第十六幕・第五話 若村長と水底に呼ぶ歌声
食後の片付けを終えると、俺はソファに座って『ホームキャリッジ』のマニュアルを見ているガウリーに声をかけた。
「読めないだろ?」 「ええ。これが、リヒター様達がいた世界の言葉ですか」 「ああ」 日本語で書かれたマニュアルは、転生者にしか読めない。メロディの【十連ガチャ】産に間違いない。 「食事の準備までリヒター様にしていただいていますし、私も運転できればと思ったのですが……」 「教えるぞ。この世界には、道交法も免許もないしな」 「よろしいのですか」 どうせ、人のいる所で、この目立つ車は乗りまわせないんだ。広い場所で練習すれば、すぐに覚えるだろう。 (最悪、脱輪やスタックしても、【空間収納】に入れて脱出できるし) スピードの出し過ぎで横転しないよう、ちゃんと教えるつもりだ。それに、俺を乗せているのだから、ガウリーは無謀な運転をしないだろう。 「人里近くで運転するなら歩行者に注意が必要だけど、いまなら飛び出してくるのは魔獣ぐらいか。馬車の運転ができるなら、まわりへの注意もできるだろ」 「はい」 しかし、魔獣か……。 「あの……ノアが持ってきたやつだが……」 「はい……」 あの、巨大化したゴカイだ。アレは魔石を持った魔獣ではない。 なお、アレを持ってきたノアは、ゼガルノアサイズのまま、コッケ達と一緒に奥のベッドスペースで爆睡している。自由だな……。 「普通、瘴気に当てられた生物は死んでしまう。それなのに、どうしてあいつらは生きたまま、それも巨大化したんだろうな?」 「わかりません。むしろ、ミリア様の分野ではないでしょうか」 「あー……」 鳥オタクなフィラルド様の婚約者であるミリア嬢は、野生動物の研究者だ。水辺の生物は専門外かもしれないが、過去に似たような例があったか知っているかもしれない。 「そうだな、シャンディラに帰ったら、意見を聞いてみよう。餌があのサイズになったのなら、湖の中の魚も、どうなっているか分かったもんじゃないからな」 「たしかに。船を出すどころか、うかつに近づけないかもしれません」 シャンディラ王宮の堀に、怪魚がいたくらいだしな。そういえばあの怪魚も、ドロップ品になるダンジョン産ではなかったな。瘴気で死なずに特殊変異した生物も、探せばけっこういるのかもしれない。 「まあ、調査は追々。他の人でもできるからな。明日は他の湖もまわって、粘土採掘場の方に行ってみよう。浄化が最優先だ」 「わかりました」 「ほら、シャワー使ってこい。この車も、夜の見張りはいらないからな。しっかり寝とけ」 「はい」 バンガローやロッジのような、ステルス機能や噴石に耐える様な頑丈さはないが、このキャンピングカーにも夜間警戒モードというのが搭載されている。見張りを立てなくても安心して眠れるのはありがたい。 「おやすみ」 「おやすみなさいませ」 昼間はまだ暑いが、避暑地というだけあって、夜になるとそれなりに涼しい。空調なしでも、寝苦しい事はないだろう。 短い夢を見たような気がしたが、揺すり起こされた俺はすぐに忘れてしまった。 「リヒター」 「ん……どした?」 俺を起こしたのはゼガルノアだった。車の中は暗い。 「ガウリーが変だ」 「なに?」 起き上がって見回すと、二段になったベッドスペースで、俺の隣で寝ていたはずのガウリーの姿がなかった。 「一人で外に出ていった。足止めをしているが、我の声が聞こえていないみたいだ」 どういうことだ、と俺が言う前に、ゼガルノアは身をひるがえしてキャンピングカーから出てく。俺も車内の灯りを点けて、慌てて後を追いかけた。 「ゼガルノア、ガウリー。いったいなにが……」 その瞬間、俺は愕然とした。昼間、綺麗に浄化したはずなのに、辺りには瘴気がたちこめていたのだ。 「っ……カタルシス!」 瘴気を吸い込まないように魔力を練り、湖の反対岸まで、なんとか届かせる。もう必要ないかと思って、手持ちを使い切った後に浄化玉を補充しなかったのが悔やまれる。俺よりも、浄化魔法が使えない人たちが使うようにしてもらっていたんだ。 車の外は星明りだけで、真っ暗な地面の向こうに、チラチラと湖面の反射が見えた。虫の声もしない、しんと静まり返った中で、夜闇よりも暗いものに両手足を掴まれて、這いつくばった地面でもがいている、ガサガサとした音がする。 「ガウリー?」 ガウリーは何か呟きながら、懸命に前へ進もうとしている。 「どうしたんだ、しっかりしろ、ガウリー!」 「たぶん、精神干渉を受けている」 「それなら……マイティーガード! ブレス!」 「……ぁ」 「大丈夫か、ガウリー?」 休むための軽装で、靴も履かずに外に出ていたガウリーは、呆然とした様子で俺とゼガルノアを見上げている。 「わたし、は……」 「うむ、正気に戻ったな」 「よかった。誰かに呼ばれでもしたか?」 「え、はい。妻に……」 「「妻?」」 俺とゼガルノアが、思わず顔を見合わせる。ガウリーの奥さんって、たしか何年も前に、事故で亡くなっているんじゃなかったか。 「厄介なものが棲み付いているようだな」 「逃げられるか?」 「わからん。どこにいるのか、それがわかれば……」 夜間ドライブもできなくはないが、何処に敵がいるのかわからないのでは、危険すぎる。元来た道を戻るにしても、あの異様に生臭いユユイの町を通り抜けなくてはいけないのだ。 「うっ……」 「ガウリー……!」 ゼガルノアの魔法の拘束を解かれても、地面に座り込んだままのガウリーだったが、今度は両耳を塞いで身をよじり始めた。 「ガウリーの精神力とリヒターのバフを突き抜けるだと……? リヒター、あそこだ!」 鋭く視線を巡らせたゼガルノアが示したのは、ユユイ湖の中だった。不自然にさざ波が立ち、水面の下から、なにかが出てくる。 「!?」 こんなに暗いのに、そこまでは遠いのに、その姿ははっきりと見えた。湖の真ん中に浮かんだ、小島の上に座った女。瘴気は湖面から靄のように立ち上っていて、間違いなくそいつが操っている。 「ヴィオラ……! ちがう、ちがう! あいつは、もういないはずだ!」 「ガウリー……」 湖に現れた女を見て、ガウリーは必死で否定する。俺のバフが多少は効いているようで、あれが奥さんじゃないとはわかっている。 「―――♪」 その女の奇妙な歌声に合わせて、ごふごふというような低い声が、ユユイの町の方から折り重なる呪詛のように響いてくる。状況は確実に不味くなっている。 (ああ) だがなにより、覚えのあるこの怒り、それを凌ぐ、殺意と言っていい激情が、俺の胸から首の後ろを覆うように黒く燃え上がっていく。俺はそれを、冷静に捉えていた。 「コロス」 「リヒター?」 ゼガルノアがぎょっとしたように俺を見下ろしてきたが、俺は正気だ。 「うるさいぞ……黙れ!」 スタッフオブセレマを構え、裂帛の気合で呪詛阻害をぶつけたつもりだったが、距離が離れすぎているのか、弾かれた。 「くそっ」 「リヒター、あれは呪詛じゃなくて、たぶん魔呪歌だ。レノレノの歌に近い」 「うっわ、そんなに複雑なの、喉潰すしかないじゃん」 「いきなり物理に訴えたな」 ゼガルノアに呆れられた。俺は感覚でばっかりやっているから、高度なことはできませんー。 いまはそんなことよりも、ガウリーの方が心配だ。 「ガウリー、奥さんは黒髪だったか?」 「い、いいえ……っ。金髪です。私よりも、濃い色の」 「ということは、俺とガウリーでは、見えているものが違う。ゼガルノアには、あれはなんに見える?」 「藻の塊だ。触手が生えているが」 「つまり、俺にも幻覚が見えている」 「なんだと?」 「精神攻撃は防げているが、五感自体は影響を受けているみたいだ。距離感もおかしい」 俺たちはガウリーに肩を貸して立たせると、キャンピングカーの中へ連れて行った。 この『ホームキャリッジ』には、シェルターモードがあったはずだ。物理的な衝撃や熱、あるいは電磁波や放射線をシャットアウトできたとしても、あの魔呪歌を防ぎきれるとは思えない。だけど、少しでも不測の攻撃に備えたい。俺はマニュアルを片手に、運転席でコンソールを操作した。 「……よし。ガウリー、辛いだろうが、ここで金鶏と待っていてくれ。金鶏、ガウリーがここから出そうになったら、怪我をしない程度に止めろ」 「コケッ」 「ッ……、わかりました」 俺の盾を自任するガウリーにとって、待機命令は身を切られるより辛いだろう。だが、足手まといだとわかっていて、一緒に行くとは言えない。 「上に乗っていたアレは、 「マジか。そりゃアカンわ」 ゼガルノアの保証に、俺は唖然となったが、ガウリーも納得してくれたようだ。 受肉していたとはいえ、神族のエイェルに通用するような感覚阻害・精神攻撃を、完全耐性がある俺ならばともかく、普通の人間であるガウリーが防ぎきれるはずがない。 「ん? 上に乗っている?」 たしかに、あの女は小島のような所に座っていたが……。視線でゼガルノアに説明を促すと、なんでもない事のように教えてくれた。 「湖に潜っているのは、マクスケリスラクスだろう。キングヒポポタンク並みのレアだ。ドロップ品を取得するためには少々コツがいるが、我になら可能だ」 「嬉しそうに言うな。まあ、それじゃあ、そっちは任せる」 「よかろう。我が釣り上げるのを待ってから、リヒターは攻撃に入れ。そうでないと、水に潜られる」 魔王様は鷹揚に頷いて、作戦を指示してきた。たしかに、水中への攻撃は難しいな。 「わかった。そちらの合図に従う。……ガウリーは絶対に俺が護るし、思い出を弄ぶようなクソは、俺が倒す。ここで待っていろ」 「はい」 ガウリーと金鶏をキャンピングカーの中に残し、俺とゼガルノアとサンダーバードは外へと飛び出して行った。 |