014 至れり尽くせりな家出
夫婦喧嘩を放っておいて、僕はさっさと城館のエントランスから飛び出した。
「わぁ、でっかい」 そこにいたのは、カーパーと呼ばれる大山羊の家畜。ちなみに、体高だけで大人の頭くらいある大きさで、がっしりとしている。前世のドキュメンタリー番組で見た、北海道のばん馬みたいだ。長い毛がふっさふっさしている。 この世界……かどうかはわからないけど、少なくともこの辺の地域では、馬の代わりに荷役や農耕に使われることが多いらしい。牛の大きさとパワーを持った山羊って感じ。 たしかに、馬車だといかにも金持ちに見える。山羊車なら、まだ目立たないだろう。 「おはようございます、ショーディーさま」 「おはよ、ハニシェ!」 もうこの城館のメイドではないハニシェは、自前の物らしい質素な服を着て御者台に座っている。 「ショーディーさま、失礼します」 アンダレイに抱き上げられた僕は、荷台の上にそっと下ろされた。荷台には幌が掛けられていて、荷物もちゃんと揃っているようだ。 「冒険者ギルドまでは、ジェグズがお供いたします。その先は、冒険者たちに道をお聞きください」 「わかった。ありがとうね」 「どうかご無事で」 僕が手を振ると、動き出した山羊車に向かって、見送りに来てくれた人たちが揃って頭を下げた。その人数が、意外と多いことに内心驚きながらも、僕は彼らが見えなくなるまで手を振り続けた。 城門を出て、初めて見るこの世界の広さに感動する間もなく、僕はガタゴトと揺れる荷台の中を慎重に移動して、御者台に座るハニシェの背中に話しかけた。 「……なんか、見送ってくれた人多かったね。仕事場離れたりして、怒られないかな」 「なにをおっしゃいますか。みんな、坊ちゃまに御恩を感じている者ばかりですよ。お見送りは当然ですし、坊ちゃまが出て行かれることを嘆いているのです」 「え? なんで? ぼく、なんにもしてないよ?」 本気で心当たりがなく、ハニシェのリップサービスだと思ったのだが、彼女はお手上げと言わんばかりにため息をつく。 それを見て、山羊車の隣で馬に乗っていたジェグズまで朗らかに笑いだした。城館の中にいる時の彼は、領主であるベルワィスの側で警護することが多く、神経質そうに眉間にしわを寄せていることが多かったのだが……。 「ハニシェ、ハニシェの苦労が、やっとわかった」 「わかっていただけましたか」 「え? 本気でわからない。ぼく、ハニシェに苦労かけてた?」 不安になった五歳児の胃がきゅっと痛みを覚え、小さな手に汗がにじんだけれど、ハニシェはそうではないと微笑んで振り向いた。 「坊ちゃまは、とてもお優しいのです。私たちを、使用人という替えのきく道具ではなく、一人の人間として扱ってくださいます」 「そして、その自覚がないので、御父上たちに叱られないか、使用人は気が気でないのですな」 「はぁ?」 耳が肩に付くほど首を傾げた僕に、ジェグズは見たことがないほど穏やかな顔で説明してくれた。 「旦那様や奥様から叱責を受けた者を、ショーディーさまは度々かばわれていたでしょう?」 「だって、怒鳴るだけじゃなくて、物でぶったり、けったりしてたら、止めるに決まってるでしょ。ココロもカラダも、痛いのダメ! ぼうりょくはんたい!」 あざとい子供の仕草全開で、ぷぅっと頬を振らませてみせると、ジェグズは胸郭全体で呼吸するように、清々しく息を吐きだした。 「ショーディーさまの、下々にまでかける優しさは美徳……善いところだと思いますが、身分の高い方々の価値観には合いません。我々をかばうせいでショーディーさまが叱られてしまうのは、我々の望むことではありません。ただ……」 「ただ?」 聞き返して見上げた僕は、また呆れたような笑顔を向けられてしまった。 「ショーディーさまは、我々が思っている以上に、お強かった。それは、言葉に尽くしきれないほどに」 たしかに、家を飛び出す五歳児は無謀だろうけれど、誰も力尽くで止めようとしなかったからなぁ。 (まあ、父上の命令がなければ、使用人たちは身分で上になる僕を止められないか) それをいいことに、僕を慕ってくれていた使用人は、僕がスムーズに家を出られるよう用意してくれたんだろう。荷車に積まれた荷物は、僕がお願いした量よりも明らかに多かった。 「坊ちゃま、朝食をお召しになっていないのではありませんか? そこのバスケットに、アンダレイさんが用意してくれていますよ」 「あっ、ぼく、おなかぺこぺこなんだ!」 言われて思い出した空腹に逆らえず、僕は揺れる台車の中で座り、バスケットの中身をあらためた。丸パンのサンドイッチには、ハーブバターやチーズ、薄切りのハムなどが挟まっていた。 「おいしー!」 ぺろりと一つ食べ終わり、もうひとつと手を伸ばして、ふと子供一人分にしては量が多くないかと首を傾げた。 「ねえねえ、ハニシェは? はい、あーん」 「えっ!? わ、わたしは大丈夫ですよ? 坊ちゃまがお食べくださ……」 「落ちちゃう! はい、あーん」 「あ、あーむぐっ」 手綱を持って両手が塞がっているハニシェの口に、サンドイッチを突っ込む。理由なく大丈夫って言うことは、食べてないってことと同意義だ。 「ジェグズも!」 「ははっ。私はハニシェと違って、勤務前にきちんと食べておりますから、大丈夫です」 「そう?」 昨日付けて解雇されたハニシェだから、この荷台で夜を明かしたとしても、今朝は食事がなかったはずだ。アンダレイは、僕が気にすると思って、ハニシェの分も用意させたに違いない。優秀な家令見習だ。 「ショーディーさま、お食事中のところ申し訳ありません」 「ん?」 パンからはみ出したせいで頬に付いた、マヨネーズ風の酸っぱいクリームに行儀悪く舌を伸ばしかけた僕は、ジェグズの方に顔を向ける前にナプキンで頬を拭った。 「なぁに?」 「これから行くフェジェイですが、近付きましたら、ショーディーさまはきちんと幌を下ろして、私かハニシェがいいと言うまで出ませんように」 大人に用意してもらっての家出だけど、僕は領主の子供だし、襲われる可能性もあるのか。 「うん……それは、危険だから?」 「それもあります」 (それ 僕が首を傾げると、大人たちは言いにくそうに視線を交わした。 「お目汚しになりますので」 「そう……。わかったよ」 遠回しに言ってくれたハニシェを困らせるわけにもいかないので、僕は素直にうなずき、朝食を終わらせてから荷台の前後の覆いをきちんと閉めた。 そして、外を見られない退屈と満腹と寝不足から、すぅっと眠りに落ちかけた、その時。 (ん……?) 漂ってきた臭いの不快さに、思わず眉間にしわを寄せて目を開けた。 (ナニコレ……ちょっと、臭すぎるんだけど?) 塔の小部屋を掃除されていない公園のトイレだとするならば、これを何と表現すればいいのか。 (見たことないけど、肥溜め? それにしては他の臭いも強烈だな。発酵臭? ゲロの臭いも混じってる?) 生ゴミの中で寝ていたワキガの酔っぱらいが肥溜めに飛び込んだなら、きっとこんな臭いになるかもしれない、そんな感想が僕の中に浮かんだけれど、それでも足りないかもしれない。 (ハニシェはお目汚しって言ってたけど、このままでも十分に鼻汚しだ。絶対に幌を上げられない) 外の惨状は見ておくべきかもしれないけれど、せっかく食べた朝食を戻しそうだ。 僕は袖で鼻を覆って、ハニシェかジェグズの声がいいと言ってくれるのを大人しく待つしかなかった。 |