幕間 ある分隊長の心労と直感
クラリス・グードは、心底困惑していた。
どうしてこんなことになったのか、自分はどうするべきなのか、疲れた頭ではなにも思い浮かばない。 「分隊長……!」 「大丈夫。心配しないで」 投げつけられた扇が当たった額から、血が滲んでいたようだ。少し腫れているようだが、傷はもう乾いていたらしく、ハンカチにはかさぶたの粉が付いただけだった。 「洗ってくるわ。みんなには、シフトの変更は無い、と伝えておいて」 「了解しました」 ロイデム大神殿の中にある寄宿舎のうち、現在は丸々一棟を女性騎士が使っていた。普段なら、女神官たちの寄宿舎に間借りさせてもらうのだが、昨年の魔境遠征失敗の影響で、神官や神殿騎士の総数が減ってしまい、手薄になった地方をカバーするために、第一から第三大隊からも人が出ていっているのだ。 (花形の部隊から転籍させられたら、不満は多そうね) 大神殿の中でも権力争いや人気の部署というものがあり、王都ロイデムから動かない第一から第三の大隊は、特に有力な後ろ盾のある者が配置されがちだった。 (とはいえ、この状況では、どちらがマシかなんてわからないわ) ディアネスト王国のシャンディラ大神殿が、ご禁制植物メラーダの栽培に手を出していたことはすでに知れ渡っている。セントリオン王国の聖地アスヴァトルドやアタナス大神殿と同じく、ここロイデム大神殿でも関わりは無いと発表されているが、まったく信用されず、各国政府からの追及が厳しくなっている。 もちろん、クラリスも自分が所属する組織に対して、大いに不信感があった。というのも、上層部に都合の悪い人間が、いつの間にか消えているという事は、以前からまことしやかに囁かれていたし、近年では第八大隊の隊長が、職分を剥奪されたうえで魔境調査に向かわされ、行方不明になっている。 噂では、魔境を浄化している神聖魔法使いに付き従う聖騎士が、行方不明になっているガウリー元大隊長だとされているが、それを確かめた者はこの地にいない。大神殿上層部などは、巷で聖者と称えられる、その神聖魔法使いを目の敵にしており、かの者に付き従う聖騎士がガウリーであるならば、大神殿に対する背信行為だと断じてさえいる。 (自分たちに都合のいいようにしか言っていないのでしょう。仮にガウリー大隊長が追放されていたのならば、彼を救ったのだろう聖者に付き従って当然でしょうに) 普段からエマントロリア遺構でアンデッドと戦っている第八大隊の隊長ですら帰ってこられず、さらに千人からの神殿騎士と神官で編成された遠征隊も壊滅した。そんな魔境を、たった一人の神聖魔法使いが浄化し、ブランヴェリ公爵家に旧王都シャンディラ攻略を成し遂げさせたという。にわかには信じがたいが、これは厳然たる事実だ。そうでなければ、日々活発になるブランヴェリ公爵領との交易や、人員の移動に説明がつかない。 (大神殿の権威も信頼も、地に落ちたわ) 井戸から汲み上げた水で顔を洗い、額を冷やす。触ると少し痛むが、問題ない。傷も金具が当たったせいだろう。運が悪かったのだ。 いま大神殿に残っている神殿騎士たちがやるべきことは、民から失われた大神殿の信頼を回復させ、信仰が揺るがぬようにすることだ。民からどんなに蔑んだ目を向けられようとも、信仰を胸に、粛々と職務に精励しなくてはならない。 (民……そうね、一般の人達なら、その気持ちはわかるわ。耐えられる) だが、いまクラリスが直面している問題は、あまりにも不毛だった。 (あれが、聖女と言えるの……?) 憎々し気に扇を投げつけてきた少女を思い出し、クラリスはため息をついた。聖女としても疑問だが、そもそもああいうタイプとは初めての遭遇で、クラリスはどう接していいのかわからなかった。 クラリスは、第一大隊内の女性神殿騎士小隊に所属している。神殿騎士になってからは、訓練期間を除いて、ずっと大聖女クレメンティアの荘園で過ごしてきた。長閑な荘園には、王都と違って流行の服飾や甘い菓子はなかったが、元々血統を重んじる保守的な家族と折り合いが悪かったクラリスには、ちょうどいい環境だった。 順調にキャリアを積んで、いつしか年長者として副隊長を任されるようになった。後輩たちの指導にも戸惑うことがなくなってきたこの頃、新たな聖女付として、ロイデム大神殿に召還された。分隊長という扱いだが、大神殿上層部は明らかに、クレメンティアよりも、この新しい聖女を重要視していた。 次代を担う聖女であるならば、その重要性はクラリスにも理解できる。長年の功績があるクレメンティアには十分な敬意を払いつつも、若い聖女にしっかりとした護衛を付けたいと思うだろう。 (でも……) クラリスには、あのマーガレッタという少女が聖女だとは思えなかった。 神の声を聞いたという彼女は、たしかにただならぬ魅力を持っているようだった。王太子アドルファスの婚約者であり、国王グレアムからも可愛がられているという。社交界でも、彼女の味方は多いそうだ。 (クレメンティア様と比べてはいけないとは思うけれど……) それでも、信仰心、謙虚さ、奉仕の精神、慈悲深さ、どれをとっても、聖職者には程遠い。たしかに、マーガレッタは神託を受けたから聖女だと扱われているだけで、聖職者ではないのだけれど……。 「っ……」 前髪から滴る水滴を払おうとして傷に触れてしまい、クラリスは痛みに顔をしかめた。同時に思い出される腹立たしさや不快感からの、表情筋の動きをそれで誤魔化す。護衛を任された神殿騎士が、聖女に対してしていい表情ではない。 (こんなことではダメね) 夜間は閉ざされる大礼拝堂とは別に、寄宿舎の傍には小さな礼拝堂がある。クラリスはそこで、女神アスヴァトルドの像に向かって跪き、祈りをささげた。この迷いと疑念が晴れ、己が行くべき道が示されるように。 エマントロリア遺構への遠征を、王太子アドルファス主導で王国騎士団が計画すれば、芋ずる式に聖女マーガレッタが随行することになるのは、必然と言っていい。大神殿にとってみれば、エマントロリア遺構は自分たちが管理している場所であり、その領分を犯されることに反発するのは当たり前だ。 ここで、それぞれの思惑がぶつかることになる。 アドルファス王子は、王太子として箔を付けたいが、随行員は少なめがいい。護衛の騎士が多すぎると、王子の実力ではないと思われかねないからだ。もちろん、マーガレッタが付いてきてくれたら嬉しいが、自分の男らしさを証明するためにも、王都で待っていてもらうのが望ましい。 王国騎士団としては、護衛対象である王太子に危険は犯せられないし、エマントロリアは大神殿の管轄、しかも無傷の第八大隊が駐屯しているので、十分な戦力を揃えていきたい。正直言って足手まといな王太子と聖女は、王都に置いていきたい。 マーガレッタは聖女としての名声は欲しいが、それは楽に手に入れたいし、王都からも離れたくない。見目のいい男の近衛騎士はいいが、女の騎士が自分のまわりをうろつくのは、絶対に嫌。 大神殿は、これ以上威信を傷つけられることに耐えられない。エマントロリア遺構に王国騎士団を立ち入らせたくないが、王太子ひいては国王に逆らうのは得策ではない。マーガレッタに対しては、聖女だと認めてやったのだから、王太子妃候補とはいえ大神殿の指示に従うべきで、護衛という名の監視役として女性神殿騎士を受け入れさせたい。 これらのことを、ロイデム大神殿に召還されて、王城に出入りするようになってから短期間のうちに理解したクラリスは、日常的に頭痛に悩まされはじめた。 特に、マーガレッタの癇癪と王太子の嫌味を直接受けざるを得ない立場であるから、その心労は加速度的に積もっていく。分隊の部下たちには、なるべく身分の高い者からの圧力を受けさせたくないと思っているが、クラリスを心配する部下たちの方が、進んでクラリスと交代することもあった。 「みんな、ごめんなさい」 寄宿舎で分隊のみんなに謝ると、気にするなと励まされる。 「いいんですよ。あれは、ありえないです」 「本当に……信じられません」 いままで、大聖女クレメンティアの荘園で穏やかに任務をこなしてきたクラリスたちにとって、上層部からの圧力もさることながら、マーガレッタからの拒絶がかなり堪えた。 (あの子、やり方が汚いというか、ものすごく巧妙なのよね) ある時は王太子に訴え、ある時は母親に同意を求め、ある時は侍女や近衛騎士に聞こえるように嘆いてみせ、自身が通う王立高等学院内でも大神殿の強引さに戸惑っている素振りをする。結果として、王太子からの嫌味、社交界から実家への圧力をほのめかされ、市井からの噂に回り、最終的に大神殿上層部からの叱責となる。 それでも、任務は任務としてこなさなくてはならない。 「なんて言うか、信じられませんよね。あの人たちがブランヴェリ公爵家の人間だなんて」 寄宿舎の食堂で、食欲もなく皿を突いていたクラリスの前で、同じようにもそもそとパンをかじっていたエマの呟きに、妙にはっとなった。 「そう言われてみれば、そうね」 サーシャ夫人はブランヴェリ公爵家の人間で、公爵代行サルヴィアをはじめとする、ブランヴェリ兄弟の母親だ。マーガレッタはサーシャ夫人の養子とされているが、本当は実の娘だと、半ば事実のように言われていた。 サーシャとマーガレッタは王都にいるが、他の兄弟は婿入りしたダニエルを除いて、みな魔境と化した旧ディアネスト王国領におり、現ブランヴェリ公爵領として復興と再開発にいそしんでいる。それだけなら、まだ女は安全な場所に残しているといえなくもないが、彼らの気質は根本的に違っていると噂されていた。 「まるで異質だわ」 「そうなんですよね。ブランヴェリ公爵家は財産を没収されて、ご兄弟は魔境で苦労されているはずなのに、なんであんな平気な顔で、贅沢な暮らしをしているんでしょうね」 「それは、マーガレッタ様が王太子殿下の婚約者になったから……」 自分で言っていて、クラリスは荒唐無稽なことを話しているような気がしてきた。 (取り潰そうとした家の娘を、王太子妃に?) 時系列としては間違っていないはずなのだが、めちゃくちゃなことだと思う。 (逆なのは時間? それとも主観? あぁ、わからない事ばかりだわ) 神殿騎士になってから田舎にこもりきりだったせいで、ここ数年の情報がなさ過ぎた。 「分隊長?」 「……あぁ、ごめんなさい」 いま考えても、答えは出そうにない。でも、なにかがおかしいと、クラリスの直感が告げていた。 「エマ、三十分後に、全員を練兵場に集めてもらえる?」 「わかりました」 広い練兵場の真ん中で車座になれば、誰かが物陰で聞き耳を立てたとしても、そうそう聞き取れまい。 (エマントロリアに行く前に、できるだけ情報を集めなくては) クラリスは部下たちに、伝手を使って王都での情報を集めさせることにした。 「どんなに小さな噂でもいいわ。私たちは中央にいなさ過ぎて、情報から取り残されている。王家や貴族の評判、大神殿の評判、それから、ブランヴェリ公爵家のことも、できるだけ知りたいわ」 こうしてストレスしかない王城への出入りを含めて、クラリスたちは精力的に情報を集めはじめた。そして、予言のような噂を耳にする。 ―― 王妃たちが聖者を怒らせたせいで、この国は厄災から護られない ―― 大聖女の進言を容れなかった大神殿は、女神から見放される ―― 厄災を受け入れたなら、エルフィンターク王家は滅ぶだろう と。 |