幕間 ある侯爵令嬢の誇りと協力


 エルフィンターク王国では、国王と王妃の不仲が噂されていたが、初夏を迎えたこの夜、王太子の誕生日パーティーを欠席することはなかった。
 ただ、その表情は似ているようで、まったく対照的だった。
「まるで思考を放棄した笑顔と、感情を放棄したことを隠す笑顔を、こうして並べられるのは……」
 普段の口数は少ない友人が、寒気を堪えるように呟いたのを、オフィーリアは広げた扇の内側で顎を引くことで同意を示した。
(王妃様がお諦めになったことは、責められませんわ)
 これまでは、それほど仲が良いとは言えなかった王妃オデットと側室のアデリアが、急速に融和の姿勢を見せたのは、事情通ならよく知っていた。特にアデリアと第一王子ルシウスからの働き掛けがあったからといって、プライドの高いオデットが折れるなんて、彼女の側近は驚いたことだろう。
 最近のオデットとアデリアは、各地の視察と慰問を名目に、国内のあちこちへ揃って出向いていた。いまはもう仲の良い友人と変わりなく、彼女らの父親を含めたかつての対立派閥も、緩やかな協力体制を取らざるを得ないと、水面下での動きは協調路線で一致していた。
 そのすべての元凶は、いまオフィーリア達の目の前で貴族たちから祝いの挨拶を受けている王太子アドルファスと、その婚約者マーガレッタ。そして、マーガレッタの母親である、サーシャ夫人。
 そこから少し視線をずらすと、アデリア妃とその子であるルシウスがいた。
(ご苦労が絶えませんのね)
 特にルシウスは連日の激務と心労が祟っているようで、甘い微笑を浮かべているわりに、顔色がよくないように見えた。
 シャンデリア煌く舞踏場には、王家の面々に加え、有力貴族たちもこぞって参加している。だがより数が多いのは、若い世代だ。王太子の誕生日パーティーなど、貴族子弟たちの非公式お見合いの場と言っても過言ではない。
 着飾った、それでも王太子とその婚約者よりは控えめな装いの、令息令嬢たち。彼らの表情も、忠節を装った笑顔とそれ以外とで、かなりはっきりと分かれていた。
(王太子殿下というより、マーガレッタさんの味方、ですわね)
 陶酔したような表情の者もいれば、卑屈な笑みを浮かべている者、かなりあからさまに下品な視線を向けている者もいる。その誰も彼もが、マーガレッタを崇めているのだ。
(あら?)
 めぐらせた視線の先、会場の隅で、見知った令嬢が扇で顔をかばいながら、年上に見える男から逃げたがっているのが見えた。
「オフィーリア様?」
「ジュリアナだわ」
 傍らに控える、友人にして護衛のロビンに囁き返し、オフィーリアはジュリアナを助けるかどうか一瞬迷った。
 ジュリアナはフィギス男爵家の長女で、オフィーリアとロビンの同級生だったが、マーガレッタに目を付けられた妹を、家族で神殿に追いやり、死なせるために魔境送りにしたと言われていた。実際は色々な事情や誤解が絡んでいるのだろうが、結果だけを取り上げて『邪魔者は容赦なく切り捨てる冷血な家族』と噂を流されて、夜会どころかお茶会に出てくることも稀になってしまっていた。
 もちろん、その噂を流したのは、言うまでもなくマーガレッタとその周辺だ。元凶が言える立場か、と常人なら眉をひそめるところだが、そんなことは気にしないのがマーガレッタだ。目障りなものは、とことん潰さないと気が済まないのだろう。
(まあ、いまさら旗色を誤魔化すつもりもありませんし)
 まだデビュタント前の次女を神殿送りにしたフィギス男爵家の自業自得とはいえ、ジュリアナは級友として知らぬ仲ではない。オフィーリアは滑るような身のこなしで、壁際にいるジュリアナの傍まで移動した。
「ご容赦くださいませ……!」
「妹が死んだなら、お前しかいないだろうが」
「お許しを……!」
 ジュリアナが半泣きで抵抗しているのに、周囲の人間は遠巻きにして男を止めないのは、もちろんジュリアナに加担してマーガレッタに睨まれたくないから。というのもあったが、よくよく見てみれば、男の方も問題大ありだった。
「イシュターヴ様ではありませんか。ごきげんよう」
 オフィーリアがにっこり微笑めば、胡乱気にこちらを振り向いた男も慌てて姿勢を正した。着ている物は派手だが、着ている者は小太りで落ち着きがなく、どうにも貧相な印象がぬぐえない。
「ここここれは、オフィーリア嬢。ま、まことに、お久しぶりでございます」
 トゥルネソル侯爵令嬢オフィーリアの容姿は、一言で言えば豪華絢爛だった。光を受けて輝く、長く豊かな金髪を豪奢に巻いており、それだけで気圧される者も多いだろう。みずみずしい白い肌はうっすらと薔薇色を刷き、夏の空のように鮮烈な印象を与える青い目は、長い睫毛の下で大きく瞬いた。
 もちろん、今夜の為に仕立てられた黄金色のドレスも素晴らしく、アクセントに配されたマホガニーカラーは、落ち着いた雰囲気と同時に高貴なイメージを彼女にまとわせた。
 そして、彼女の名声はその容姿と家柄だけではない。気高く、文武に秀で、自ら魔獣を狩ることで得た【民の守護者】の称号を持つ、高位ランク冒険者だった。
 彼女と同年代で肩を並べるのは、先日魔境の首都を制圧したと報告がもたらされた、サルヴィア・アレネース・ブランヴェリのみ。つまり、女性ではオフィーリアがトップだ。オフィーリアとサルヴィア、そして今夜はオフィーリアの護衛として共にいるガルデア子爵令嬢ロビンと、リンドロンド商会会長息女ティアベリーの四人は、切磋琢磨する間柄ではあったが、それ以上に深い信頼に結ばれた親友だった。
 オフィーリアが自分の目と同じ青い色の扇の先をふわりと揺らせると、意図をくみ取ったジュリアナが顔を伏せて素早くその場から立ち去った。
「あっ……!」
「イシュターヴ様、本日は奥様とご一緒ではございませんの?」
「あぁ、うん……。そうだった。では、私はこれで……」
 窮屈そうに腹を揺らしながらイシュターヴもどこかに行ってしまうと、オフィーリアは扇の影でふんと鼻を鳴らした。
「あの方は、フーバー侯爵家の?」
「ええ。次男だったかしら? ジュリアナの妹が行方不明になったからと、ジュリアナに目を付けたのね。節操というものがありませんわ」
 フーバー侯爵家は、先の戦争から凋落が著しい。三男が戦死し、それまでの領地を召し上げられた上に、魔境の一部をあらたな領地にさせられたせいで、経済事情は火の車らしい。サルヴィアの提案で、冬の間に浄化が終わった場所を領地として交換したそうだが、荒れたままで復興はあまり進んでいないようだ。
 ジュリアナの実家であるフィギス男爵家は裕福なので、社交界から締め出された妹……たしかキャロルといっただろうか。彼女と四男とで婚約を結ぶつもりだったらしいが、肝心のキャロルが神殿から魔境に送り出され、それきり行方不明になってしまっていた。
 ジュリアナは跡継ぎの婿を取らねばらないので、それなりにしっかりした人を選びたいのだが、マーガレッタたちに邪魔をされて、寄ってくるのはフーバー侯爵家のようにお断りしたいところばかりだった。
「お優しいですね」
「目に余っただけですわ」
 オフィーリアはツンデレですわ、というのは、この場にいないサルヴィアの評である。
「いいや、オフィーリア嬢は優しいだけでなく、正しく勇気をお持ちだ」
「こ、これは、殿下……」
 オフィーリアとロビンが慌ててカーテシーをする相手は、第一王子ルシウスだ。いつの間にこんな隅の方に来たのか。
「今夜は弟の為に来てくれたばかりか、見苦しいものを未然に防いでくれて、感謝する」
「もったいないお言葉でございます、殿下」
 頭をあげるようにと促されて、オフィーリアとロビンが直ると、ルシウスの傍にはもう一人、見慣れた黒髪をした男がいた。
「オフィーリア嬢もロビン嬢も、久しぶりだな。いつも弟たちが世話になっている」
「ダニエル様も、お元気そうで何よりでございます」
「お久しぶりです、ダニエル様」
 サルヴィアの二番目の兄、次期ルトー公爵のダニエルだ。ダニエルはルシウスにとって数少ない心許せる友人であり、現在は腹心と言っていい立場を確立していた。
「気になったのだが……貴女達のその扇は、揃いなのかな?」
 ルシウスの視線が、オフィーリアの青い扇とロビンの緑色の扇を行き来して、オフィーリアは嬉しくなった。
「はい! サルヴィア様から頂いたお土産ですわ」
「魔境に生息する、大型の魔獣から取れた素材が使われているそうです」
 ロビンが扇を手渡すと、ルシウスは興味津々な様子で、矯めつ眇めつ扇を見た。その扇の骨には、キングヒポポタンクという魔獣の角が使われており、素晴らしい魔力伝導率を誇る、淑女の隠し武器だった。
「大切な扇を見せてくれて、ありがとう、ロビン嬢。そういえば、ダニエル、弟御の領地平定祝いを準備しなくてはな」
「殿下、まだ首都を取り戻しただけでございますれば。サルヴィアも、殿下からお言葉をいただけるだけで、十分でございましょう」
「ダニエル様、それはいけませんわ。いまからパーティーの準備をしなくては」
「オフィーリア様のおっしゃる通りです。サルヴィア様なら、すぐにでも御領を賑わわせてしまいますよ」
 真顔で言い募る弟の女友達に面食らうダニエルに、ルシウスが可笑しそうに肩を震わせた。顔色が優れなかったルシウスの頬にも、心からの笑いに少し血色が戻っていた。
「ふふふっ。ああ、サルヴィア嬢には期待している。ダニエル、パーティーには必ず僕を呼ぶように」
「はっ……」
 その時、和やかな雰囲気を突き破るように、王太子アドルファスの声が響いた。
「さらに喜ばしい報せがある。私がこれを伝えられることは栄誉であり、また皆が集まってくれたこの時をおいて他はないと思う」
 まさか子が出来たなどというお花畑ではあるまいかとオフィーリアたちは口にせずとも同じ事を思ったが、それは杞憂だったようだ。
「我が婚約者マーガレッタが、女神アスヴァトルドより神託を賜った。これをもって、彼女に聖女の称号を与えたいと思う!」
(なんですって?)
 周囲のざわめきの中、オフィーリアもロビンと顔を見合わせた。
 アドルファスに手を取られて進み出たマーガレッタは、愛嬌のある藍色の大きな目を潤ませ、濃いふわふわの金髪をなびかせて、夢見る様な仕草で階の上に立った。着ている淡い色のドレスは宝石をちりばめた豪華なものだったが、体型はやや子供っぽく、オフィーリアに比べればだいぶ見劣りする。
「女神アスヴァトルドからのお言葉です。エマントロリア遺構、という場所があるそうです。そこに、大いなる剣が眠っているから、手に入れるように、と」
(エマントロリア遺構? たしか、古代文明の遺跡で、日常的にアンデッドが出没するからと神殿の管理になっていましたわね。場所は、マロア地方だったかしら)
 芝居がかった動きで演説をするマーガレッタとアドルファスを冷ややかに見ながら、オフィーリアは冷静に自分の知識と照合した。
「素晴らしいよ、マーガレッタ。神託を女神の御心のままに成せば、この国に繁栄をもたらしてくれることだろう!」
「ええ! アドルファス殿下ならば、必ず手に入れられるでしょう」
「して、我らに繁栄をもたらしてくれる、その大いなる剣の名は?」
「……神剣ミストルテイン」
 わざとらしいタメを作って告げられた名称に、マーガレッタを支持する者たちが大いに湧いた。いまや王太子の誕生日パーティーという名目などそっちのけで盛り上がる舞踏場をしらけた目で眺めながら、オフィーリアは得体のしれない悪寒が背に走るのを感じた。
(なにかしら。嫌な予感がするわ)
 神剣ミストルテイン。その響きは、オフィーリアに胸騒ぎを起こさせた。
(サルヴィア様、どうぞご無事でお戻りくださいませ)
 オフィーリアはルシウスとダニエルに目配せと共に軽くお辞儀をすると、ロビンを伴って静かに会場を抜け出した。これ以上ここにいてマーガレッタと同じ空気を吸っていたら、自分まで頭がおかしくなりそうだった。
(ティアベリーさんにお願いして、すぐにサルヴィア様にお知らせしなくては。それに、エマントロリア遺構についても、すぐに調べる必要があるわ。ミストルテインなんて、聞いたことがありませんし、考古学の教授にアポイントメントを取って……。それから、神殿よりも、現地の神殿騎士に聞きこんだ方がいいですわね)
 オフィーリアは脚と頭を忙しく動かしながら、王城を後にした。いまはまだ、慎重に身を処しながら、情報を集め、親友が戻ってくるのを待つほかなかった。