111 非日常からの気配 −エリゼオ


 ムタスの外から来た客人たちと、漁師たちが退出した支部長室は、ずいぶんすっきりとした空間になった。
 その中で、一番空間を占有している部屋の主が、ソファの上で大きな体を反らせた。
「あー、スゲェのが来たな」
 自分の三倍はありそうな胸郭からため息をついたバーハルに、エリゼオは苦笑いを返した。
 ムタスで生まれ育ったエリゼオにとって、バーハルは顔馴染みである以上に、「近所のおっかないオヤジ」的存在なのだが、その雷親父が十歳にも満たない子供を避ける様子など初めて見た。
「俺も噂では聞いていましたが、それ以上でした。あの頭の中は、いったいどうなっているんでしょうね」
「本当に人間のジャリか?」
「そのはずですよ。詳しく聞きます?」
「やめとくわ。どうせ、やんごとない身分なんだろ?」
「平民ですよ」
「嘘こけ。鑑定を受けられねえ平民が、レベルがどうのなんて言い出すかよ。それに、あんな護衛雇ってんだ。普通じゃねえ」
「護衛?」
 バーハルの指摘に、エリゼオはショーディーが連れていた三人の男女を思い浮かべた。
 やたらと美形な背の高い男と、外国人と思われる白い髪の男、それと胸が目立つ侍女。
「侍女はそうでもないが、男は両方とも、人を殺したことがある人間だ。それも、ゴロツキみてぇな傭兵じゃねえ。軍人だ」
 すうと細められたバーハルの隻眼を見上げ、エリゼオは内心で感嘆した。彼らの所作から強いだろうなとは思っていたが、そこまでは見通せなかった。
「まあ、あんな頭と行動力があるんだから、得たいにしろ、消したいにしろ、狙われない方がおかしいわな」
「冒険者ギルドでは、最重要人物になっていますよ」
「フン。せいぜい、嫌われない程度に利用するこった」
 斜に構えた言い草をするバーハルだが、深海のテンタクルを定価で卸す件を手紙にするよう、事務員に指示を出していた。数日後には、他の漁業ギルドや首都の本部にそれが届くだろう。
「ところで、これは俺の独り言なんですがね」
 エリゼオはロゼから聞いていた、リンベリュート王国の混乱を溢した。
 “障毒”を癒せる迷宮都市では、『稀人の知識』が手に入る。リンベリュート王国の冒険者と職人たちは、その恩恵にあずかるべく必死になっている。
 そして同時期に行われた、異世界人召喚の儀式は成功したものの、稀人の何人かが行方不明になっているらしいこと。
「稀人の誘拐は愚者の刃の仕業ってことで、教皇国がカンカンになっちゃって。本国から増援が来るらしいですよ」
「はァン、妙な話だな」
 バーハルが片手で顎をこすりながら疑問を呈するように、迷宮から『稀人の知識』が出てくるのだから、迷宮と稀人の間にこそ何かあるというのは、すぐにわかりそうなものだ。
 しかし、これは冒険者ギルドだからわかっているだけのことで、国内に冒険者ギルドを誘致していない教皇国側には、情報がまわるのが遅いのだろう。
「リンベリュートでは、燿石の道具に代わる様々な魔道具や、『稀人の知識』を用いた新しい機工が、職人ギルドをにぎわせているようです。我が国も、そうなってほしいものですが……」
「ひと悶着どころじゃないだろうな」
 オルコラルトでは、職人は商会が囲っており、新しい技術や技法、レシピなどから得られる利益に対して、非常にシビアだ。『稀人の知識』を得た冒険者が、どの職人に渡すか、どの商会に渡すかで、その後の利益が全く変わってくるのだ。凄まじい争奪戦になることは目に見えている。
「そんな騒ぎになったら、知識を独占しているグルメニア教と教皇国は、なんて言ってくるでしょうね?」
「……」
「実は、我が国にも迷宮都市や、類似のダンジョンというものが出現する兆しがあるそうでして……」
 実に嫌そうにゆがめた顔を覆ったバーハルから、地鳴りのような呻き声が聞こえてきた。
「あの、ショーディーとかいうジャリは、その関係か……チクショウ、聞きたくねえ……」
「いつもながら、勘がいいですね。ええ、なにかあるたびに、我が国では物価が激しく動きます」
 商機を見ると言えばそれまでだが、それで悲鳴を上げるのは、いつだって持たざる者たちだ。
「……まだ何も見えてねえのに、有事体制なんてできん。だが、保存用に回す割合を増やす。それなら、まだ目立たねえだろう」
「お願いします」
 日持ちしない生鮮食品よりも、油漬けや塩漬けにした保存食の方が、有事には徴用されてしまう。しかし、いまから多めに用意しておけば、急な値上がりに怯えることなく、今年の冬に庶民の口に入る分を確保できるだろう。
「そうなると、深海のテンタクルも食えるってのは、いいタイミングだったかな」
「そうですね。あの臭いをどうにかできるなら、干物とかに加工できないでしょうか」
 漁師たちが深海のテンタクルを曳航してくるのは、腕自慢というのもあるが、魔獣や害獣除けとしての実用性からだ。ショーディーの言う通り、深海のテンタクルは、濃厚な魔力を蓄えており、沖で獲れた魚を狙う魔獣や害獣からまもり、安全に港まで持って帰ってくるのに重宝した。
 いままで食べようとしなかったが、なにしろ大きいので、加工方法さえ確立できれば、大いに食糧に数えられるだろう。町をあげての魔獣肉フェスも、十分に見込みがある。
「よし。とりあえず、レシピを買いに行くか。そろそろ登録も済んだだろう」
「そうですね」
 ショーディーが考えた料理は、漁業ギルドで管理している市場の食堂や、冒険者ギルドが提携している宿や食堂で、はじめは現物を支給しつつ提供を開始することになっている。供給が安定しない食材なので、これは仕方がないことだ。
 漁業ギルドを出た二人が、連れ立ってギルド通りを歩けば、支部長同士と知っている者たちから挨拶が飛んでくる。何事かと不審がるような者がいないのは、この港町が平和な証拠だ。
 観光地であるから、州はこの町の治安維持には特に気を使っている。税収に直結するからだ。
「景気がいいのは、傭兵ギルドばかりだな。ええ、おい」
冒険者ギルドうちがそれを言っても、僻みにしか聞こえないんですよ」
「ケッ」
 豪快なバーハルからノリが悪いと思われようと、支部長ともなれば雑談でも下手なことは言えないのだ。勘弁してほしい、とエリゼオは思う。
 職人ギルドは所属する職人のジャンルが広いせいもあって、建物も大きい。港町ムタスのギルドには、物を作る者だけではなく、観光客を楽しませる芸人も多く所属していることも、大きな理由だろう。
 そんな職人ギルドの出入り口から、キャンキャンと子供が喚く声が漏れ出ていて、エリゼオはげんなりとしながら、我関せずと言った態度で入って行くバーハルに続いた。
 資産家の子息や子女が、使用人や傭兵を引き連れて我儘を言っている状況など、ムタスでは珍しいことではない。冒険者ギルドにまで無理を言ってくることがあるのだ。例えば、ギルドが依頼を受けていない場所に無断侵入して害獣が出た、責任を取れ、みたいなことだ。
 漁業ギルドはバーハルをはじめとした屈強な漁師たちがいるので、お供の傭兵たちが止めてくれる。それを無視して乗り込んできた者が、失禁しながら気絶する様子は、想像に難くない。
 傭兵ギルドも、貴族や資産家は得意先ではあるものの、子守りまでは請け負っていないと、支部長ですら度々苦い顔をして愚痴っている。
 そんな状態であるから、多くのレシピを管理している職人ギルドには、あしらいを心得た職員が結構いるらしい。
「馬鹿にしているわ! こんな扱いを受けたのは初めてよ! わたくしはバージリアネ・プリシラ・オスボーン。オスボーン侯爵の息女でしてよ!?」
 薄桃色の髪を白いリボンで飾り、ひとめで上等とわかる生地をたっぷりと使った外出着を着ている少女は、エル・ニーザルディアの高位貴族の子らしい。キャンキャンと耳に刺さる甲高い声で喚いており、お供の侍女がそれをなだめすかし、傭兵たちもうんざりした顔をしている。
 それを横目に、エリゼオたちはレシピの購入窓口に並んだ。
「おぅい、調理レシピ売ってくれ。さっき、ロゼと一緒に来た金髪のボウズがいただろ。そいつが持ってきたの全部だ。三セット頼むわ。漁業ギルドで領収書きってくれ」
「冒険者ギルドも同じものを、三セットください」
 窓口前の場所を占領していたオスボーン家の一行を押し退けるように動いたせいか、貴族子女らしい小奇麗な顔が睨みあげてきた。
「なんですの、無礼、なっ……」
 バーハルを見上げた少女の体が硬直し、そのまま後ろにひっくり返って静かになったが、キンキンした声が耳に刺さることはなくなったので、まあいいかとエリゼオは眼差しを遠くした。
「……金持ちのジャリってのは、ああいう感じだよなぁ?」
 大きな体をかがめて囁いてきたバーハルに、エリゼオも苦笑いで肩をすくめてみせた。
「彼がおか……ええと、珍しいとは、俺も思いますね」
「漢なら、はっきり言え。ものすごく変だってよ」
「言いすぎです」
 この町で傲慢さや我欲のせいで失敗している人間を見慣れているエリゼオは、いま手に入れたレシピを作った少年に対して、礼儀正しくあるべきだと肝に銘じているのであった。