幕間 ある論文がもたらした未来


 エルフィンターク王国近衛騎士団に所属しているジョーダン・ベルモンドは、非番のその日、王城にある寮の自分の部屋から、借りていた本を持って図書館に向かって歩いていた。
 王城にある図書館は、もちろん王族が利用するものではあるが、同時に王城で働く貴族たちにも提供されていた。つまり、いまジョーダンが向かっているのは、機密書庫ではなく、ごく一般的な書籍が収められた場所である。
 とはいえ、庶民が使える図書館など限られている。自由に本を読んで教養を高められるのは、ほぼ貴族の特権と言ってよいだろう。
「ん?」
 寮から練兵場に差し掛かった時、近衛騎士団の執務棟から出てくる赤毛の少女を見つけた。もちろん、こんな所に庶民が出入りできるわけもなく、侍女の服装をしていたとしても貴族の子女である。
 そしてジョーダンが見た少女が着ているのは侍女服ではなく、きちんとした昼間外出用のドレスだった。しかも、よく見知った顔である。
「ガルデア子爵令嬢?」
「あ……ベルモンド伯爵令息。ごきげんよう」
 軽く膝を曲げて会釈を返してきたのは、幼馴染ともいえる友人の妹だった。兄のエミールとは同期でもあり、同じ近衛騎士団の寮に住んでいる。
「いつもの砕けた口調と、ジョーダンでかまいませんよ。エミールに会いに来た……わけじゃなさそうですね」
「ええ……」
 強張った笑顔のガルデア子爵令嬢ロビンは、そのまま立ち去ろうとしていた。いままでのジョーダンなら、何と言っていいかわからず、そのまま行かせただろう。
「待ってください」
「……なんですか」
 ほっそりとした体形の彼女は、女だてらに騎士を目指しているが、体質的な問題か、重鎧を着て剣をふるえるような筋肉がつかなかった。
 騎士家系であるのに体が作れず、さらに婚約を予定していた相手とは破局したらしい。自分の夢もかなわず、親の期待にも応えられない事を気に病んでいるようだと、エミールがぼやいていた。
「ガルデア子爵令嬢も、聖者殿にお会いしたと聞き及んでおります。私もエマントロリアでお姿を拝見したのです。……少し、お話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」
「え、はい」
 意外な話題を振られたためか、思わずうなずいてしまった様子のロビンをエスコートして、ジョーダンは庭園のベンチに座らせた。真夏の間は比較的大人しかった薔薇が、秋の訪れを歓迎して咲き誇り、辺りには甘い香りが満ちている。
「デンゼリンでのことは聞いております。私はルシウス殿下の命を受けた上官と一緒に、エマントロリアに行ったのです。そこで……奇跡のような体験をしました」
 唐突に現れた威を纏う存在、一瞬で女性神殿騎士たちの傷が癒えたこと、エマントロリア遺構をダンジョンに作り変えてしまったこと、身分問わず浄化魔法を広めたこと、巨大な鉄塊を粉々に砕いたこと……。
 そんなことを他人に話したとして、頭がおかしくなったのかと言われるに相違ないが、同じ人物に会ったことのあるロビンならば、理解してくれると思ったのだ。彼女はデンゼリンにて、学友のトゥルネソル侯爵令嬢たちと共に、あの銀髪の男と言葉を交わしたと、ジョーダンは聞いていた。
 そしてジョーダンが思っていたとおり、ロビンも興奮に頬を染めて、何度も大きく頷いた。
「すごい! そんなことがあったのね! うん、あの美しいお方はとても……なんと言うか、偉業を為されるのに、とても謙虚なんです。信じられないほどに!」
「ええ! そう、そうなのです!」
 数々の奇跡や偉業を、自ら声高に喧伝することなく、力なき者のために正義を貫く姿勢は、まさに聖者と称えるに相応しい。
「あの方のように、とはいかずとも、せめて驕らない行動を心がけようと……ああ、いや、何を言っているんだ私は。すみません」
「いいえ。そのお気持ちは、よくわかります」
 いまだに丁寧な言葉遣いは怪しいものの、年相応に淑女になった幼馴染を前に、なにを暑苦しく語っているのかと顔が火を噴くような熱さになったが、ロビンはむしろ前のめりになって両拳を握っている。
「ジョーダン卿は、聖者様に付き従っている聖騎士殿をご覧になられました?」
「ええ、もちろん」
 濃藍の繊細な縁取りがされた、見たこともない白銀の鎧を纏った逞しい聖騎士は、元神殿騎士団第八大隊隊長アイザック・ガウリーであると、現大隊長マクシム・ヴィクスが証言していた。聖者の護衛として、これ以上ない人間だとも。
「……憧れるなぁ」
 ロビンが憧れているのは、主人を護るという立場だ。
「貴女も、夜会などでトゥルネソル侯爵令嬢の護衛をされているではありませんか」
「……もう、無理かもしれません」
 俯いた顔は唇を噛みしめ、握りしめていた拳は、いまはスカートの上に落ちている。
「ルシウス殿下が、トゥルネソル侯爵家に使いを出したのを、知っていますか?」
「ああ。ルトー公爵が茶飲み訪問を装って、直々に向かわれたそうですね」
 つまり、内々での婚約の打診だ。この件を知っている者は、双方に親しい、ごく少数にとどまっている。もしかしたら、宰相も知らないのではないだろうか。
 オフィーリアもロビンと同じように、近年になって婚約解消していたらしい。それを知った、現在は弟に替わって王太子となったルシウスが、結婚の申し込みをしたらしい。
(たしかに、トゥルネソル侯爵令嬢ならば、将来の王妃に相応しい)
 ルシウスとは少し年が離れているが、家格も本人の資質も問題なく、また最近の交流から、互いに憎からず思うようになっているらしいのが、一番喜ばしいことだ。
 ただそうなると、オフィーリアの護衛は近衛騎士団か、王国騎士団の女性騎士になる。能力の問題ではなく、法律や慣例の問題で、ロビンはどうしてもお役御免になってしまうのだ。
「それで、近衛騎士団の執務棟に……団長とお話に?」
「はい。でもやはり、私は近衛騎士としては力不足だと」
 近衛騎士団は、日常の警護の他に、儀式や式典の時に、重い鎧を着て数時間立ちっぱなしや、装飾夥多な完全装備で大きな軍馬に乗るなど、かなり過酷なことをしなければならない。瞬発力や索敵能力には優れているが、最低限の装備で静かに動くことが得意なロビンでは、純粋な筋力や体力が足りないのだ。
「いっそのこと、家を出て、本職の冒険者になろうかとも考えています。サルヴィア様のおかげで、わたくしでもパーティーの役に立つように育てていただきましたから」
 それは有名な話だった。サルヴィア・アレネース・ブランヴェリ公爵代行が王立高等学院に在学中、仲の良い貴族の子女を連れて魔獣狩りや盗賊討伐をおこない、王都周辺地域の安全維持に貢献していたという。
 ロビンもサルヴィアに鍛えられた一人だ。高位貴族の護衛を志すロビンの長所を伸ばし、いまや前線の熟練兵士顔負けの斥候スカウトになっている。男勝りが過ぎて結婚相手を探せない子爵令嬢という身分を捨て、危険と隣り合わせの冒険者生活になったとしても、身を立てていくことができるだろう。
(でも……)
 ジョーダンは手に持った本の表紙を指先で撫で、ロビンの悲壮な決意に唇を噛んだ。
 貴族の身分は、そうそう得られるものではない。一度籍を抜けてしまえば、想像を絶する平民生活が待っているのだ。子爵令嬢として育ったロビンが、日常の端々において、多大なストレスを抱えることは目に見えていた。
「そのお話ですが、少し待っていただいても?」
「え?」
 動きやすい格好を好むロビンだが、こうして貴族令嬢らしく着飾った服装でも、動作にしなやかさが失われないことを、ジョーダンは知っている。
「……現在は、王族の方々の護衛は近衛騎士団だけが担っておりますが、過去には例外がありました。それは、猟犬やペットの世話係だったり、詩の朗読係だったり、庭師や一介のメイドであったりしたこともあります。これは他国によっては、普通のことでもあるそうです」
 目を丸くしたロビンが、ジョーダンを見上げている。
「近衛騎士では、目立ちすぎるのです。貴族籍を持った貴女であれば、将来の王妃殿下のおそばに侍り、お役に立てるのではありませんか?」
 囁くように伝えると、新緑色の目に、大きな水玉が浮き上がってきた。
「っ……わ、わたくしは……」
「もちろん、近衛騎士への憧れは、重々承知しております。私がそうでしたから。ですが、何が一番大事な望みか、貴女が為したいことは何なのか。手段と目的を切り離して考えても良いのなら、方法はあるのではないでしょうか。私からも、団長に進言させていただきます」
 ぽろぽろと零れ落ちる涙を手で拭うロビンにハンカチを差し出し、今日は髪飾りで盛られている赤毛をそっと撫でた。
「貴女の夢を諦めないでください、ロビン」
 「おにいたまのおともだち」の立場を駆使して、騎士ごっこをしていた子供の頃のように名前で呼ぶ。ジョーダンも、ロビンは妹のように大事に思ってきた。
「すみません、わたくしったら……こんな、みっともない」
「気にしないでください。ずっと、一人で悩んでいたのでしょう?」
 彼女はもう学院の最終学年だ。来年の春からの進路は、もう決まっている者の方が多いだろう。
 やがて気分が落ち着くと、ロビンは彼女らしい晴れやかな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。父やオフィーリア様に相談してみます」
「それがいいでしょう。応援していますよ」
「はい」
 それからジョーダンは、ロビンを城門近くまで送っていった。
「申し訳ありません。学生寮までお送りしたかったのですが、城外持ち出し不可の書籍を持ったままでして……」
「そんなにお気を使わないでください。話を聞いていただけただけでなく、馬車まで送っていただいて、十分です。わたくしこそ……図書館に行かれる途中でしたのでしょう? ジョーダン卿は近衛騎士になっても、勉学に熱心でいらっしゃいます」
 ロビンは慌てるが、ロビンを呼び止めたのはジョーダンの方だ。笑って首を振る。
「実は、司書殿にコッソリ貸してもらった発禁本なのです。大神殿に所属しない聖者殿のことを私が気にしていたら、こういう本もあるよと……。ディアネスト王国にいた、ワンの称号を持つ高名な神官が書いたものですが、大神殿によって発禁処分になったそうです」
「まあ!」
「たしかに、十年以上前の本にしては大胆で先進的な考え方ではありますが、柔軟性に富みながら神官として伝統を重んじる、良書だと思うのですが……大神殿としては、気に入らなかったのでしょうね」
 この本を読んでいなければ、ジョーダンもロビンに近衛騎士か冒険者以外の道を示してあげることはできなかっただろう。
「ジョーダン卿、お時間がある時に、また我が家へいらしてください。父や兄も喜びましょう」
「ありがとうございます。ええ、ぜひ」
 ロビンが乗ったガルデア子爵家の馬車を見送ると、ジョーダンは今度こそ図書館に向かって歩きだした。


―― 多様性とは、生存戦略として自然界には当然のことであるが、こと人間社会に落とし込んだ場合、それぞれが寛容であることが大前提になる。これは非常に悲しむべきことである。人々は己に正義を見るために、秩序を越えて、無意識に不寛容であると言わざるをえないからだ。
―― 誰かが自分とは違う何かを信じても、それを尊重する敬意と寛容さがない限り、人間社会は硬直と縮小を繰り返すことになるだろう。高効率や低費用、あるいは強者の施しといった美名のもとで、今ある大切な物を捨てさせてはならない。それは可能性の減少、思考の固定化に他ならない。
―― 偉大なる神々の威は、時に人間には困難をもたらす。しかし同時に、地を這いまわる人間に拙い信仰を許すほど寛容でもある。人間が神々に対して不寛容になるなど、冒涜以外のなにものでもないであろう。
―― 私は神々を信仰するが、私以外の人間には、信仰しない自由もあり、同時に信仰する自由もある。それを認めたうえで、余人に頼らない、私自身の信仰のみを神に捧げることが、私の信仰者としての矜持である。

               『多様信仰論』    著/サイ=ワン