第十幕・第六話 若村長と厄災の神


「馬鹿な……!」
 明るい陽射しによって虹がかかる聖水雨を空間魔法で防ぎ、デニサス二世の姿をした者は地上を見下ろしながら歯噛みした。宮殿に墜落したカオスドラゴンロードはまだ生きているようだが、神聖魔法交じりの水撃に貫かれたことと聖水雨の乱打で、もはや飛ぶこともままならない。
(仕切り直すか)
 成長する前にアスヴァトルドの使徒を壊したつもりだったのに、いつの間にかリューズィーまで味方につけていたとは誤算だった。この世界で活動できる肉体は手に入れることができたのだから、その間の邪魔は出来たと思うしかない。
 だが、このまま何もしないで引き下がるのは癪に障る。
(護国の鯨も解放できぬし、ここはもう放棄するしかあるまい。贄は少ないが、構わぬか)
 シャンディラ魔術学園に巣くう『叡智を喰らう者』オブリビオンブック、シャンディラ大神殿にしがみつく『無垢なる欲望』エンドレスバース、王立大劇場に現れた『偶像たちの母』マリオネットクイーン。それに、王宮前広場の『飽くなき憤怒』カオスドラゴンロードと合わせれば、このシャンディラもろとも滅ぼす、虚無なる深淵を顕現できるだろう。
「余の生誕に相応しい、祝いの宴ではないか?」
 国王としても滅多に袖を通すことがなかった正装をひるがえし、デニサス二世の姿をした男は、高らかに魔呪を唱えた。シャンディラの四ヶ所から膨大な瘴気が噴き上がり、抵抗する贄どもを掴み上げる。
「絶望と苦痛の果てに、滅びよ」
 だがその時、彼は自分の魔呪に混ざる、別の歌声を聞いた。
「古謡・ローエンによる神魔叙事詩。第二章、瞬きの間にスローリィ・スローリィ
「!?」
 神である自分が知覚できない時などないはずなのに、次の瞬間には魔呪は霧散し、贄は融け失せ、聖水雨から自分を護っていた空間魔法すら消えていた。
絶対失敗ファンブルだとッ!? 馬鹿な……ありえぬ!!)
 デニサス二世の体には、魔呪召喚師カースサマナー妖術師ソーサラーの二つをマスタークラスで授けており、災厄の神の権能を十全に発揮できるはずだ。呪力も贄もすべてロストするファンブルなど、あり得るはずがなかった。
 いったい何が起こったのかと周囲を見回し、地上からこちらを見上げている人影を見つけた。
「妖精族を怒らせると、怖いんだよぉ★」
 おどけた仕草ながらも泣き笑いメイクを怒りに歪ませた道化師の隣では、青い髪をした行商人風の糸目の男が、唇の端を吊り上げていた。
究極付与エクストラエンチャント【抗えぬ不運】パーフェクト・ハードラックのお味は、いかがでしたでしょうか」
「は!?」
 空中制御まで侵されたのか、がくっと体勢を崩したところに、幾重もの黒い魔法陣が絡みついた。
「なん……なんだこれは!?」
 足元から頭上から、前後から、左右から、過去から未来から、押し包むように、四肢を拘束するように。そのあり得ないほど……神たる者すらも縛る、膨大な魔素を用いた魔法の出処を探し、道化師と行商人の足元に、豆粒のような人影を見つける。
「き、さまは……!」
 こちらを真っ直ぐに睨みつける黄金色の目の下で、血色の良い小さな唇が動いた。
『 お ま え の せ い か 』
「!?」
 拘束、束縛、拘禁、収奪、断絶、粉砕、制止、連鎖、収束、衰亡。次々と重なり課せられ奪っていく古の魔術に、現代を生きる人間の肉体では抵抗ができなかった。
「ぐおぉぉぉおおおっ! 認めぬっ! 認められるかぁッ!!」
『 し ね 』
「ぬあああああああぁぁぁっ!!!」
 幾重にも魔法陣を貼り付け、濃い魔素によって磔られたデニサス二世の体は、やがて黒い炎が嘗め尽くし、小さな黒い塊となって、燃え尽きた。
「ッ! ……にげられた」
「うっそぉ。ノアくんの極大魔法から逃げられるなんて……本当に神なんだねぇ」
「肉体を捨ててなお、ゼガルノア様の魔法をすり抜ける事は難しいかと。しかしながら、今回はむこうの運の方がよかったのでしょうか。いやはや、手前も修行が足りませんな」
 ノアは悔しそうに頬を膨らませ、レノレノとホープも敵のしぶとさに呆れてぼやいた。
「……ちゅかれた」
「では、マスターたちが戻ってくるまで、むこうのテントで休みましょう。濡れたままだと、冷えてしまいますからね。温かい飲み物をお出ししますよ」
「ボクもご一緒させてもらおー。こんなに雨に当たっていたら、メイクが落ちちゃうよ★」
「コケッ」
 ふにゃりとしゃがみこんでしまったノアをホープが抱きあげ、その後をレノレノと金鶏が水滴を払いながらついていった。


 聖水雨で清められることによって、汚染された地上が歩けるようになると、俺たちはすぐにカオスドラゴンロードに向かって走った。宮殿を押し潰してはいるが、頭部をこちらに向けているおかげで、なんとか届きそうだ。
「うえっ、なんだこれ」
 瘴気をまとうカオスドラゴンロードの肉体は、近くで見ると様々な生物の死体で出来ていることが分かった。人間はもとより、馬や牛、犬などが、どろどろに融けて混じっていた。ダメージと振り続ける聖水雨のせいで、身じろぐくらいしかできないようだ。
 その中に、体をほとんど埋めたガルシャフがいた。
「切り離せないか?」
「やってみます」
 俺が浄化をし続ける中でガウリーが剣を振るうが、慎重にやっているせいか、カオスドラゴンロードの再生力にやや及ばない。ダメージは入っているようなのだが……。
「あいつがなにか始めたわ!」
「離れてください!」
 サルヴィアとジェリドの警告に従って一時瓦礫の山を下って離れると、噴き上がる瘴気が増して、なんとカオスドラゴンロードの体が浮き上がっていた。
「なにをする気だ?」
 俺たちが見上げる空に立った、デニサス二世の姿をした自称神。その周囲に、カオスドラゴンロードを含めた四ヶ所から、膨大な瘴気が集まっていった。
「魔呪を用いた極大魔法かもしれません! 危険です! すぐに退避を!」
 どこへ、などと疑問を浮かべる余裕もない。ジェリドに従って、俺たちは急いで宮殿の敷地の外に向かって走り出した。意思があるように集まっていく瘴気のせいで、浄化した空気がびりびりと肌を刺激する。あんなヤバそうな魔法、俺のキリエエレイソンでも防ぎきれない。
「え?」
「あら?」
 ところが、なぜかその瘴気の動きが、ぴたりと止まった。
 俺たちが見上げるなか、どこからか歌声が聞こえていた。歌謡というより、詩吟のような雰囲気だ。男とも女ともつかない、神秘的な音域の響き。
「呼んだ応援が間に合ったみたい」
 メロディがニヤッと笑った瞬間、集まりを見せていた瘴気は、俺の浄化に抵抗することなく消えた。
「えっ!?」
「なにが起きたの?」
 ずずぅん、と地響きを立てて、少し浮いていたカオスドラゴンロードがもう一度落ちてきた。その肉体が、灰のように崩れていく。
「あれは……!」
「ノアの大魔法、か?」
 いまや空を埋め尽くさんとするほど、幾重もの黒い魔法陣が浮いていた。それは、あのデニサス二世を中心として、収縮を始めているようだ。
(ノアの魔法は、俺たちが操る魔法とは、まったく異なる系統だとしか知らない。だけどあの魔法なら、自称神にも通用するかもしれない)
 期待を込めて見続けると、ほぼ球形に重なり合った魔法陣の中心で蠢いていたものが、小さな揺らめきの後に消え、そして魔法陣もすぅっと消えていった。
「やったか!?」
 俺の浄化範囲内にあった、大きな瘴気の反応も、ほとんどが消えていた。
 すぐにノアたちの所に行って確かめたかったが、その前に、一番近い所にある反応を確認することにした。
 濡れて滑りやすくなった瓦礫の中を注意してよじ登り、もはや人と呼べる形を保てていない塊を探し出す。
「公爵!」
 頭部から左肩までという、わずかな欠片。それも、侵食された瘴気が消えて、いまにも灰のように崩れそうだ。よく残っていたものだが、おそらく彼自身の精神の強さと、未練の強さに他ならないだろう。
「サ、ルヴィア、どの……」
「はい、ここに」
 サルヴィアはガルシャフの傍らに跪き、最期の言葉を聞き逃すまいとにじり寄った。
「た、みを……この、国の……民の、あ……あん、ねいと……へいわ、を……」
「お約束いたします。わたくし、サルヴィア・アレネース・ブランヴェリの名において、このディアネストを民が安心して暮らせる地にいたします。閣下が愛された民も、すぐに戻ってまいりますわ」
 ひび割れた唇が、笑みの形を取ろうとして、頬にまでひび割れを大きくした。
「り、ひたー、どの……」
 ここまで強い執着を持っていると、浄化だけでは滅びきれない。苦痛を伸ばすのは忍びなかった。
「安心してほしい。心許せる人達の元に送ろう」
 瞼がゆっくりと閉じると、聖水雨が染み込んだ目尻がぽろりと崩れた。
「……ターンアンデッド」
 わずかな抵抗もなく発動した光が、ガルシャフを包み、そして、一粒の欠片も残さず消えていった。
「女神のご加護があらんことを。眠れ、安らかに」
 シャンディラに降り注いでいた雨は上がり、輝くような春の陽が、土塊と化した王宮の残骸を白々と照らしていた。


 こうして、旧ディアネスト王国王都シャンディラでの、主だった戦いは終わった。
 まだ各所に散らばるアンデッドはいたが、冒険者や騎士たちが、ひとつずつ潰していっており、完全な浄化も間もなく完了するだろう。
 それよりも、大神殿などにいた巨大な瘴気の塊が、デニサス二世の消滅と共に消えてしまったので、ジェリドがガウリーと金鶏を連れて、大捜索をしているところだ。俺は安全のためにガウリーから離れられず、ノアを抱っこしてそれを眺める日々だ。
「ノア……」
 あの日、極大魔法を使ったノアは、すっかり疲れてしまったようで元気がない。メロディの【分析】によると、無理をしたせいで本体のゼガルノアに負担がかかり、いよいよ危ないという事だ。せめて、常にマナを供給できるように、片時も俺の傍から離さないようにするしかできない。
 シャンディラ攻略という、一大目標が達成されたというのに、俺は喜びよりも焦りの方が大きかった。