってあそこへ入ったんだ?俺だって自由に出入りできるわけじゃないのに」 「そうなのか。俺も何もしていない。ただ、昂の体が冷えて首がこわばっていたから、温めようと触っただけだ。急に眠くなって、気が付いたらあそこにいた」 「そうか。・・・・・・ありがとう。看病してくれたのに、酷い態度とってごめん」 「いや、それは・・・・・・」 不可抗力とはいえ、あんなに昂を落ち込ませてしまった祐介は、謝罪を受け取れるとは思えないと首を振る。 「気にしないで。本当に、祐介のせいじゃない。・・・・・・たぶん、妨害されたんだろ。今日の体調不良だって・・・・・・もしかしたら、祐介は妨害のために利用されたのかもしれない。はぁ」 眼鏡を取って目頭を揉む昂の顔は、昼間に比べて血色こそよくなってきたが、まだ疲労の色が濃い。 「昂、同じようなことを聞くが、俺たちに内緒で何と戦っている?何に妨害された?何に勝たねばならない?・・・・・・俺たちには言えない事か?」 「・・・・・・・・・・・・」 「そうか」 「ごめん」 「謝罪はもういい」 祐介の突き放すような硬い声音に、昂はうつむいた。仲間を信用していないと思われても仕方がないが、説明しても理解してもらえないだろう。それに、昂の目的のためには、まだ言うべきではない。 (だけど、これじゃ結局・・・・・・今回も失敗か・・・・・・) 祐介がコーヒーカップを置いて立ち上がる気配に、昂はテーブルについていた手で顔を覆った。口惜しさに噛みしめた奥歯が、軋んだ音を立てる。 「まったく、情けない!」 隣に滑り込んできた温もりに、昂は慌てて場所を空けようとしたが、逆に肩を引き寄せられて、鮮やかな青いシャツに映える白い肌を目の前に見た。 「目の前で昂が困っているのに、何も出来ないと宣言された、この不甲斐なさ。自分に腹が立って仕方がない!」 祐介の語気の強さとは裏腹に、ふわふわくるくると跳ねる黒髪を梳くように撫でる、骨ばった細い指の動きは優しい。 「ゆうすけ・・・・・・」 「今日のことは、みんなにも黙っている。それでいいだろ?」 「ん・・・・・・」 背に回された手の温かさに、昂はうなずいて、震える両手で祐介にしがみついた。 「ありがと・・・・・・。最後には、ちゃんと、言うから。祐介には、ちゃんと言うから」 「では、もうひとつ約束しろ」 自分の肩に頭を預けている昂が身じろいだのを、祐介はしっかりと抱きしめて拘束した。 「この件について、俺にも協力させろ。事情は言えなくてもいい、俺には何もできないかもしれん。だが、お前が諦めない限り、ニケがお前に微笑むよう力を尽くそう。その許可をくれ」 祐介の真摯な言葉を受け入れて理解するのに、昂はしばし時間がかかった。呆然と目を見開いて、間近から見つめてくる祐介の、切れ長の涼やかな目を見つめ返すばかりだ。 「問題ないな?」 「えっ・・・・・・問題・・・・・・ない、っていうか・・・・・・え?・・・・・・え?いいの?これって、大丈夫?」 「俺に聞いてどうする」 「あ・・・・・・えっと、お願いします・・・・・・?」 「よかろう」 祐介が力を込めていた腕から昂を解放すると、いまさらながらに音を立てそうな勢いで昂の顔が赤くなった。これだけ血圧が上がれば、また貧血になることもないだろう。 「は、ははっ。ヤバい。顔が、にやけて困る」 「困ることはないだろう?俺は苦しそうな顔をしている昂よりも、笑っていてくれる方が好きだ」 「!!」 昂は耳まで赤くなった顔をうつむけると、今度ははにかんだ微笑を浮かべて顔を上げた。少し潤んだ目が、いつもの力強い光を湛えて輝いている。 「ありがとう。俺、諦めないで頑張るよ」 「ああ。・・・・・・その強く輝く心のありようが、いつも俺たちを導いてくれる。ニケも必ず、お前をよしみたもう」 「もう!祐介の表現はいつも詩的で、照れ臭いんだよ」 「そうか?」 昂はまだ赤い顔に眼鏡をかけて、まったく自覚のなさそうな祐介の視線から隠れた。 「せっかく遊びに来てくれたのに、迷惑かけてごめん。でも、おかげで元気が出た。ありがとう」 「元気が出たなら、それでいい。昂にはいつも俺の悩みを聞いてもらっているうえに、カレーもご馳走になっているからな。カードの複製だけではなく、たまには逆もなければ」 「助かるよ」 「うむ。さて、ずいぶん遅くまでお邪魔してしまった。俺はそろそろ帰ろう」 慌てて洗い物を片そうとする昂に、見送りはいらないと押しとどめて、祐介は自分の鞄を持ち上げた。 「ではな」 「おやすみ」 ルブランを出た祐介は、昼間の雨がうそのように晴れて、月と星が輝く空を見上げた。地上の灯りで夜闇は淡かったが、それでも空は高い。熱気が掃われ、多少涼しくなった今夜なら、眠りやすかろう。 風鈴が奏でるリリンリリンと涼やかな音色を聞きながら、昂はぼうっと机の前に座っていた。夏休みの課題を広げていたが、まったくペンが進まない。かといって、眠れそうかと言えば、まったくそんな気配がしない。夜の散歩から帰ってきたモルガナは、ソファの上で丸まっている。 (雨降って、地固まる・・・・・・?) 風は涼しかったが、湿気は少なくない。明日はまた暑くなるらしい。蚊取り線香はさっきつけたばかりだから、まだ大丈夫。笠もなく天井から吊るされただけの裸電球の光は、目に優しくないくせに妙にぼんやりとして頼りない。 祐介とそういう関係になりたいという昂の願いを、祐介が内容を知らないまま応援してくれるという、奇妙というよりいっそばかばかしい状況になってしまった。祐介が真実を知った時が怖い。 (はぁ・・・・・・どうすればいいんだ) 祐介との距離が少しずつ縮まっているのがわかるが、些細なミスでサヨナラ負けをしそうで、いまから胃が痛い。祐介は昂を好きだと言ってくれたが、それはそういう意味で言ったわけではないのだし。 (でも、嬉しかった) 思い出すだけで、にっこりと顔が緩んでしまう。怪盗団のメンバーには見せられない。 当たって砕け散るのは、もうたくさんだ。世界を作り直すのも、本当に今回で最後にしたい。慎重に、慎重を重ねて、なお用心しても足りない。 (今日みたいなアクシデントなんて、心臓に悪いったらありゃしない) これからはアキラのアシストが受けられないのも不安だ。一度は怒りに任せて切り捨てた身だが、あれは確実に昂の一部分なのだ。認知の海から浚い上げたアキラは、昂に呆れることなく寄り添ってくれた。 『お前の判断は間違っていなかった。だけど、先に進むには譲歩が必要だ』 無邪気な笑顔で正論を吐くから、同じ顔なのに何度殴りたかったことか。戦う力を得て、頭の冷えた今だからこそ、徒手空拳にヒステリーを起こさないですんでいる。 (・・・・・・大人になれってことなんだろうな) 十七歳になる年を何度も繰り返していれば、多少大人にもなるだろう。しかし、おぼろげな記憶と偏った力を持って、出来上がっているタペストリーの図柄を変えようと躍起になっているのは、やはり子供のままだからか。 数学のテキストが宇宙語に見えてきて、昂はテキストやノートを片付けた。今日はこれ以上頭が働かない。 日記をつけようと手帳とスマホを取り出して、三島からのメッセージが届いているのを見つけた。怪盗団への改心の依頼だったが、今日のドタバタで危くスルーしてしまうところだった。 (たしか、セントラル街のコンビニで情報が聞けたな・・・・・・) ぽちぽちと予定を入力して、双葉が目を覚ますタイミングを考えて、いつメメントスに行こうかと考えるが、やっぱり頭が働かない。 (寝よう) 今日は散々だったが、それでも祐介に、笑っている方が好きと言われたし、抱きしめて励ましてもらえた。それはそれで、たいそうハッピーな日だったともいえる。 昂はモルガナを起こさないように、静かに電灯を消し、硬いベッドにもぐりこんだ。 |