第十三幕・第六話 若村長と怒りの導火線


 その音は俺には聞こえなかったが、クレメンティア様は聞こえたらしい。どうぞ、と声をかけると部屋の扉が開き、ユッテさんとリディアーヌさんが立っていた。ガウリーが素早くマスクをかけ直す。
「もう時間なのね。名残惜しいわ」
 俺もそう思う。俺の立場と、クレメンティア様の立場とお身体では、この次は、おそらくないだろう。
「大聖女様、お手を失礼します」
 俺は椅子から降りて、クレメンティア様の前に跪き、痩せてシワシワな右手を取った。
「お会いできて良かった。どうか、お身体を大事に」
「……!」
 前世でも、健康寿命というものがあった。長く生きてきて、良いものも良くないものも見てきた彼女は、もうこれ以上を望まないかもしれないけれど、せめて最期まで健やかでいて欲しかった。
「……若い聖者様が、こんなにハンサムだったなんて。長生きはするものね。ねえ、もう少し見ていていい?」
 俺の手を、肌艶の良くなった頬に当てたクレメンティア様の瞳は、吸い込まれそうなほど黒く澄んでいた。
「なんて温かい……ありがとう。もういいわ」
「お土産に、美味しいピーモを持ってきたんです。暑さに負けないように、たくさん食べてくださいね」
「嬉しいわ。ああ、なんてことかしら。いまなら一曲お願いできそうよ」
 自分の脚ですんなり立ち上がったクレメンティア様を見て、ユッテさんたちの目が真ん丸になっていた。
「光栄なお申し出ですが、俺は踊れませんよ。しがない農夫なので」
「あら、私だって田舎の町娘だったわ。……そう、そうね。私が今日会ったのは、ピーモを届けてくれた、素敵な若い農夫よ」
「ありがとうございます」
 俺のことは秘密にすると、クレメンティア様は悪戯っぽい微笑みを見せてくれた。俺も、今日会ったのは、昔話を聞かせてくれたおばあちゃんだ。

 なんとエントランスまで出てきてくれたクレメンティア様たちに見送られ、俺とガウリーはアルダスさんの馬車で大聖女様の荘園を後にした。
(もうここには、来られないだろうな……)
 遠ざかるお屋敷が見えなくなって、俺は馬車の窓にかかるカーテンをおろした。
「リフの回復魔法は、若返らせることもできるのですか?」
「まさか! ヒールと一緒に、俺のマナを少し循環させただけだよ」
 それで体の何処が悪いのか、大体わかったから、そこへ重点的にマナとヒールが届くようにしただけだ。足りないものを補ったり、滞っていた流れを解消したりしただけで、老いや病気の治療をしたわけじゃない。
「ありがとう、ガラ。ここに来られて良かった」
「リフにとっても、大聖女様にとられましても、良い会談になりましたね」
「ああ」
 頷く俺に、ガウリーは目を細めるように微笑んだ。その手元には、紙束と銀貨が詰まった小袋がある。
「まず、こちらが慰謝料ですね。給金自体が安いので、そんなに多くはありませんが」
「そうなのか」
 国防に関わる騎士は給料がいいと思っていたのだが、神殿騎士は清貧が尊ばれるためか、現金での支給が少ないらしい。その代わり、低くない水準で衣食住が保証され、装備も良い物が揃えられている。神殿勤めは教養が求められるので、元々金に困っていない家で育った人間が多いのだとか。
「地方務めはその分手当てがでていますが、王都や領都のような大きな町の寮で出される食事は、量も十分ありますし、ちょっといい料理屋と変わらない味ですよ」
「それで清貧という感覚になる人たちなのか」
 苦笑うガウリーには悪いが、田舎の農村育ちとしては、だいぶ格差を感じるな。俺はずしりとした革袋を【空間収納】に放り込んだ。
「それから、リディアーヌ隊長からの資料です。我々の行動が大聖女様の御心に副うものであるから、決して妨害してはならない、という意味の印証も交付してもらっています」
 でっかい印が押された厚紙と、渡された名簿をざっと見て、ガウリーに聞く。
「知り合いはいる?」
「この中にはいませんが、王都に行った分隊を率いているクラリス副隊長は、優秀だと聞いていますよ」
「ふーん?」
 なんだか言い方が気になって、俺は首を傾げた。
「もしかして、リディアーヌさんとは知り合いだった?」
「ええ。むこうは小隊長とはいえ、女性神殿騎士のまとめ役でもありますから。大神殿で会議があると、よく顔を合わせていました」
 おう……。ガウリーが恥ずかしそうにしているところを見ると、モロバレしていたらしい。
「何か言われたか?」
「一言だけ、無事でよかったと」
「そうかそうか」
 リディアーヌさんもいい人そうで、重い処分にしなくてよかった。
「さて、こっちはおばあちゃんからのお手紙だ」
 クレメンティア様からこっそり手渡された便箋を広げ、俺は目の端がひきつるのを感じた。
「大聖女様は、なんと?」
「……おかしいと思ったんだよ。本来なら、反対する立場だからな」
 俺は内容をガウリーに伝え、絶望にも似た溜息が出てくるのを見た。これは、俺がどうにかできることじゃない。
「さすがに、俺の手には余る」
「そうですね。なるべく早く、公爵代行閣下とジェリド卿に伝えましょう」
「ああ」
 海から陸に戻っていたからか、それともおばあちゃんに元気をもらったからか、顔をしかめたくなる情報を得た割に、俺の気分は前向きだった。あとはデンゼリンまで行って、サルヴィアの友達に会ってから、エマントロリアまで一直線だ。
 だが、まさか数時間後に、とんでもない報せを受けるとは、この時は思いもしなかった。

 大聖女様の荘園からメーアの町に戻った俺たちの宿で待っていたのは、デンゼリンにいるはずの、リンドロンド商会の従業員だった。
「申し上げます。お嬢様から、緊急のお知らせが!」
 俺は上等な革製品にしては可愛らしいかばんを受け取り、アルダスさんは手紙を受け取った。
(このかばん、女の子用かな? へぇ、リンドロンド商会のお嬢さんの、私物?)
 リンドロンド商会の人に確認したら、ティアベリー嬢の物ではないらしい。少し戸惑いつつもかばんを開けると、中にはレポート用紙と、手紙が入っていた。蝋封の紋章に、見覚えがある。サルヴィアが同じ紋章入りの手紙を持っていた。
「トゥルネソル侯爵令嬢から?」
 俺は手紙を開き、そして頭を抱えた。アルダスさんの方にも、似たようなことが書いてあったらしく、唸り声があがる。
「なにがあったんです、リフ?」
「トゥルネソル侯爵令嬢たちの動きに王妃たちが気付いて、俺に会うためにデンゼリンまで付いてきちまったらしい。お嬢さまたちでは、王妃を振り払うのは無理だ」
 俺が囁くと、ガウリーも唖然としたように固まり、そして天を見上げた。
(はーーーーー、もぉーーーーーー。クレメンティア様のところで話題に出したせいかな。フラグ立てちゃったのかな)
 手紙によると、オデット王妃とアデリア第二王妃の二人ともが、一緒になってデンゼリンに居座って、俺を待ち構えているらしい。
(意外と仲がいいんだな。正室と側室なんて、バチバチにいがみ合いそうなのに)
 王族が来ているなら当然、デンゼリンの町はお祭り騒ぎだ。侯爵令嬢や商会長の娘たちだけならば、こっそり会うことも出来ただろうに。
 面倒なことになった。俺はもう一度手紙をよく読み直し、ある程度覚悟を決めると、アルダスさんとガウリーを誘って部屋にこもった。作戦会議が必要だ。
「三通りのやり方がある。ひとつめは、王妃たちを無視して、デンゼリンを迂回する。ふたつめは、王妃たちにもご挨拶をする。みっつめは、王妃たちには会うけど、どうなっても知らねーぞ。以上だ」
「リフの心は、みっつめ一択でしょう。王族に喧嘩を売る度胸がある平民なんて、貴方くらいですよ」
「よくわかっているじゃないか、ガラ。最高の賛辞だ」
 ひとつめの無視は、ここまで協力してくれたリンドロンド商会やトゥルネソル侯爵令嬢の立場を危うくしかねない。恩を仇で返すなんて嫌だ。
「トゥルネソル侯爵令嬢は、俺たちがここで姿を消してもいいように、調べたことを、こうして送り届けてくれた。だけど、それは俺のやり方じゃない。まして、ふたつめは俺の矜持が許さない」
 王族だかなんだか知らないが、相手の都合も考えずに会えると思っているのがクソムカつく。
「アルダスさん、送ってもらうのは、デンゼリンまでになりそうです。その先は、俺たち二人で何とかします」
「お待ちください、それではいくらなんでも……!」
 俺は【空間収納】から傾国桃樹の実をひとつ取り出し、テーブルを挟んで正面に座るアルダスさんの前に置いた。
「ひっ!」
 もうひとつ。
「はわわわっ!」
 もうひとつ……。
「わかりました! わかりましたっ! おっしゃるとおりにいたします!!」
「さすがはリンドロンド商会の副会長さん。話の分かる方で良かった」
「……」
 俺の隣でガウリーが額を押さえているけれど、話が通ればいいんだ。
「ね? これ、王都の商会長さんにも、届けてあげて欲しいなぁ」
「は、はい……」
 アルダスさんのマジックバッグは、完全な時間停止こそないものの、収納物の劣化はかなり遅くなるそうなので、ここから王都に急いで向かえば、傷んでしまう前に、商会長さんも傾国桃樹の実を食べられるだろう。王都とは反対側のエマントロリアになんて、行っている時間はないよね。
「せめて、デンゼリンからエマントロリア方面に向かう馬車の手配だけは、させていただきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 俺はリンドロンド商会からレターセットを買って、知らせてくれたお礼と、問題なく会いに行くこと、王妃たちにはこれまで通り俺のことはしらを切り、令嬢たちは予定通り王都に出発するように、と書いた。それをレポートが入っていたかばんに入れて、リンドロンド商会の人にトゥルネソル侯爵令嬢に渡してもらうよう頼む。
「ガラ、戦闘準備だ」
「かしこまりました」
 うちの賢者に苦笑いさせるくらいには、ボッコボコにしてやる。