第十六幕・第六話 若村長と修羅の最期


 ゼガルノアは自前の翼で、俺はサンダーバードに吊り下げてもらい、戦いやすい場所を探して湖畔に近付いた。
「何か来るぞ」
「ああ」
 ゼガルノアが指摘したのは、ユユイの町からこちらへとやってくる、奇妙な人影たちのことだ。星明りだけではよくわからないが、ブクブクと太っているような体形で、グールのようなのろのろした動きだ。それが、湖畔の道いっぱいに広がりながら、少しずつ近付いている。
「サンダーバード、俺を下ろしたら、あいつらの相手を頼む。ガウリーと金鶏がいる車に近づけるな」
「コッコッ」
 草木が枯れて、なだらかな地面が剥き出しになっている浜辺を見つけた。
「ここに釣り上げる。リヒター、下がっていろ」
「わかった。サンダーバード、あの辺に下ろしてくれ」
 地面すれすれまで降下して俺を地面に投下すると、サンダーバードは再び羽搏いて夜空に戻っていった。俺が着陸のために転がって着いた土埃を払いながら立ち上がると、ゼガルノアはすでに湖の上を飛んでいた。
「たまらんな。酔いそうだ」
 歌っている女の感覚阻害のせいで、遠近感と平衡感覚が滅茶苦茶になり、辺りがぐにゃぐにゃして見える。澱んだ水と湿った水草の臭いが、余計に気持ち悪さを助長させてくる。俺は開けた場所から下がって枯れ木の幹を掴み、気合を入れて自分とゼガルノアにバフをかけた。
「……少しは、マシになったか?」
 バンクを繰り返しながら縦横に空中を飛ぶゼガルノアを梢越しに目で追うと、たしかに何かを避けているようだ。一瞬しか見えなかったが、ゼガルノアが言っていた触手だろう。
(かろうじて、触手が飛ばす水滴が見える。水流魔法を使えるおかげかな?)
 ゼガルノアも長剣か槍のような物を持って、触手を切り飛ばしているようだが、数が多い。なんとか援護できないか考える。
「……よし」
 俺はまず、すぐに漂いだす瘴気を掃い、普段は邪妖精に対抗させるアイアンメイデンたちを作り出した。
「攻撃はしなくていい。ゼガルノアの盾になって、触手を防ぐんだ」
 ふわりと飛んで行く光の乙女たちはデコイだ。あの女からの攻撃を逸らせることができれば、ゼガルノアが湖の下にいるものを釣り上げることができる。
 上手くいったのか、ゼガルノアがこちらをちらりと見た後、湖面すれすれにまで高度を落として飛翔する。そして、一瞬で跳ねあがった。

 ざっぱあぁぁぁぁ……!!

 雨のように落ちてくる水滴の向こうに現れた巨大な影に、俺は思わず顎が落ちそうなほど口を開いた。
「でっっっけぇ……!?!?!?」
 大きいのだろうなとは思っていたが、マクスケリスラクスという魔獣は、縦横奥行き合わせて巨大なワニガメだった。湖の上に出ていた小島に見えたものは、甲羅のでっぱりのひとつに過ぎなかった。
 前脚が浜辺に乗り上がる、ずしんという地響きのせいで、俺は足元をふらつかせて転びそうになった。
「山が動いているみたいだ……」
 あまりにも大きいので、全体が見えるように少し後ろに下がる。いや、少しでは足りない。あれに踏み潰されないように、もっと離れる必要があった。
 嘴のようにとがった大きな口が閉じようとする隙間を、ゼガルノアはすごいスピードですり抜ける。手に持っていた長剣のような物を振るうと、それは鞭のようにヒュンと長さを伸ばし、マクスケリスラクスの太い首に巻き付いた。そしてそのまま、ゼガルノア自身は巨体の下にもぐりこんでいく。

 グォォッグォァアアアァァァァ!!

「うえっ!?」
 マクスケリスラクスがもがいたように見えたのは一瞬で、その後の信じられない光景に、俺は目を疑った。号砲のような音と共に、いまだ湖面の下にあったマクスケリスラクスの下半身が宙に跳ね上がったのだ。そのまま半回転して、巨大なカメは腹を上にして転がる。じたばたと脚を動かしても、山脈のように尖った甲羅が自重で地面に突き刺さり、どうにもならない。
 湖面が大きく波打ち、直下型地震のような縦揺れに舌を噛みそうになりながら、俺は地面にしがみついていたが、同時に感覚阻害が薄れたのを感じていた。
「終わりだ」
 魔獣狩りが趣味な魔王によって、太い首がすぱーんと斬り落とされる。しばらくすれば、魔力の結晶であるドロップ品に変わるだろう。
 俺はすぐに、アイアンメイデンたちに指示を出した。
「いくら手足を引きちぎってもいい。あのクソを生かしてここに連れて来い!」
 感覚阻害が薄れたおかげで、湿った地面にべっちょりと広がっている、藻のような触手が見えた。本体はマクスケリスラクスの甲羅に半ば潰されていたが、まだ抵抗を諦めていないようだ。触手がしなる度に、乙女たちがバクンバクンと体を噛み合わせている。俺のところに持ってくるまでに、バラバラになってしまうかもしれないな。
「―、――♪」
 また歌声が聞こえてきて、俺の感覚が阻害されていく。視界が歪み、耳は歌声しか聞こえなくなる。
「―――♪」
 あの触手はけっこう強いらしく、打ち払われたり絞め潰されたりして、アイアンメイデンたちもだいぶ数を減らしたが、それでも女の残骸を咥えて戻ってきた。べちゃりと地面に投げ出された黒髪女の、腕や脚が奇妙に伸びたりくっついたりして見えるのは、俺に幻を見せるための補正だろう。広がったスカートがぺちゃんこなのは、甲羅に潰されて中身が存在しないからだ。
「――♪ ―――♪」
「必死だな。俺に効かないのが、そんなに不思議か?」
 俺は【空間収納】から、薪割り用に買ったハンドアックスを取り出した。
「お前の顔な、俺にはわからないんだよ。その記憶がないからな」
 実際、黒髪に見えるものも、長さが変わったり、ウエーブがかかったり茶髪になったりしている。だいたい女のように見えるが、たまに男のようにも見えた。
「『お前オマエ馬鹿だなぁバカダナァ』」
 その憐れむような嘲りは、幻の元になった者へか、それとも見せる幻の選択を誤った怪物に対してだろうか。
 両手で持って振り上げた斧を、俺は無感動に振り下ろした。

 ごしゃっ……、ごしゃっ……

 刃が刺さって割れた頭からから、色々なものが飛び出しても、俺は手を止めずに、斧を振り下ろした。

 ごしゃっ……、ごしゃっ……

 薪を割るというより、土を耕しているみたいな気分になってきた。それだけ、目の前でくたばったものが、地面と混ざりあってきていた。

 ごしゃっ……、ごしゃっ……

「リヒター様」

 ごしゃっ……

 もう一度斧を振り上げようとした俺の手を、ガウリーの手が包むように止めた。車で待っていろと言ったのに、いつの間に来たのだろう。
「リヒター様」
「はぁっ……、待っていろと、言ったはずだ」
「マジックバッグを取りに来たゼガルノア殿が、終わったから迎えに来いと」
 なるほど。ドロップ品が大きかったから、ノアのマジックバッグが必要だったのか。
「はぁっ、はぁぁ……へ、いぎっ、お、おれは……ッ、うぐっ、うぅっ」
「わかっています。あなたは、成し遂げられた」
「う、ううぅぅ……っ、ぅあぁあぁぁ……ッ!」
 斧から手を放し、膝をついて座り込んだ俺の口から出ているのは、俺じゃない人の慟哭だ。
「ぅああぁぁぁぁ……ッ、わあああぁぁぁ……!」
 子供のように泣いて、泣いて、息を吸い込もうとすると喉がひゅーひゅーと鳴って痛み、咽ながら喘ぐ胸が苦しかった。酸欠で頭がくらくらしたが、声を上げて泣けるのは今しかない。
「ひっく、はぁ……ふ、ぅああぁ……!」
 いままでに何度も感じた、自分の頭を壊してしまいそうな怒り、潰れそうな胸を掻きむしって空にしたとしても無くならない悲しみ、そういうものを全て含んだ、暗くて重い感情が、斧を振るうたびに解けていった。
 エマントロリアで夢に見た、一人ぼっちで荒野に立っているかのような虚しさ。それなのに、記憶を捨てても残っていた……理由すらわからないのに握りしめていた、渇きのような口惜しさ、激しい怒り、果てのない闘争心。それを、修羅になってしまった『彼』は、やっと、手放すことができたのだ。
「はぁ……っ、おれ、さ。……あの、ひとの……っ、あの人の、ひつぎに、なれたかなぁ……?」
 しゃっくりをしながらだから、何を言っているのか聞き取れないかもしれない。でも、俺の傍らに膝をついているガウリーには、わかったようだ。
「はい。間違いなく」
「ん……うんっ」
 もう目のまわりが腫れて、鼻水も出ているし、酷い顔になっていることはわかっていたが、それでもまだ、涙が溢れて止まらなかった。生きていた時に泣けなかったあの人の代わりに、俺がもうしばらく、泣いてあげようと思う。

 脱水を起こしかけるほどに泣けば、さすがに疲れてしまい、泣き止んで立って歩こうにもふらつく俺は、大きくなった金鶏の上に荷物のように載せられていた。
「すみません、もう少しだけ我慢してください」
「俺は、ガウリーの騎乗スキルの高さが、羨ましい」
 軍馬ほどの大きさになった金鶏に騎乗したガウリーの前、金鶏にすると肩のあたりに、俺はうつ伏せに置かれている。一応、またがってはいるが、力が入らなくて、ガウリーの両腕に挟まれて支えられているような状態だ。
 鞍や手綱もないのに、なんでガウリーは金鶏に乗れるんだろうな?
「コッケッ」
「そうか」
「金鶏は、なんと?」
「ノアやガウリーなら、いつでも乗っていいってさ」
「ありがとうございます、金鶏」
「コッコッ」
 たったかたったかと、金鶏は軽快に道を走り、俺たちのキャンプ地まで戻ってきた。ゼガルノアとサンダーバードは、先に戻ってきていたようだ。
「片付けは明るくなってからでいいだろう。もう休め」
「うん、そうする」
 湖の水をかぶっていた俺はもう一度シャワーを浴び、涙で失った水分を補給してから、ゼガルノアに言われるままにベッドに飛び込んだ。