雨に歌えば ―3―


 屋根裏部屋から慌てて降りてきた祐介に呼ばれた惣治郎は、昏倒して起きない昂の脈を計った。
「まあ、貧血だろうな。一時的に低血圧を起こしているんだろ。おかしいな、コイツそんなにやわだったか?」
「寝不足か、夏バテでしょうか」
「ああ、そんなもんだろ。今年もクソ暑い日とゲリラ豪雨が、交互に来るような陽気だしよ。まったく・・・・・・双葉に続いてコイツもかよ」
 店を開けたままの惣治郎に、祐介は昂の看病を申し出た。一人で寝かしておくのも心許ないし、気を遣って帰ろうにも外は豪雨だ。
「悪いな。せっかく遊びに来てくれたのに」
「構いません」
 祐介はベッドの傍で椅子に腰かけ、目の下にうっすらと隈のできた寝顔を眺めた。テーブルに置かれた惣治郎おごりのアイスカフェオレが、グラスに汗をかいたまま氷を溶かしていく。
「やれやれ、怪盗は体が資本だってのに」
「そんなに疲れているようだったか?」
「いいや?最近早起きしている日があるくらいで、昨日も出掛けたし。朝起きちまうのだって、日差しが眩しいからだろ」
 テーブルの上で伸びをするモルガナに問うが、黄色い首輪をした黒猫は愛くるしい頭を傾げるばかりだ。
「ていうか、夏休みに入って一番コウが会っているのって、オマエだぞ、ユースケ!」
「そうなのか?」
「二日か三日にいっぺんは会ってるだろ!自覚ねえのかよ!」
「ふむ・・・・・・」
 そういわれてみれば、ここに遊びに来るほかにも、池袋のプラネタリウムでばったり会ったり、教会や斑目邸に同行願ったりしていたような・・・・・・。
「だが、変わった様子はなかったな」
「だろ?」
 モルガナはテーブルから祐介の膝を足場に、ベッドへと飛び移って行った。
「うわっ、コウつめてぇな。本当に体温下がってるんじゃないのか?」
 前足でぺたぺたと昂の腕を触ったモルガナは、そのまま昂の脇に丸まるように納まった。
「ワガハイも昼寝する。ユースケ、後は任せたぜ」
「了解した」
 雨の音がうるさい屋根裏部屋は、話し声がしないと耳鳴りがするような静けさに感じる。階下の音も、ほとんど聞こえない。
「ふぅ・・・・・・」
 祐介は少し薄まってしまったアイスカフェオレを口に運び、水滴で濡れた手をジーンズで拭った。祐介も低血圧気味で手が冷たいと言われることがあったが、いまの昂ほど病的に冷えたことはない。
(消えてしまうかと思った・・・・・・)
 母が死んだときは、幼すぎて覚えていない。だが、いま目の前にいる昂が失われたらと思うと、胃のあたりがきゅっと苦しくなる。
 幸い、痙攣のようなショック症状は起こしていないようだし、寝ていれば治る程度なのだろうが、それでも完全に反応が無くなった姿には肝が冷えた。
「・・・・・・・・・・・・」
 横たわったままの昂に、ついいつもの癖で腕と指を伸ばしかけて、あまりにも不謹慎だと手を握りしめた。お前いっつも絵のこと考えてるよな、という竜司の声が記憶の中に響き、言い訳じみた反論をしそうになる。昂なら笑って許可してくれそうだが、その許可をまだ得ていない。
 臨終の場面を題材にした美術品は数あれども、自分が描くとは決まっていないし、なにより病苦に意識がない友人に対し、非礼で冒涜的だ。それに、自分は昂に元気になる以外のことを望んではいない。
「すまない・・・・・・」
 自分のものとはだいぶ違う髪質の、コシはあるがふわふわした黒髪を撫でると、白い額があらわになった。こうしてみると、黒衣に白いドミノマスクをつけて不敵に微笑む姿とは、だいぶ印象が違う。
(可愛い・・・・・・)
 その感想が出てきたことに、祐介はうろたえた。今まで心底可愛いと感じたものなど、豆狸の置物くらいしかないのだが・・・・・・あのフォルムと表情こそ、至高の愛らしさというべきだ。しかしながら、目の前の無防備な寝顔もまた、守りたい、大事にしたいと思える。
 まだ冷たい額から滑らかな頬を撫で、首筋にまで指先が触れた時に、妙なこわばりを感じた。
(こっちも冷たいな?)
 首や肩も冷えてこわばっており、これでは十分な血液が頭までまわらなさそうだ。少しでも温まって緊張がほぐれないものかと、祐介は昂の首の下に手を差し込んでみた。
「ん・・・・・・」
 昂の小さなうめき声が聞こえたと思った瞬間、祐介は猛烈な眠気に襲われて、意識は強制的に歪んで引きずり落されてしまった。

『・・・・・・か。べつ・・・・・・』
「そうだ・・・・・・原因はともかく・・・・・・けば、なんとか」
 聞き慣れた昂の低い声にふっと目を開けた祐介は、慌てて起き上がり、まったく同じ驚いた顔に見つめられていることに仰天した。
「祐介!?」
『なんでここにいるんだよ!?』
 自分が横になっていたベッドの端と椅子と、それぞれから叫ばれて、祐介もパニックになって立ち上がった。
「昂・・・・・・!?いや、ここはどこだ!?俺はなぜこんなところにいる?」
 白っぽい室内は奇妙に歪み、パレスのセーフルームに似ているような気がした。ベッド、勉強机、書架、ゲームが繋がれたTV・・・・・・。祐介が辺りを見回したその時、嫌な地響きが足元に伝わってきた。
『まずい。ここは他人が立ち入れるほど頑丈じゃない。崩れるぞ!』
 椅子に座っていた方が立ち上がって焦った声を出すと、青白い炎が祐介を包み、白い狐の面と盗み装束の怪盗姿になった。ベッドから立ち上がった方の昂も、白いドミノマスクと黒いコートをまとっているが、椅子に座っていたほうは変わらない。よく見れば、目が金色をしている。
「クソッ、上手くいっている歪みのしわ寄せか?」
『早く現実に戻れ!』
「お前は!?」
『またカタチのないモノに戻るだけだ。消えるわけじゃない!』
 深紅の手袋がきつく拳を作り、ドミノマスクの下でふっくらとした唇が悔し気に噛まれたが、その肩には天井からぱらぱらと瓦礫の粒が落ちてきている。
『途中がかっこ悪くても、最後に勝てばいいんだよ!勝つまで諦めなければ負けない!急げ!』
 昂の姿をしたシャドウがキラキラと薄れていき、祐介は言葉を発する前に、裾をひるがえした黒いコートの腕に抱えられて、背中から虚空に落ちていった。崩れ落ちる天井の残骸が、歪む視界に淡く見える。
『期待している・・・・・・』
 消えていくシャドウの声を遠くに聞きながら、短い浮遊感の後に、祐介は膝と尻をしたたかに打って目を覚ました。
「うごっ・・・・・・」
「っはぁ・・・・・・ぐっぅ!!」
 椅子から転がり落ちてしりもちをついた祐介は、ベッドの上で飛び起きて頭を抱えている昂を見上げた。
「昂、大丈夫か!?いまのは、いったい・・・・・・?」
「オマエらいきなりニャンなんだ!?」
 飛び起きた昂に驚いたモルガナが甲高い声を上げ、雨音のする屋根裏部屋に戻ってこられたと、祐介はほっと安堵のため息をついた。
「あれは、昂のパレスだったのか・・・・・・?」
「何言ってんだ、ユースケ。寝ぼけてんじゃねえよ。ペルソナ使いにパレスはねぇって、前に説明しただろ?」
「いや、しかし・・・・・・」
「ナビでも使ったのか?」
「そんな覚えはないが・・・・・・?」
 祐介は慌てて自分のスマホを確認するが、イセカイナビにはメメントス以外の履歴がない。一番最近の「目的地不明」は、双葉のパレスに行ったときのものだ。
「俺は何もしていない。なんだったんだ、昂?」
 昂は相変わらず、座り込んだベッドの上で頭を抱えて唸っている。いきなり起き上がったのが堪えたか、それともあの部屋の崩壊が響いているのか。
「おい、大丈夫か?」
「昂?」
「・・・・・・・・・・・・」
 すすり上げるような呼吸を落ち着かせて、ようやく片手を退かした前髪の下から、真っ赤に潤んだ目が祐介を睨んでいる。
「っ・・・・・・すまない、その・・・・・・」
「ぃぃ・・・・・・わざとじゃ、ない・・・・・・」
 昂は祐介の乱入をかすれた声で許容したが、抱えた膝に顔を埋めて、丸まった背が震えている。
「ごめん、祐介。・・・・・・ちょっと、待ってて」
 すぐに落ち着くから、と雨音に負けそうなほど小さな声が、くぐもって聞こえてきた。常にない昂の動揺ぶりに、ただ事ではないと察したのか、ベッドの上でお座りしたモルガナも、耳を伏せて髭が垂れている。
「・・・・・・水をもらってこよう」
 祐介は惣治郎に昂が目を覚ましたことを告げ、水のグラスを受け取って戻った。ルブランには小降りになってきた雨の中をやってきた常連客がいたので、惣治郎は上がってこないだろう。
「ごめん、ありがとう」
 昂は恥ずかしそうに顔を上げて、祐介からグラスを受け取った。背の高いグラスから一気に半分の水が消え、グラスはテーブルに移された。祐介も椅子に座り、すっかり氷が溶けてしまったカフェオレを飲む。
「オマエら、どうしたんだ?」
 一人状況が理解できていないモルガナに、祐介は何と言うべきか困ったが、昂が重い口を開いてくれた。
「俺の、シャドウに会っていた」
「マジか!?」
「しかし、ペルソナ使いは自分のシャドウと向き合ってペルソナにしている。・・・・・・昂の元々のシャドウは、つまりアルセーヌだろう?」
「あれはアルセーヌじゃないし、他のどのペルソナとも違う。・・・・・・うまく、説明できないんだけど」
「いや、コウは複数のペルソナを使うことが出来る。普通はひとつしか戦う力として出てこないが、あるいは・・・・・・」
 モルガナの推察に祐介も納得したが、昂は首を緩く横に振った。
「俺は力を欲したから、アルセーヌと契約を交わした。・・・・・・あれは、ちがう」
「盗み聞きをするつもりはなかったが、なにか相談をしていなかったか?」
 祐介を見た昂の目が、涙目で睨まれた方がマシなほど、暗い深淵を覗かせて、寂しそうに自嘲を浮かべた。
「最初に、俺があいつを捨てた。だけど、未練たらたらで・・・・・・」
 昂は再び抱えた両膝に顔を埋め、自分の黒髪をくしゃりと握りしめた。
「は、恥ずかしいな。祐介に、見られちゃった」
「しかし、俺のせいでシャドウが消えてしまった。よくわからないが、あそこまでたどり着くのに、その・・・・・・かなり苦労したのではないか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 沈黙こそが、その答え。普段は二人きりで会えたあの空間に、なぜか祐介が乱入してしまい、場所もシャドウも消え失せてしまった。昂の努力が、水の泡だ。
「すまない。何と詫びたら・・・・・・」
「わかってる。祐介がわざとやったわけじゃない・・・・・・でも、祐介のせいだから、もうちょっとそばにいて」
 昂の腕が伸びて、祐介の手をしっかりと握りしめた。冷たかった手に、少し温もりが戻っていた。