疲れた賢者は面倒くさい勇者をフリ続ける ―1―
こんな状態になった選択に後悔もしていないし、原因にも恨んではいない。・・・・・・多少、「だから言ったのに」と腹は立ったが、それを事前に理解する相手ではない事も理解していた。
つまり、諦念である。自分ではどうしようもない、と。 「人生、諦めが肝心だ」 たとえそれが自分の死に直結していることでさえ、ジェリド・タスク・フライゼルはすんなりと受け入れた。いちいち感情を動かすことに、彼はずいぶん前から疲れ果てていたのだ。 「坊ちゃま、お手紙でございます」 「ありがとう」 身の回りの世話をしてくれているロータスが、差出人のサインが見えるように示した後、ジェリドの目の前で封を切り、便箋を広げて差し出した。 「・・・・・・」 ジェリドは受け取りたくなかったが、仕方なく左手で受け取った。差出人はいつもの名前で、内容もあまり変わり映えがしなかった。字は綺麗とは言い難いが、型にはまった社交辞令と要件ばかりになってしまうジェリドとは違って、書き手の情熱的でのびのびとした性格がわかる書き方だ。 「相変わらず、壮健のようでなによりだ」 ぶっきらぼうな低い嫌味を呟くことを、ロータスは表情を変えずに流してくれる。返事の代筆をするかとも聞かれない。返事は不要だと、ずいぶん前にジェリドが言い捨てたからだ。 「まったく、いい天気なのに気分の悪くなるものを見せられた」 「お茶にいたしますか? オレンジのケーキがございますよ」 「そうしてくれ。・・・・・・少し風に当たりたい。あぁ、自分で行く。ロータスは茶の準備を」 「かしこまりました」 ロータスが手紙を片付けて部屋を辞していくと、ジェリドは杖に体重をかけて、えいと立ち上がった。本当は慎重にゆっくり立ち上がるべきなのだろうが、胸に渦巻く不快さがジェリドを押し上げた。 腕全体を支えてくれる造りになっている大きな杖にすがりながら、右足を引きずりひきずり、窓辺にたどり着いた。握力が弱ってきた左手で窓を押し開け、窓枠にもたれたまま、湿気のある温かな空気を吸い込む。 (ライナス、諦めの悪い奴め) かつて旅路を共にした男は、実にしつこいし、うざったい。ジェリドが心身を損ない、ジェリドが生まれる前から家令として仕えていたロータス一人を供として、領地の隅にひきこもったのを、彼は自分のせいだと思い込んでいる。あの時の、ショックと自責で蒼白になったライナスの顔を思い出し、ジェリドはイライラと息を吐き出して、緑と青が織りなす遠くを眺めた。 日当たりの良い小さな屋敷の外には、長閑な風景が広がっていた。畑は充分に肥えて実り豊かで、程よく手を入れられた森も季節を問わず住人に恵みをもたらしてくれている。ちらほらと見える人影は、この農村で暮らす領民たちだ。 しかし、ジェリドの身分や功績を考えれば、もっと利便性の高い町はもとより、別荘地も湯治場も王都すらも、住む場所は選び放題なはずだ。それができないのは、ジェリドを侵食する厄介な呪いのせいで、実家のフライゼル侯爵家に、領地の隅に終の棲家を用意してもらえただけありがたいと思う。 ジェリドが隠居するにあたり、世話の為についていくと真っ先に手を挙げたロータスをはじめ、事情を知った素朴な領民などは、ジェリドのそれまでの貢献に対して、あまりにもひどい仕打ちだと憤ってくれ、収穫した作物や肉などを屋敷に持ち込み、なにくれとなく世話を焼いてくれた。ジェリドには、それだけで十分だった。それだけで、報われたと心が満たされた。 「ぐっ・・・・・・ぁ、はぁっ・・・・・・!」 腹の中を押し潰されるような息苦しさに、ジェリドは窓枠に爪を立てて大きく喘いだ。右半身は石のように重く、感覚が鈍い。斑に灰色になった右腕が肩から崩れ落ちたのは先月の事で、同じような状態の脚が崩れるより前に、腐った内臓のせいで死ぬ予感がある。 (くそっ・・・・・・) 死ぬことは決定事項であるから、恐怖はない。だが、それまでの苦痛まで受け入れるほど、狂ってはいない。 (あの馬鹿者が・・・・・・) ジェリドにかけられた呪いを解くべく、東奔西走しているライナスの手紙には、いつも謝罪とジェリドの身を案じる文が入っている。そして、自分が今どのあたりにいるのか、も。 ―― 先の戦いで勝ったエルフィンターク王国だが、旧ディアネスト王国が瘴気まみれになって困っているそうだ。せっかく領土を広げたのにな。 軽い皮肉に隠しておいて、その国境に行くつもりなのだろう。瘴気を浄化できるような聖職者がいるかもしれない。ジェリドにかけられた呪いも解いてくれるかもしれない、と。 (エルフィンタークと、ディアネストとの国境か・・・・・・ずいぶん、遠い・・・・・・) ライナスの次の手紙は、もう読めないかもしれない。 ジェリドはぐらぐらと揺れて思考が零れ落ちていく頭に苦労しながら、吐き気を堪えてベッドに戻ろうとした。 「ぁ・・・・・・」 視界が急速に傾き、ガランと杖が床に転がる。床に体を打ち付けた痛みよりも、より広い面積が自分を支えてくれている安堵の方が大きい。 「坊ちゃま!」 「さ、わ、るな・・・・・・!!」 ガチャガチャンと茶器をテーブルに置く音に続いて、ロータスの足音が床から響いてくる。 「さわ、るん、じゃ、ない、ろー、たす!・・・・・・つえ、ひ、ろ・・・・・・って」 「・・・・・・はい、坊ちゃま」 ろれつが回らないし、少しでも頭を動かすと吐き気がするが、自分で起き上がらなければならない。 「っ・・・・・・」 ジェリドは床板に爪を立て、這いつくばったまま、ベッドの足元まで体を引きずった。呼吸を整え、シーツを掴んで体を起こせば、あとは脚を寄せてよじ登るだけだ。 「っはふぅ・・・・・・」 全身で床掃除したせいで汚れた服を脱ぎすて、楽な格好で横たわる。もしかしたら、もうベッドからは出られないかもしれない。 「坊ちゃま・・・・・・」 「すこし、やすむ」 深々と下げられた白髪頭が部屋を出ていく気配を最後に、ジェリドは外界の情報を遮断して、眠りに身を任せた。 (あの馬鹿に関わると、ろくなことがない) じわりじわりと自分に牙を喰い込ませてくる呪いを、ジェリドは冷ややかに眺め、そして無視をした。 |