第十三幕・第五話 若村長と大聖女おばあちゃん


 さて、門扉までは到着したものの、なんだか大騒ぎになってしまったせいで時間を取られたが、俺たちはやっと大聖女クレメンティア様が待つお部屋まで案内された。お屋敷に入った瞬間、四回目の結界の感触があって眉を寄せそうになったが、なんとか堪えた。
 両開きのドアの向こうでは、強い日差しを遮るように薄いカーテンが窓にかけられ、毛足の長い絨毯が敷かれた床に、重厚なソファセットが置かれていた。テーブルクロスがかけられたその上には、すでにお茶が用意されて湯気をくゆらせている。あとから誰も入ってこない、会談の邪魔はしない、という意思表示だろう。
 そして、綿がしっかり詰められた座面の一人掛けソファに、着やすいように簡略された神官服を着た、小さなおばあちゃんが座っていた。
 後ろでドアが閉まるのを聞いてから、俺はフードを取ってソファの前で跪き、深く頭を垂れた。俺の斜め後ろでも、ガウリーが跪いている。
「ようこそ、慈悲深き聖者殿。お会いできて嬉しいわ」
「お目通り叶いまして、恐悦至極に存じます。我らが信仰の星。大聖女、クレメンティア様」
 顔じゅうの皺を深くして、にっこりと笑う、この温かそうなおばあちゃんが、クレメンティア様だ。
(オーラっていうか、圧がすげぇ……)
 長年、大神殿の顔として、重圧に耐えてきた凄みを感じる。見かけは優しそうなおばあちゃんだけど、まとっている空気がサルヴィアみたいだ。
「うふふ、そんなにかしこまらないで。どうぞ、おかけなさいな。……そう、貴方もね、アイザック・ガウリー」
「「!?」」
 俺もびっくりしたが、ガウリーの方が驚いた様子だ。遠目にすることはあっても、こうして近くで会うことは、初めてのはずだ。
(そういえば、風精霊と仲がいいんだった。情報通なのは、当たり前か)
 俺は失礼します、とことわってソファに座り、ガウリーにも、マスクを取ってから座らせた。いまこの部屋には、俺たち三人しかいない。
「貴方から直接、お名前をうかがっていいかしら?」
「……申し遅れました。リヒターです」
 むこうは多分知っていて、聞いてきた。まあ、ここで俺だけ偽名にしても仕方がない。無礼を咎められるよりはいいだろう。
「ごめんなさいね、貴方に直接お礼が言いたかったの。ありがとう、リヒター」
「え……」
「無残なことになった神殿騎士たちを弔ってくれたことも、そこのガウリーを助けてくれたことも。貴方にしかできなかった。……貴方にしか、できなかったの」
 ありがとう、と目に涙を浮かべながら、重ねて言うクレメンティア様に、俺はなんて返せばいいかわからなかった。
(そうか、クレメンティア様は、見聞きはできても、ここから動けなかったから……)
 助けたくても手が届かないもどかしさ、見ているしかできない口惜しさは、俺にもよくわかる。
「俺のしたことで、大聖女様のお心が安らげたのならば、俺も嬉しいです。ガウリーは、俺をずっと護ってくれていて、頼りにしています」
「そう、よかったわね、ガウリー」
「はっ、もったいないお言葉です」
 畏まって頭を下げるガウリーに、クレメンティア様はうんうんと満足げに頷く。
「せっかく来ていただいたのに、失礼があったようで、申し訳なかったわ」
「お気になさらず。ちょっとした行き違いでしたから。なんでも、最近になって、護衛の神殿騎士たちのほとんどが、王都に召還されてしまったとか」
「そうなのよ。次代の聖女が現れたそうね」
 元々は、この荘園に十八人の女性神殿騎士がいたらしい。それが、隊長のリディアーヌさんや新人のリサを含む五人を残して、全員持っていかれてしまったそうだ。
「私に代わる聖女がいるのならば、それは喜ばしい事だと思うわ。でも、恐らくそうではない。……ここに、あなたが来たことが、その証。本来ならば、大神殿には関わり合いたくないはずだし、復興を急ぎたいブランヴェリ公爵領の完全な浄化を優先させるべき。でも、そうは言っていられない事件が起こった。そうでしょう?」
 黄白色っぽく濁りかけた目が、深い皺の中から俺を見詰めてきた。
(驚いた。お年寄りだと思っていたけど、頭のキレが尋常じゃないぞ)
 肉体が衰えているだけで、脳みその方はバチバチに元気なんだな、このおばあちゃんは!
「ご明察、恐れ入ります。……かつて、ディアネスト王国のデニサス二世陛下に憑依し、ディアネストの地を瘴気まみれにした、厄災の神エイェルという存在がおります」
 俺はかいつまんで、この世界を創世した神とは別の意思がエイェルを存在せしめ、そのせいで現在は女神アスヴァトルドの神託も下りないはずだと説明した。
「シャンディラでエイェルを退け、一時的に力を削ぐことに成功しました。ですが、今度はエルフィンターク王国を標的にしたようです」
「なるほどね。私は王城の中のことは詳しくないけれど、エマントロリアで王国騎士団と神殿騎士団がぶつかるのは想像できる。……あそこには、日常的に瘴気が漂っているのに、そんなことになったら、アンデットを活性させるだけよ。ディアネスト王国を覆っていた瘴気が、今度はこの国を覆うことになる」
 しかし、いくら大聖女とは言え、すでに隠居して体調にも不安があるクレメンティア様では、ここから動くことはできない。
「わかりました。リディアーヌから、王都に呼ばれて行った、他の神殿騎士たちの情報を受け取っていきなさい。あなたたちの邪魔になってはいけないから」
「ありがとうございます、クレメンティア様」
「私に出来ることなんて、そのくらいしかないわ。この国が、瘴気に呑まれるかもしれないというのに……」
 もどかしさに唇を噛むクレメンティア様は、聖女としてとても責任感の強い方なのだなと思う。常識的な感覚を持つがゆえに、大きな流れに逆らえない事を、苦痛に思うのだろう。
「我が国がディアネスト王国を滅ぼしたのだから、自業自得というべきかもしれないわね。ヘリオス殿がいたら、どんなにお怒りになることか」
「ヘリオス殿……?」
 誰のことかと首を傾げると、クレメンティア様はかえって驚いたようだ。
「あら、ご存じないかしら? 先代のブランヴェリ公爵よ」
「ああ、サルヴィア……様の、おじい様でしたか」
「ええ。とても厳しい、剛毅な方でしたけれど、私の前では借りてきた猫のようでしたよ」
 うふふふ、とクレメンティア様は笑う。そういえば、同じくらいの年代か、クレメンティア様の方が、少し年上になるのだろうか。
(もしかしたら、何か知っているかも)
 王都に行く予定がないので、会う確率が低いサルヴィアの二番目の兄に聞く予定だったことを、俺はクレメンティア様に聞いてみることにした。
「あの、もしご存じでしたら、教えていただきたいことがあるのですが」
「なにかしら?」
「先代ブランヴェリ公爵と、その娘婿と、孫である長男が殺害された事件のことです。ブランヴェリ公爵家には、優れた護衛騎士たちがいるのに、なぜ事件当日は無防備だったのでしょうか?」
 これは、魔境の中を行軍している間に疑問に思い、ジェリドも変だと感じていたようだ。だが、ブランヴェリ公爵家の人々がいるところで、これを聞くことははばかられた。
 ブランヴェリ公爵家には、トマスさんやハワードさんといった、先代ブランヴェリ公爵が認めた、とても優秀な護衛騎士がいる。事件当日、彼らは何処にいたのか。
 クレメンティア様はしばし黙したのち、真実かはわからないけれど、と前置きをして話してくれた。
「噂の域を出ないから、あまり信用しないでね。あの時、ヘリオス殿の騎士と婿殿の騎士は、それぞれ別行動を指示されていたそうなの」
 それによると、ハワードさんはブランヴェリ公爵家の領地に、トマスさんは奥さんのお産の為に、主人であるアーダルベルト卿から休暇を出されていたそうだ。唯一残っていた、長兄ロディアス様の護衛騎士が、当日の護衛をしていたそうなのだが、ブランヴェリ公たちが出席していた夜会で、なんと国王に呼び出されてしまったため、公の許可があって離れてしまったそうだ。
「国王陛下に……それは、逆らえないですね」
「ええ。彼はファインブルー侯爵家の子で、陛下がそれなりの令嬢と婚約を取り持つことになっていたとか……」
 間が悪いとはこのことか。これらのことが重なって、公たち三人はロディアス様の護衛騎士が戻るのを待たずに、馬車で屋敷に帰ったそうだ。事件はその時に。
「可哀そうに、責任を感じたファインブルーの子は……気に病んでしまって……。その後、自殺してしまったそうよ」
「……」
 これは、後味が悪すぎる。命令に従っていただけで、護衛騎士たちの責任ではない。
「ありがとうございます。なかなか周囲に聞けない疑問だったので、つかえが取れました」
「そうよね。あの事件は、ブランヴェリ家に大きな傷を残したままだわ」
 下手に話題に出すと、責めているように聞こえてしまうからな。サルヴィアも当時は、まだ王都にいなかったし、どうにもできなかったはずだ。
「サーシャ夫人が、ヘリオス殿を恨んでいたかどうかはわからないけれど、心ない噂をたてられたのは気の毒でしたね」
「やはり、結婚に関して? 身分差があるとは聞いていましたが、そんなに、アーダルベルト卿はサーシャ夫人から嫌われていたのですか?」
 そんなに嫌いな男の子供を五人も生むのかと思ったが、そうではないとクレメンティア様は首を横に振った。
「サーシャ夫人と婿殿の仲は、悪くはないと聞いていましたよ。良いとも聞かなかったけれども……。サーシャ夫人は若い頃、グレアム陛下にお輿入れされるかも、と噂されていたけれど、ヘリオス殿が許さなかったそうなの」
「!?」
 思わず変な声が出そうになって、俺は手で口を塞いだ。
(自分が王妃になる可能性があった!?)
 『ラヴィエンデ・ヒストリア』の「大公妃サーシャ」は、自分の娘を王妃にすることで力を発揮する。こちらの世界のサーシャは、自分が王妃になれなかったという無念を、マーガレッタを使って晴らそうとしているのだろうか。
「なぜ、公は……。家格から言っても、どこからも文句は出ないと思いますが」
「ヘリオス殿は厳しい方でしたからね。娘は王妃に相応しくない人間だと、そう判断されたのでしょう」
 たしかに、いくら娘が欲しいからって、不倫するような人だからな。王妃になってから問題を起こされて、ブランヴェリ家にまで責任を追及されるようなことは避けたいだろう。
「現王妃のオデット様は、古いディアネスト王国の流れをくむバリエ侯爵家。側室のアデリア様も、シェルダン伯爵家という由緒あるエルフィンターク貴族家。どちらも、ブランヴェリ公爵家には及ばなくても、立派な家柄ね」
「……ですが、今の王妃様たちも、俺にはどうかと思います」
「あら、どうして?」
 面白い事を聞いたとでも言いたげに顔をほころばせるクレメンティア様に、俺は緩く首を振った。
「王妃様の人となりは存じ上げませんが、唯々諾々としたがうのみで、悪い道へ進もうとする国王を止められない王妃など、不要かと」
「まあっ。ヘリオス殿と同じくらい厳しいわね。でも、国民にとっては、本当にそうでしょう。ディアネスト王国への侵攻を止められなかったという一点だけでも、王室の責任は重いわ」
 俺たちはその後、浄化玉を作った時の話や、ディアネスト王国民だった住人が少しずつ戻ってきている話などをした。
 帰る時間になるまでは、本当に、あっという間だった。