幕間 ある父親の貴族業


 シルヴェストレ・ドナト・フライゼルは、不運の重なりで長男を跡取りから廃さなければならなくなった時、はらわたが煮えくり返るような怒りを押し込めて、表面上は冷静を保つことに成功していた。跡取りにできる息子はまだいたし、なにより廃嫡される当事者が弟を推挙して、自分は死ぬまでの短い間を隠棲すると言ってきたからだ。
 死を覚悟した息子を前に、父親である自分が取り乱すわけにはいかなかった。
 同時に、自分が大神殿に多額の寄付をしたせいで息子が死ぬ運命のきっかけを作ったのだと嘆く妻を宥め、不祥事を隠したい大神殿とばつの悪い思いをしている国王を相手に、有利な落としどころを引き出させるための追及を緩めるわけにもいかず、その年の夏はとにかく忙しかった。
 だから、秋のある日、隠棲した長男に付き添った老家令から便りが届いた時は、息子が呪いに苦しんだ末に女神の元に旅立ったという報せだと思い込んだ。内容はまったくの逆で、死を待つしかなかった息子が、一命をとりとめたという事だったのだが。
(女神は我らをお見捨てにならなかったか)
 妻とは違って、シルヴェストレはそこまで信心深い人間ではなかったが、この時ばかりは女神アスヴァトルドに感謝をした。そして、息子を救った聖者と、そのバックにいるブランヴェリ公爵家について、どのような意図を持っているのかすぐに調べ始めた。

 シルヴェストレの長男であるジェリドは、父親から見ても飛びぬけて優秀な人間だった。なんでもそつなくこなす天才児、神童ともてはやされていたが、唯一の欠点は極端な合理主義、人心の機微を読むことが苦手で、礼節に不備はないものの、受け取り手によっては冷淡に見えることだった。
 乳兄弟のリオンを側近につけてやることで、その辺りはフォローされ、成長するにしたがってますます頭角を現すジェリドは、次期フライゼル侯爵家当主として申し分なかった。シルヴェストレも父親として鼻が高かったが、それを口に出して言う事はしなかった。当のジェリドが、出来ない方が不思議、という顔をするからだ。
(いくら天才とはいえ、足元をすくわれるきっかけは無数にある)
 文武に優れた息子だったが、仕事は好きでも人間に興味がないという困った奴で、人の使い方は上手くても、自分に対する悪意にやや鈍感だった。多少のことならば身を護れるという、実力に裏付けられた自信があったからに他ならない。
 だからこそ、シルヴェストレはジェリドに対し、より慎重に、より裏を考え、より多くの手段を揃えよと指導した。それが厳しさに繋がったとしても、やむを得ないと思っていた。
 聖女巡礼の護衛を命令された時は、面倒なことに巻き込まれたなと思ったが、ジェリドの力量でこなせない事ではないから、キャリアのひとつと考えれば、数ヶ月王都を離れたとしても問題なかった。
 それが、今生の別れになりかねないと知った時には、怒りでどうにかなってしまいそうだった。手塩にかけて育てた跡取りが、たった一人のくだらない嫉妬の犠牲になるなどと!
「では父上、お元気で。母上にも、よろしくお伝えください」
「うむ。・・・・・・お前を失うのは、本当に手痛い」
「申し訳ありません。どうぞ、トリアードに目をかけてやってください。のんびりした性格ですが、堅実で頭の良い子です」
「わかった。領地の事はフラビオに任せてある。適当な屋敷を用意しているはずだ」
「お手数をおかけいたしました」
 色とりどりの花が咲く季節の王都アタナスにて、あまりにあっさりした他人行儀な別れの会話だったが、他に言葉が出てこなかった。呪いのせいで、ジェリドには触れることさえできなかったのだ。
 息子が乗った馬車を見送り、それが最後の姿だと思っていたのだが、その年の冬には、息災である旨の直筆の手紙を魔境から送ってよこしてきた。
(まったく……。我が息子ながら、悪運の強い)
 目頭を押さえた自分の唇が歪んでいることを、シルヴェストレは自覚していた。人払いをした書斎で手紙を開いてよかったと、この時ほど思ったことはなかった。

 ジェリドを確保したブランヴェリ公爵家の意図は明白だ。元々一国であった広大な領地を治めるために、末は宰相かと嘱望されるほどの頭脳が欲しかったのだ。
 もちろん、シルヴェストレとしてもジェリドを隣国の公爵家に取られるのは、いい気はしないが、ジェリドを助けることができたのは自分たちではなくブランヴェリ公爵家だし、ジェリド自身もいまさらセントリオン王国に戻る方が、フライゼル侯爵家にとってデメリットが大きいと伝えてきていた。
(たしかにそうだろう)
 フライゼル侯爵家の跡取りは、すでにジェリドの弟のトリアードになっている。そこへ元跡取り筆頭候補のジェリドが戻ってきたら、シルヴェストレがいくら主導したとしても、親族や使用人を含めて動揺は必至。他の貴族家や王家からの横槍で、対外的な醜聞にまでなるかもしれない。余計なお家騒動に発展するくらいならば、外からフライゼル侯爵家のために働くべきだとジェリドは進言する。
(あいつは、身分に固執しないタイプだったからな)
 ジェリドは仕事をする上での権限は欲しいが、血筋による地位に対しては価値を重く感じない人間だった。そのせいで、貴族同士の付き合いに難があったのだが……。
「独占的な早期交易による繋がりか……ふむ」
 ジェリドが自分の無事を伝えると同時に実父に依頼してきたのは、信用のおける商会をいくつか紹介してほしいという内容だった。魔境と化したブランヴェリ公爵領では、高価な魔獣素材が大量に余っているが、難民や領民、冒険者への食糧や薬、洗剤や衣料品などの日用品が足りていなかった。ここにフライゼル侯爵家が一枚噛めば、莫大な利益を得ると同時に、息子を助けてくれたブランヴェリ公爵家に恩を返すことに繋がる。
「よかろう」
 シルヴェストレは希望売却品リストに並ぶ、希少すぎて値段が付くのかわからない特級品や珍品に頭痛を堪えつつも、匿名でオークションに出品したり、口の堅い商会を選んで紹介してやったりした。
 ただ、たった三日で領地の半年分に近い収益が出た時は、自分の正しい判断への満足とは裏腹に、胃が若干の精神的疲労を訴えたのは否めない。手数料だけでこの金額なのだから、ブランヴェリ公爵家の懐に入る金は計り知れない。
 もっとも、そのほとんどが、領地を再開発するための資金になるのだ。いくらあっても足りないだろう。
 やがてジェリドは、大神殿がメラーダ栽培に関わっているという情報を送ってきた。事実ならば、とんでもない大スキャンダルだが、同時に追求には最大限の慎重さを要する。下手をすれば、フライゼル侯爵家が貶められかねない。
(王家に投げるか)
 ジェリドを失うきっかけになった、大神殿と聖地アスヴァトルドに対しては、シルヴェストレはもちろん容赦するつもりはない。同時に、成す術もなく、責任も取らなかった王家に対しても、隔意があった。まとめて意趣返しをするのにちょうどいいだろう。
 シルヴェストレが慎重に国王や宰相に情報を流していると、それを後押しするかのように、ブランヴェリ公爵家がシャンディラを攻略したニュースが伝えられ、同時に大神殿のメラーダ栽培に関する醜聞も公表された。そこからは、セントリオン王家と聖地アスヴァトルドとの、盛大な殴り合いが始まった。シルヴェストレはそれを横目に、ジェリドとの情報交換を密にし、セントリオン王国内での地歩を固めていった。
 セントリオン王国内の混乱は、それだけではない。なにしろ、ブランヴェリ公爵領に難民が戻り、それに引きずられるように、多くの冒険者や商人、技術者が移動しているのだ。フライゼル侯爵領での優遇政策を抜かり無くせねば、あっという間に人材が流出しかねない。領兵が野盗対策などをしているとはいえ、冒険者の数が減れば、魔獣に対する戦力が不足するのだ。さいわい、ブランヴェリ公爵領との交易で、フライゼル侯爵家の懐は温かい。十分な対策をとることができた。
「父上、楽しそうですね」
「そう見えるか?」
「はい。兄上からのお手紙でしょう」
 ジェリドに替わって跡取りとなったトリアードは、まだ王立学院に通っている十九歳だ。自分の才能が兄の処理能力の半分以下しかない凡人だと自覚しているが、それを卑屈に思わず伸びようとしている。
(まあ、王子殿下たちから兄を化物呼ばわりされたら、ある意味吹っ切れるか)
 他人からの妬みに満ちた悪口よりも、不器用な肉親への親愛が勝ったのだ。素直な青年に育ったといえる。
「ブランヴェリ公爵代行の婚約者を、養子に迎えて欲しいと言ってきた。久しぶりに、領地で会うぞ」
「兄上にお会いできるのですね! 私も行きますからね。置いて行かないでくださいよ!」
「わかった、わかった」
 もう大人だというのに、子犬のようにはしゃぐトリアードを連れて領地の屋敷に戻り、シルヴェストレは養子手続きの準備に入った。
 王族や高位貴族が、結婚相手との身分差を埋めるために、親しい家に養子縁組を依頼することは珍しくない。今回はブランヴェリ公爵家との縁をより太く繋ぐために、フライゼル侯爵家としても願ってもない申し出だった。
(なにより、養女にする娘が、リューズィーの女神官というのが面白い)
 もちろん、養子とするからには、その素性や信用をよく考慮する必要があるが、アスヴァトルド教の大神殿に見放された家としては、水神リューズィーとの縁ができるのも一興というものだ。リューズィーの女神官を花嫁に迎えようという、ブランヴェリ公爵代行にも、いままで以上に興味が湧いた。
 シルヴェストレはブランヴェリ公爵代行サルヴィアを、中央から追放されても動じない、風変わりな人間だと思っているが、それ以上にやり手だという印象を持っていた。もちろん、魔境を平定した実績もさることながら、息子のジェリドや、魔境の瘴気を掃った聖者を従える、カリスマの持ち主であることは疑いもない。
 だが予想に反して、可憐な少女を連れて目の前に現れたのは、顔の造作は美しくとも、どこにでもいる物慣れない若者だった。久しぶりに顔を合わせた息子も、記憶にあるよりも、ずいぶん人間らしい表情をするようになっていて、シルヴェストレは少なからず驚いた。
「父上、世の中には、上には上がいるのだと、私は心より痛感いたしました。ブランヴェリ公爵領で働くことを了承していただき、深く御礼申し上げます」
「我らには手の施しようがなかったことは事実。お前の命を救ってくださった方に、身命をもって仕えるように。私からも厚く礼を申し上げたい。くれぐれも伝えよ」
「はっ。かしこまりました」
 当時、セントリオン王家に報われなかったフライゼル家の人間が、他国のブランヴェリ公爵に仕えるとややこしいことになるということで、ジェリドは自分の命を救ってくれた聖者に仕えている、という建前がある。実際は見ての通り、ブランヴェリ公爵代行の右腕に他ならない。
 トリアードとほとんど変わらない年齢のサルヴィアが、緊張しているのか公爵代行としては落ち着かない様子に、シルヴェストレが疑念の視線を向けるよりも早く、養女になる予定のキャロルが笑みを漏らした。
「サルヴィア様はいつものドレスではないので、緊張しているのですね」
「男装で公式に貴族の前に出るのは、もしかしてはじめてでしょうか」
「うっ……それを言うな」
 ジェリドにまで揶揄われて顔を赤くするサルヴィアが、事情があって赤子の時から女として育てられてきたというのは聞いていた。
「えっ、普段はドレスなのですか?」
「ええ、トリアード卿。サルヴィア様は、とってもお綺麗ですのよ。わたくしなど、足元にも及びませんわ」
「キャロルっ!」
「トリアード、見てみたいなどと言わないことだ。自分から相手を強化するなど、愚の極みだぞ」
「あ、兄上……」
 息子たちが牽制しあっていたものの、シルヴェストレの妻であるクレオが「見たい」と言ってしまったので、結局サルヴィアは普段のドレス姿を見せてくれた。そして、ジェリドが「相手を強化する」と言っていた意味がわかった。
「お目汚し失礼いたしますわ」
 ジェリドとキャロルが脇に避けて恭しく礼をする前を堂々と歩き、シルヴェストレたちの前で完璧なカーテシーを披露してのけたのは、エルフィンターク王国の若き華であり、魔境を平定した英雄であった。
「フライゼル侯爵におかれましては、この度、わたくしのキャロルを快く養女に迎えていただけるという事で、感謝の念に堪えません。どうぞこれからも、我がブランヴェリ公爵家と末永くお付き合いいただければ幸いにございます」
 にっこりとした笑顔に、シルヴェストレは彼が乗り越えてきた困難と、内包する強さを垣間見た気がした。
「感服いたした。貴方のような傑物の元であれば、息子も存分に力が揮えましょう。ジェリドもなかなかとは思っていましたが、これほどの人物とは」
「恐れ入ります。ですが、わたくしやジェリド卿などよりも、我が盟友である聖者の方が、よほど“おかしい”傑物ですわ」
「ええ、閣下のおっしゃるとおりですよ、父上。いまごろ、また我らには理解不能な偉業を為されていることかと……」
 サルヴィアとジェリドがそろってため息をつき、それをキャロルがにこにこと微笑ましく見守る画に、シルヴェストレは若さゆえの大袈裟だと思った。
 ……その後、噂の聖者が「新たなダンジョンを作った」「厄災神の一部を確保した」等、続けざまにもたらされる情報に、困惑することとも知らずに。