雨に歌えば ―5―


 ようやく目覚めた双葉のおかげでメジエド騒ぎは終息し、夏休みの思い出に、みんなで海に行った。祐介はイセエビを手に入れたが、鑑賞するにも、夏休み中の学校や寮のどこで飼うのか、そもそも飼育には海水が必要だと、真や昂に冷静に指摘され、泣く泣く手放すことになった。双葉とモルガナの喰いつきが半端でなかったので、惣治郎に料理してもらおうと二匹とも昂が買い上げていったのだが。
(しかし、おかげで、修学旅行で使う金が確保できた)
 杏や竜司にまで金銭感覚がおかしいと何度も諭されるので、最近ようやく自覚を持ち始めたところだ。生活のために金銭が必要だということは理解しているのだが、使い方の基準が絵に関することで、さらに衝動的なのだから、矯正にはだいぶ時間がかかりそうだ。
 使い方は直る見込みも出来ようが、金の生み出し方には祐介の才幹ひとつにかかっている。川鍋のオファーを蹴ってしまった手前、なんとしても自力で名を挙げなくてはならない。認められたい、売れるようになりたい、という欲求が、少しも悪い事ではないし、祐介の心が穢れているわけでもない、むしろ普通の人間として当たり前だと仲間に言われ、祐介の固定観念は石膏の粉のように崩れていった。
(誰かの為、か・・・・・・)
 まだ白紙の大きなキャンバスの前に立ち、祐介はイメージを膨らませる。描きたいものは決まっていたが、これから修学旅行で、しばらく日本を離れることになる。帰ってきたら、下絵を完成させて、いよいよ彩色に着手する。大丈夫、まだ美術展の締め切りには時間がある。
 祐介は『サユリ』を純粋な美だと思ってきたが、それは祐介だけが見ている、ひとつの側面に過ぎないことを気付かされた。まさに「芸術は思い込み」というわけだ。こんなところでかつての師匠の言葉を痛感するなど、思ってもみなかった。ただ、あの絵に見守られていると思えば、どんな侮辱や困難にも、刮目して踏みとどまることが出来るだろう。
(俺にできるだろうか・・・・・・いや、必ず成し遂げてみせる)
 祐介はキャンバスから踵を返し、放課後の美術室から寮の自室へと戻った。
 寮の部屋には、明日からの修学旅行に向けて荷物がまとめられていた。杏に言われて多少服を買い足したおかげで、着替えに困ることはないが、それにしてもキャンバスを持っていきたくて仕方がない。引率教諭にもスケッチブックで我慢しろと言われているので、大いに不満だが我慢するしかあるまい。
 ロサンゼルスでの自由時間はスケッチにいそしむと決めていたが、そういえばハワイに行く秀尽組は、どのように過ごすのだろうか。真は引率だと言っていたから忙しそうだし、杏は買い物だろう。竜司はナンパか。
(海に行ったときもそうだったが、竜司は女子が好きだな)
 あれも認められたいという欲求の一部が露出しているのだろうか、と祐介は首を傾げる。海では竜司のナンパ行脚に付き合い、そんなに面白いとは思わなかったが、よい経験にはなったと思う。祐介一人だったら、ナンパなんて考えもしないだろう。
 怪盗団のメンバーの中では、竜司がひときわ承認欲求が強いように見える。何かあるたびに、ちやほやされたいと喧しい。祐介も人のことは言えないが、それは怪盗としての身分を持った自分自身ではなく、祐介が描いた絵についての評価を得たいだけだ。
 翻って、一番興味なさそうなのは真や昂だ。生徒会長という役職を持つ真は、自分をしっかりと持っているからか、いまさら目立ちたいとは思わないのかもしれない。昂は「正体不明は怪盗の美学」と公言するモルガナと同意見なのか、怪盗団の名声には神経質なほど目を光らせているのに、自分自身に関してはまったく無頓着に見えるし、下手すると目立ちたくないとまで思っていそうだ。尤も、前歴のある身では、陽の下での評価は期待しない・・・・・・と諦めているのかもしれないが。
(それは・・・・・・いやだ)
 いくら祐介が嫌だと思っても、昂の前歴が消えるわけではない。前科と違って、将来にわたって様々なところに影響が出るわけではないが、それでも不当に傷付けられた昂ばかりがそのままというのは納得がいかない。何か力になれればと思っても、自分一人の面倒を見るのにもおぼつかない祐介に何ができるというのか。
 自分たちには言えない秘密を頑なに抱えこんで、一人で苦しんでいる昂を抱きしめることしか、いまの祐介にはできなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
 昂が動揺した姿を見せたのは、あの一度きりだ。仲間がいるときは、メメントスでも、海でも、完璧にいつも通りの昂だった。祐介と二人きりの時くらい、気を許してくれてもよさそうなものだが、それもなかった。
(昂・・・・・・お前はいったい、どんな人間なんだ?)
 昂のことをもっと知りたかった。怪盗服を着た堂々とした立ち振る舞いと、伊達眼鏡に素顔を隠した地味な高校生。獲物の前に立ちふさがる敵に対する不遜な微笑みと、暗い深淵を思わせる寂し気な黒い瞳。どちらも昂でありながら、祐介はどちらの昂も表面しか知らないと確信している。もっと触れたかった。もっとその真性を暴きたかった。
「っ・・・・・・」
 イメージの中で伸ばした手がずぶずぶと昂の体に沈んでいきそうで、祐介はベッドに腰かけたまま片膝を抱え込んだ。
― 祐介ならいいよ。
 その一言で、昂は許してくれる気がする。しかし、そんなことをしてどうしようというのか。祐介と昂の双方に、どんなメリットがあると言うのか。
(たしか、ニーチェの言葉だったか)
 祐介が昂に深淵を見ている時、昂の深淵も、また祐介の心の中を覗き込んでいるに違いない。だがそれでも、祐介の尽きない好奇心は、燃え上りはすれども、尻込みをするなどなかった。
(もっと、触れたい・・・・・・)
 浜辺ではすぐ隣に、あらわになった素顔と肌があったというのに・・・・・・。そう思って、思わず熱くなった顔を手で覆った。
― 隠すなよ。
 黒衣をまとったジョーカーのイメージが、獲物を見下すように立っている。
― それもお前だ。
 ドミノマスクを取った素顔が、深淵を湛えたままの瞳でニィッと唇をゆがめる。そう、深淵は確かに祐介を見つめていた。
 触れたいと思うほどに、知りたいと思うほどに、暴きたいと思うほどに、逆も確かり。
(昂に、触れて欲しい・・・・・・)
 その結論にたどり着いた瞬間、全身が燃えるような熱さを感じて、祐介は自分の体を抱えてうずくまった。羞恥だと自分に言い聞かせようにも、暴走したような体の熱の方が、素直になれと激しく踊り狂っている。
「はっ・・・・・・ッ」
 この両腕に包んだ震える温もりも、自分の背を包む穏やかな温もりも、信頼できる友人としての恵みだ。それなのに、人肌に飢えていたことを思い出した祐介の体は、暴かれることを期待するように強者に縋ろうとする。
(ダメだ・・・・・・!)
 欲望がなければ人は死んでしまう。だからといって、こんなのは間違っていると祐介の理性がブレーキをかける。
 大きく深呼吸をして落ち着こうとしたが、自分の心に浮かぶのは、自分を責める否定の言葉ばかり。でももし、これは祐介が禁忌と思いこんでいるだけで、“普通”なのだとしたら・・・・・・?
「・・・・・・・・・・・・」
 祐介はきつくなったスラックスを緩め、硬く張り詰めたものを下着から出した。
「ッ・・・・・・!!」
 指の腹でそっと撫でるだけで声が出そうで、思わず自分の口をふさいだ。自分の手がひんやりと感じるほどに、そこは熱く怒張して存在を誇示している。久しぶりだからとか言い訳にもならない、明らかな欲情だ。・・・・・・あの時、祐介の背に張り付いてきた、見知らぬ男のものと同じ。
(嫌だ・・・・・・っ!!)
 しかし祐介の拒絶反応が出る前に、祐介の匂いは祐介が大事にしている世界の匂いなんだと言ってくれた温もりが抱き留めてくれた。
(っ・・・・・・昂・・・・・・昂っ!)
 自分が噛んだ左手の痛みよりも、本能に従って動く右手が導き出す快楽の方が強すぎる。
「ふ、・・・・・・ぅ・・・・・・ぁッ!」
 寮の壁は薄いし、ドア一枚隔てたそばを、誰かが歩いていく。それでも祐介は声を殺し、溢れた先走りでぬめるくびれを包み、根元の方まで強く擦った。
「うぅっ・・・・・・ふっ、んっ・・・・・・!んッ・・・・・・!」
 腰の奥の方がずくずくと疼き、痺れるような刺激にどろりとした快感が頭をもたげている。舌は鉄臭い味を感じたが、口の端からは溢れた唾液が顎から喉へ伝っていた。
 頭がぼうっとするのは呼吸が追い付いていないせいなのかもしれないが、屹立の熱と同化した手は止められない。緩く強く擦りあげるたびに、くちゅくちゅと恥ずかしい音が自分の耳を犯していく。気持ちよくて、イきたくて、たまらない。
(気持ち、いい・・・・・・っ、こう、も・・・・・・ぉっ、イ、く・・・・・・っ!)
 アンティークな電燈に照らされた微笑みがちらつき、祐介を背中から抱きしめてくれた手が、暴かれたい欲望に絡みつく指先と重なる。
(昂・・・・・・こ、ぉ・・・・・・ッ)
― 祐介・・・・・・。
「――ぁ、ッ!!っふ、う・・・・・・ッ!!」
 びゅくびゅくと精液を吐き出すたびに、肉付きの薄い腰が震える。汗で額に張り付いた長い前髪が、ぱらぱらと視界を遮って鼻梁にかかった。
(声、は・・・・・・外に、聞こえなかったはず・・・・・・)
 祐介は荒い呼吸を整え、唾液でびしょびしょになった傷付いた左手を、ようやく口から離し、箱ティッシュを求めて腕を伸ばした。
「・・・・・・・・・・・・」
 後始末のために臭いを放つ白く汚れた手を見ても、不思議となんの気持ちもわいてこない。ただ、気怠さと温い満足感があるだけだ。
(・・・・・・もっと、罪悪感がわくかと思った)
 大切な友人をこんなことに使った、その罪悪感と羞恥で、死にそうなほど胸が痛むかと思ったのだが、頭のどこか壊れてしまったかのように、祐介にはそんな気持ちが起きなかった。
 洗面所で手を洗い、簡単に傷の手当をしてから、くったりとベッドに横になっても、気持ちよかったという感想だけが、ぼんやりした頭の中を占拠している。
(会いたいな・・・・・・)
 会ってまともに顔が見られるかどうかは置いておいて、とにかく明日からしばらくは会えないはずだ。
(昂に会いたい・・・・・・)
 無責任でも、怪盗のことも、美術展のことも忘れて、夏休みに一緒に過ごしたように、昂の隣にいたかった。
(俺の、希望・・・・・・)
 誰かのために輝く光を、自分だけのために手に入れたいと思うのは間違いだろうか。
(・・・・・・ずっと、見ていたいんだ・・・・・・)
 祐介は小さくあくびを噛み殺し、温く気怠い疲労に体を任せ、深く呼吸をして目を瞑った。日本に帰ってきたら、また仕事があるのだ。それまでの、わずかな空白だ。
 そうして一日半後にはロサンゼルスにいると信じている祐介は、まだ知らなった。異常気象のせいかカリフォルニア海流が南下しきれず、アメリカ西海岸では滅多に起きないハリケーン級の熱帯低気圧が発生し、その暴風域にはロサンゼルスが含まれていることを・・・・・・。