002 五歳児が見た世界
大山羊の毛皮で出来た敷物の上に尻をつけて座り、僕はこの世に生まれる前の出来事を思い出した。
「あー……」 それまで持っていた積み木が敷物の上に散らばったけど、それを気にするよりも僕のちっこい脳みそに入ってくる情報量が多くて、ころんと後ろにひっくり返った。 (おういえ。異世界転生キマッタぜ、こんちくしょーめ) すーはーすーはーと深呼吸を繰り返し、アラフィフのおっさんからピチピチの五歳児になったショックをやり過ごす。赤子からでなくてよかった。 (んんっと、まずは状況整理だ) 前世で死亡した僕は、魂だけこっちに連れてこられた。そして、ブルネルティ家という、けっこう裕福な家の第三子として生を受けた。 (僕の名前は、ショーディー。五歳。父上はベルワィス、母上はフォニア、姉上はネィジェーヌ、兄上はモンダート。よし、全部言える) 前世の記憶に圧迫されて、現世のショーディーくんが頑張って覚えたことがすっ飛ばなくて、本当に良かった。 「坊ちゃま……ショーディーさまっ。大丈夫ですか?」 敷物の上で大の字になっている僕に気が付いたのか、お茶を淹れていたメイドがやってきた。 「オゥ、グレイトゥ……」 「坊ちゃま?」 ロングスカートが畳まれ、大変眼福な、たゆんたゆんした胸の向こうに、僕の専属お世話係の顔が見えた。 「なんでもないよ、ハニシェ。つみき、飽きちゃった」 「では、こちらでおやつにいたしましょう」 「うん」 むっくりと起き上がった僕は積み木を片付け、まだ体に対して少し高い椅子によじ登った。 「どうぞ」 「ありがとう」 僕がお礼を言うと、一使用人であるハニシェの顔が、ふにゃんとほころんだ。彼女は、とても気立てがいい娘だ。ずっと僕のお世話係でいて欲しい気持ちもあるけど、まだ十代だし、行き遅れる前に、良いお婿さんを探してくれるよう、父上にもお願いするとしよう。 「いただきます!」 バター風味の生地に激甘なジャムが挟まったケーキと、柑橘系の皮が入ったハーブティー。僕のおやつは、だいたいこれだ。 「おやつの後は、何をなさいますか?」 「んー。ぼく、絵本みたい」 「かしこまりました」 残念ながら、読み書きに関しての転生チートはもらっていないようなのだ。情報収集のためにも、勉強しないとな。 と、気合を入れたのはいいけれど、残念ながらこの城館には本が少なかった。まともに書籍と言ってよさそうなのは、広く信仰されているグルメニア教の教えが書かれた物ばかりだ。 それらによると、僕が連れてこられたこの世界は、定期的に異世界人……はっきり言えば、日本人を召喚している。記憶が戻る前は、それが当たり前だと思っていたけれど、あの病院ロビーのような空間で出会った少年のことを思い出したら、一気に胡散くさくなった。 (主導しているのはグルメニア教。およそ六百年前に、最初の異世界人召喚が行われている) 始祖である聖ライシーカと召喚された聖女シャヤカーの話は、絵本にもなっていて、この世界の人間の多くが知っていることだろう。以来、数十年に一度は、世界のどこかで異世界人が召喚されているそうだ。 グルメニア教は異世界人の知識を独占しており、その知識をもって、多くの国を裏から支配していた。各国はグルメニア教に言われるがまま、莫大な費用がかかる異世界人召喚をおこない、その知識のおこぼれをもらっている状態だ。 (というわけで、この世界の文明は歪に進化し、貧富の差が広がっている、と) 日本人が来ている割に衛生観念が低いとか、基礎学力の底上げがなっていないとか、食文化が貧弱だとか。グルメニア教の本拠地であるライシーカ教皇国以外は、どこもそんな感じらしい。 僕が今いるリンベリュート王国も、文明水準はさほど高くない。この国は建国から、まだ五十年と経っていない、若い国だ。僕の家は、祖父と曽祖父が建国に貢献した為に、王家から厚遇されているらしい。領地もあるので、庶民に比べればかなり裕福な暮らしができているようだ。 (トイレットペーパーもない暮らしだけどな) ショーディーくんは子供なので、インフラや建築に関するものを、まだ読ませてもらっていない。そういうのは領地の重要書類になるからね。 だけど、何を拭いたかわからないボロ布でお尻を拭いて、おまるに入った物をどこに持っていくのか……いつか病気になるんじゃないかと、戦々恐々となる毎日だ。実際、乳幼児の死亡率は非常に高く、平民に生まれた子供の半分が成人できればいい方だとか。 我が国の悲惨さに比べて、ライシーカ教皇国には水洗トイレもあるそうだ。宗教的なことは元より、目に見える物質的な豊かさに、他国の人々からは理想郷だの地上の楽園だの、虚実混ざった憧れを抱かれている。 そんなに頻繁に異世界人が来ているなら、何人かはグルメニア教系の国から逃げ出して、独自に現地のどこかを発展させそうなものだが、それはほぼ不可能だとわかった。 「稀人は脆弱なのよ」 「ぜいじゃく……?」 この世界の人は、召喚されてきた異世界人を稀人と呼ぶ。熱心に稀人のことを調べ始めた僕に、姉のネィジェーヌが教えてくれた。僕より八つ年上の彼女は文武に優れた人で、家庭教師が付いていて、剣も習っている。 「稀人は召喚されてから、わずか三年も生きられないの。記録に残っているのは、長くて五年かしら。すぐに病気になってしまうのです」 「じゃあ、稀人は、おうちにかえって、病気をなおせないんですか?」 「元の世界に帰る、ということかしら? こちらから稀人の世界へは行けないのよ」 たぶん一方通行だろうなとは思っていたけれど、稀人が元の世界に帰れない事を何とも思っていなさそうな姉上に、ちょっとイラっとする。 「それに、稀人には障毒に耐性があるとはいえ、害獣に殺されてしまうこともあるのよ」 「ぴえっ」 恐ろしい害獣の姿を思い出して、頭皮がざわざわした僕はきゅっと体を縮こませた。 六百年前に召喚された聖女シャヤカーは、聖ライシーカに協力して邪神を封印したとされている。しかし、その後の世界には、邪神の呪いである“障り”が蔓延り、"障り"に侵された生き物は障毒を持つ害獣へと変わりはて、人間を襲うようになってしまった。 (実は邪神が“障り”から世界を護っていた、ってパターンだったりして。障毒って何かの化学物質かと思ったけど、ちょっと違うのかも) 学習の一環として、目玉や脚がいくつも増えたドブネズミっぽい害獣を見せてもらい、そのミュータントぶりに、ショーディーくんはちびりそうになったものだ。 「稀人は、障毒にならないのですか?」 「ええ。私たちは障毒の耐性が低く、害獣に怪我をさせられると、そこから障毒に侵されてしまう。障毒のせいで、体が不自由になった人がいるのを、ショーディーも知っているでしょう?」 「はい。母上や姉上が、おみまいにいっています」 「そうね。でも、稀人は障毒に耐性があり、仮に害獣から攻撃を受けても、障毒に侵されることが少ないのよ」 「ふーん」 つまり、障毒とは物理的な毒素ではない可能性がある。 (ファンタジー的な瘴気とか、そういう類なんだろうか? でも、本当に毒素である可能性も捨てきれないんだよね) 僕がそう思う理由は、ここが『地球ではない』からだ。 この世界の空には月と呼べそうな衛星がふたつ浮かび、一年が四七三日あるということ。一日は二十四時間だけど、それはたぶん、稀人の知識で一日を二十四分割したせいだと思う。その証拠に、一秒が僕の知っている一秒よりも長い。 (仮に、この世界が、宇宙のどこかにある惑星だった場合、僕らは地球人から見たら異星人ということになる。ということは、僕らと地球人は、見た目が似ていても、その構造や構成物質が違って当たり前では?) 召喚された地球人がすぐに病気になってしまうのも、未熟な医療や衛生環境が悪いからだけでなく、ここが地球と比べて、目に見えない環境が違いすぎるから、というのもありえる。僕らは平気で食べているけど、地球人には食べられない物だってあるだろう。稀人にとって、この世界が死地であるのは本当らしい。 ただ、逆に僕らが障毒に弱く、稀人が障毒に耐性があるのならば、そもそも障毒とは、“障り”とはなんなのか、という研究も進んでいるはず。 (……なんて、思ったんだけどね) 結果は、父上の怒鳴り声と母上の嘆きでした。 最近僕の学習速度が早いと両親に報告がいったらしく、何を調べているのかと聞かれたから答えただけなのに。 「“障り”そのものについてだと! お前は聖ライシーカを侮辱するのか!?」 「はぃ? いえ、比較対象があるのですから、研究があるのかと……」 「ショーディー、稀人の知識はとても貴重で確かなものなのですよ。それを比較だの、研究だの……どうしてそんな不敬なことを考えるのです」 「え、えぇ……すみません。ぼくが浅はかでした」 このままでは僕のお世話係のハニシェが悪いことにされそうだったので、僕は素直に両親に謝った。 そして、こうも思った。 (この世界の人間、間抜けすぎじゃないか?) グルメニア教が幅を利かせる原因は、地球の知識が独占されているからだけじゃない。この世界の人間の、自分で考えようとしない怠惰のせいかもしれない。 |