雨に歌えば ―2―
熱気を地上に押し付ける分厚い曇り空をちらりと見上げ、喜多川祐介は足早に四軒茶屋駅に通じる地下階段から踏み出した。祐介の白い肌は日焼けすると赤く腫れてしまうので、外出時には厳しい日差しがない方がありがたいのだが、こう蒸し暑いのにも閉口する。
世間は夏休みだが、祐介には帰る実家もなく、寮住まいのままだ。佐倉双葉のパレスは崩壊したが、双葉自身はまだ眠ったままで、メジエドの問題が解決されたとはいいがたい。それでも、盆くらい帰省するのかと思った昂は、まったくそんな気配を見せず、相変わらずルブランの屋根裏で静かに過ごしているようだ。おかげで、祐介はこうして昂と遊ぶことが出来る。 祐介がレトロな雰囲気の喫茶店のドアを開けると、胸いっぱいにコーヒーの香りを吸い込んでいるうちに、すっかり顔見知りになったマスターの惣治郎が屋根裏に向かって声をかけてくれた。 「こんにちは」 「いらっしゃい。昂!友達きてるぞ!」 とんとんとんとリズミカルな足音が奥の階段から響いてきて、ジーンズに白いシャツを羽織った、しなやかなシルエットが狭い通路に現れた。 「おはよ、祐介。上がって」 軽やかな身振りで誘う昂に、祐介は惣治郎へお邪魔しますと会釈をしてから続いた。 屋根裏部屋は窓から入る緩い風が風鈴を鳴らしているだけで、空調などというものはない。階下からエアコンの冷気が多少上がってくるが、湿気を追い出すまでには至っていないようだ。 二人は祐介が持ってきたDVDを鑑賞するべく、昂が引っ張り出してきた椅子に腰かけた。 「世界には多くの絵画があるが・・・・・・そういえば、昂は特にこだわりはないと言いながら、印象派のページをよく見ていたな」 「印象派?」 「例えば、モネやルノワールとかだな。明るくて優しい絵だと言っていなかったか?」 「・・・・・・ああ」 祐介がスマホで示した画像に、昂はうなずいた。明るい日差しと穏やかな影に、淡く繊細な色彩が生き生きと踊っている画は、日本でも人気が高い。 「綺麗だと思うよ。特に、風景画は穏やかな気分になる。あと、動物の絵も和む」 「では今度、竹内栖鳳の画集を一緒に見よう。人物画には、それほど興味はないか」 「うーん・・・・・・そういうのは、彫刻の方がいいかな。ラオコーン像って、祐介なら知っているだろ?」 「なんと・・・・・・意外だな」 目を丸くした祐介に、昂は照れ臭そうに前髪を弄った。 ラオコーン像はヴァチカン美術館に飾られているギリシャ神話の彫刻で、ギリシャ軍兵士が隠れている木馬に槍を投げようとしたトロイの神官ラオコーンが、二人の息子と共に女神アテネが遣わした巨大な海蛇に襲われて苦悶の表情を浮かべているものだ。像が作られたのは紀元前だが、後世に与えた影響は大きく、特にミケランジェロの作品には顕著だ。 「ああいうダイナミックなのが好きだな」 「そうだったのか」 絵画と違って、彫刻は置かねばならず、あまりバランスが悪いものは作れない。ブロンズ像のように支柱の使用や、現代美術のようにワイヤーで吊るというということもできないから、大理石像のうち躍動感においてラオコーン像に匹敵するものは少ない。 「では、ベルニーニの作品などはどうだ?」 「おおっ、なにこれ、すごい!かっこいい!」 「そうだな」 アポロンとダフネ像でその感想が出てくるあたりが昂らしいというか、祐介には可笑しい。もちろん、ベルニーニの作品は奇跡とまで呼ばれるほどの美を顕現させ、その人気はローマを中心に、現代でも衰えることを知らないが、一般的な男子高校生が持つ感想の表現レベルが素直で、微笑ましく感じてしまうのだ。 「いいなぁ。本物見てみたい・・・・・・」 「これはローマのボルゲーゼ美術館にあったはずだ。いつかイタリアに行ってみるといい」 「あぁ・・・・・・」 楽しそうだった昂の表情が急に虚ろになったので、祐介は驚いた。 「どうした?」 「うん・・・・・・」 ふるふると首を振った昂は、自分のスマホで慌ただしく何かを検索すると、ほっと笑顔を取り戻した。 「大丈夫だった」 照れくさそうな昂の微笑みに、祐介はますます内心で首を傾げた。 「保護観察中でも、海外には行けると聞いたが?」 「それは知っているけど、その後、というか・・・・・・」 「後?」 しかし昂は、それ以上は言葉を濁して、忘れていただけだと首を横に振った。 「じゃあ、ニケはどこの美術館に飾ってあるんだ?」 「サモトラケのニケのことか?あれはフランスのルーブル美術館にあるが、レプリカでよければ国内にもあったはずだ」 「そうか」 「たしかにニケ像も、躍動感のある彫刻だな」 「うん。今まで見た彫刻の中では、ニケが一番好きだな」 「ほう。やはりあの翼が、かっこいい、か?」 勝利の女神であるニケの翼と、昂のアルセーヌの翼をだぶらせて、祐介も笑みを浮かべたが、昂は違うと首を振った。 「顔がないのが、いいんだよ」 絶句した祐介に気付かないのか、昂は「ぴぴっときた!って思った」とくすくす笑いながら、祐介が持ってきたDVDをセットし始めた。 彫像には、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケのように、発見されるまでに像の一部が失われてしまったものや、ロダンの作品に代表されるような、元々部分しか無いのが完成品、というものがある。欠けたこその「完成した美」、無いからこその「圧倒的存在感」、そういう感覚や概念があることは、広く知られている。 造形が専門ではない祐介でも、「無言の叫び」や「余白が持つ主張」が極めて効果的であることは熟知している。もちろん、サモトラケのニケには顔どころか頭部と両腕がないことは知っているし、その欠損こそが彫像の美を引き立てていることも知っている。 だが、昂が言っていたことは、祐介が知っている感性とは明らかに別の種類を言ったものだ。 (頭がない、ならわかる。だが、昂はなぜ「顔」と言ったんだ・・・・・・?) 絵画にせよ彫像にせよ、顔が失われたという作品は、ほぼ怨恨か宗教がらみの凶行である。事故や災害という場合もあるが、それは顔以外の部分にも傷が及んでいることがほとんどだ。 おそらく昂は、ニケに頭部があり両腕がどんなポーズを取っていたとしても、顔さえなければ最も気に入った彫像だと言うに違いない。 (顔のない、勝利の女神・・・・・・) その言い知れぬ恐ろしさに、祐介はぞくりと背筋を震わせた。どちらが勝つのか決まっているのに、見るものには決して悟らせない、そんな不穏なイメージが掻き立てられる。 (昂は、ニケに何を見ているのだろうか) こんな風に他人の感性にまで思索を巡らせるなど、いままでなかったと気が付いて、祐介は地下を走る電車の窓に映る自分自身に苦笑いを向けた。誰かの家に何度も遊びに行くことも、いままでなかったと自嘲しながら。 電車に乗っているうちに降りだした薄暗い空を、祐介はため息をつきながら見上げた。画集を持ちだそうと思ったのだが、大気の状態が不安定だと言う天気予報を信じて、またDVDにしておいてよかった。美術書を持っていくたびに大雨になられるのは勘弁してほしい。ルブランは四軒茶屋駅から徒歩一分という立地だが、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨では、傘をさしても濡れるのを覚悟しなくてはならない。 (俗にいう、雨男ということか?) なぜ自分が昂と二人で遊ぼうとする日に限って、滅多に晴れないのか、つくづくタイミングが悪い。結局、しばらく待って風が凪いできたのを見計らい、祐介は傘をさして雨の中に踏み出した。 「ひでぇ雨だな。濡れたか?」 「ええ、少し。大丈夫です」 カラコロン、とドアベルを鳴らしてルブランに駆け込んだ祐介を、惣治郎が苦笑いで迎える。ドアの向こうはまた風が吹きだして、遠くで雷の音が聞こえる。さながら台風のようだ。 「あぁあ。こりゃしばらく外に出られねぇな。おい!昂!友達きてるぞ!」 祐介はエントランスマットの上で服に付いた水滴をはらっていたが、惣治郎の声に屋根裏からの反応がないことに眉をひそめた。惣治郎も変だと思ったのか、舌打ちをする。その時、人間の足音よりも、ずっと軽い音がととんととんと階段を下りてきた。 「おい、ユースケ!いいところに来た!」 「モルガナ?」 惣治郎には「ニャ〜」としか聞こえていないので、祐介は断りを入れてからモルガナと階段を上った。 「昂?」 薄暗い屋根裏部屋には、叩きつけられる雨音がうるさく響いていた。梁がむき出しで見える天井は開放感があるが、雨音の大きさに屋根の薄さが感じられる。 ベッドはもぬけの殻で、祐介は広い屋根裏部屋をぐるりと見渡して、やっとソファにぐったりと横たわっている人影を見つけた。 「昂!?どうした、大丈夫か!?」 顔に触れてみると、妙にひんやりとする。顔色が悪い。祐介がもう一度名前を呼ぶと、長い睫毛が震えて、大きな目が大儀そうに少し開いた。 「・・・・・・ゆ、すけ?」 「よかった・・・・・・。寝るならこんな所でなく、ベッドの方がいいだろ」 祐介は昂の体を起こそうとしたが、昂は苦し気に拒否した。 「めまい、ヤバい・・・・・・」 「貧血か?熱中症ではなさそうだが・・・・・・」 「どうせ寝不足か夏バテだろ?最近、寝ながらよく唸ってるぜ」 モルガナの証言に、昂は驚いたように視線を鋭くした。 「なに・・・・・・俺、なにか言ってたか?」 「いいや?唸ってるだけだったぜ」 「そ、か・・・・・・」 昂は安心したように、またソファに頭を落とし、そのわずかな落差でも辛そうに呻いた。 「ごめん、祐介。せっかく来てくれたのに・・・・・・」 「気にするな。それより・・・・・・」 昂の手を取って、祐介はその冷たさに驚いた。顔を触って熱はなさそうなどと思っていたのは大きな間違いで、体温が低すぎるのかもしれない。 「やはりベッドに行こう。少し、我慢しろ」 眉間にしわを寄せたまま小さくうなずいた昂を、祐介はできるだけそっと立たせ、ほとんど抱えるように支えて運んでやった。しわになるからとシャツを脱がせてハンガーにかけたが、その間も昂は反応なくベッドに倒れ伏していた。 「昂・・・・・・?」 シーツに黒髪を散らしたまま動かない昂の顔色が、蒼白を通り越してくすんで見える。かすかな胸の動きが不規則に跳んだ気がして、祐介は首の後ろを冷たいものが駆けあがるのを感じた。 |