第十幕・第二話 若村長と師弟の別れ


 堀には怪魚が泳ぎ、広い庭園は枯れ果てていたディアネスト王国の王宮は、建物の内部も「とても美しかったのだろう」と思わせるほど荒廃していた。壁や天井が剥がれ、柱や床はひび割れたり崩れかけたりしている。いま俺たちがいる廊下の床も、鮮やかな色彩のモザイクだったに違いない。
 そして、国で一番の工房から納められていただろう、数々の調度品は……。
「くっ、これは、厄介ですわね!」
「お館様、盾の後ろへお下がりください!」
 サルヴィアの炎の弾丸が撃ち抜き、騎士の盾やジェリドの土壁が防いだりはしているが、とにかく、あちこちから物が飛んでくる。額縁に収まった絵画、大きな花瓶、ちぎれたカーテン、脚の欠けた椅子やテーブル、シャンデリアの破片、なんでも飛んできた。
「ポルターガイストって、魔法か? それとも邪妖精なのか?」
「現象としてはどちらでもあるけど、今回は後者だね。先に言うけど、僕にはどうにもできないよ!」
「……」
 妖精族とは、と思ってしまったが、たぶん、字が同じだけで、そのありようはまったく違う存在なんだろう。
「ぁ!」
 足元に散らばっていた割れた木材が飛び上がり、俺とレノレノに向かってきた鋭い破片を、とっさに間に入ったガウリーの鎧と盾が防いだ。
「お怪我は?」
「大丈夫だ!」
「ジェリド、元凶の邪妖精が何処にいるかわかりませんの!?」
「そこら中に、とだけ! 数が多すぎます!」
 フォークや皿といったカトラリーが、ジェリドの背をかばったリオンの盾にキンカンバリンバリンと当たって弾かれている。邪妖精はほとんど透明なため、これだけ混乱している中で目視するのは、特別に感知能力が高い者でなければ、かなり難しい。
「ガウリー、ライトは……邪妖精除けの魔法は使えないか?」
「使えなくはありませんが、私の力量では追い払いきれません。たとえ追い払えても、追いつかれます!」
 このポルターガイストのせいで、俺たちは階段のある広間に出られないでいた。ディアネストの王宮はなんというか、南国らしい風通しのいい造りになっているようで、あちこちがけっこう開けていて、身を隠す場所がない。
「……俺に、五、六秒くれ」
「聖者くん!?」
「このままじゃ、先に進めない。こいつを撃ったら、すぐに浄化に戻る」
 俺は一時的に浄化魔法から手を放し、先に進めない苛立たしさを込めた魔法を素早く練り上げた。
「喰らい尽くせ! レギオン・アイアンメイデン!!」
 ポーションのおかげで消費と回復が拮抗していた俺のマナがごそっと減ったが、気にせずぶっ放して、すぐに浄化に戻った。
「っ……っしゃ、成功!」
 良い子は真似しちゃダメだが、自転車の手放し運転しながら缶ジュースを投げ渡すみたいな感覚だ。このくらいのスイッチは、慣れればできなくもない。
「キミ、道化師みたいな曲芸するね!?」
「レノレノ殿、感心するところはそこですか。あの極悪な姿と、数えるのも馬鹿馬鹿しい数が見えませんか!? リヒター様、どうして私には邪妖精除けを提案しておいて、ご自分では殲滅を選ぶのです!?」
「だって、どうせ追い払っても、また追いかけてくるんだろ?」
 そこら中を光の乙女たちが飛び回り、邪妖精を追いかけては捕食しているのだが、ガウリーは相変わらず彼女たちの縦割れバックリに慣れないらしい。内側にびっしり生えた、長くて鋭い棘といい、生理的に無理なんだとか。
「す、凄まじい……」
「本当に、リヒターはおかしいですわ」
 ジェリドにひかれると若干傷付くが、サルヴィアのもう慣れたみたいな顔も、ちょっと悲しいんだぞ!? マナは温存したいけど、必要な時はケチらず使わないとな。
「……いまのうちに、先に進みましょう」
 マナポーションを開けて渡してくれるサルヴィアの号令で、人間以外が阿鼻叫喚になっている広間と階段を慎重に通り抜け、俺たちはついに謁見場の大扉にたどり着いた。
 一同が顔を見合わせて頷き、騎士たちが大扉を押し開けた。
 その謁見場も、かつては壮麗な場所だったのだろう。太い柱、高い天井、幅も長さも申し分ない絨毯も……。
「……」
 王座まで続く絨毯の両端には、かつてここに居並んでいただろう人間の塊が積み上がっていた。いや、少し語弊がある。
「ディメンター……カオスディメンターだわ」
「まさか、これほどの上位妖魔が使役されているとは……」
 吐き気を堪えるようなサルヴィアの呟きに続き、ジェリドの声も引きつっている。
 鬱血したような、紫色の巨大な肉塊だった。その表面には、いくつもの人間の顔が張り付き、ごうごうと瘴気をまき散らしている。肉からはみ出した、お仕着せの袖、鎧の端、ドレスの裾、ジャケットの襟。男もいた、女もいた、老いた者も、若い者も、みな一様に大きく口を開いた表情のまま、時が止まったようにピクリともしない。ただ、瘴気だけが立ち上っている。
 それが、ずらりと。大扉から王座のある階まで……いったい、何体あるのだろうか。
(塊一個に数十人。それが……少なくとも、六つか七つは転がっているな)
 俺が瘴気を浄化し続けてはいるが、それでもカオスディメンターから出ている瘴気は明り取りの窓を覆ってしまい、謁見場は薄暗いままだ。
 不気味なほど、しんと静まり返った空気の中に、悲しげな歌声だけが、ひそやかに聞こえていた。王宮の外まで聞こえていたのに、こうして間近にいても、その聞こえる音量は変わらない。
「スヴェン……!」
 駆けだしたレノレノに巻き付こうとする瘴気が、俺の魔法に阻まれて消えていく。
「盛夏の祝祭!」
 場違いも甚だしいトロピカルなダンスミュージックが爪弾かれ、俺の浄化魔法も勢いがつく。
「スヴェン!!」
 風化したように起毛や生地が傷んだ絨毯の上に、干乾びた縊死体が落ちていた。薄着の成人男性で、両腕を後ろに、皮膚に張り付いた長い髪は、きっとおさげにされていただろう。太いロープがその髪の間からだらりと伸び、ちぎれていた。
「スヴェン、約束通り、救けに来たよ!」
 その死体も瘴気に蝕まれ、レノレノは傍らに膝をついても、触れることができない。
「遅くなってごめんね。奥さんと子供も解放したよ。もう、大丈夫だから」
「――♪、――……」
「スヴェン……」
 俺はレノレノの傍に膝をつき、静かに告げた。
「浄化は出来るが、それが最後だ」
「……うん。この子を、眠らせてあげて」
 諦めたようにひそめられた悲し気な眉目と、口が虚ろに開いたままの顔。かつては気弱そうな微笑みを浮かべていただろう干乾びた頬に、俺は触れた。
「カタルシス」
 瘴気を浄化してやれば、妻子を解放されたスヴェンに思い残すことはないだろう。

―― せんせい、ごめんなさい。ありが、と、ぅ……ざ、ぃ……

 かき抱いたレノレノの腕の中で、スヴェンの死体は塵になって消えていった。
「善良なる人よ、家族と共に。眠れ、安らかに」
 スヴェンの歌が消えたことで、レノレノを中心に、ぶわりと清浄な空気が広がっていく。
 謁見場の上部にたまっていた瘴気もすっかり掃われ、明るい日の光が差し込んできた。

あああああああああああああああああああああああああああああ
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
あああああああああああああああああああああああああああああ
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

 一斉に始まった臓腑を抉るような大合唱に、俺以外の全員が耳を押さえ、胸を掻きむしりながらうずくまった。たぶん、呻きや悲鳴をあげていることだろう。
「……うるさい。シャラップ黙れ!
 その瞬間、カオスディメンターたちがあげていたデスボイスはぴたりと止んだ。肉塊は蠢き、張り付いた顔の口もパクパク動いているが、声が出ていない。
「わかりやすいトラップだな。ブレッシングシャワー。癒しの翼」
 元々浄化系統にあるブレスは、バフにより基礎値を上げることで、多少のデバフも解除してくれる。スタッフオブセレマを持った俺にかかれば、この程度の混乱や麻痺の解除はたやすい。
「っ……スヴェンの消滅が、きっかけ?」
「そうだろうな」
 人より耳がいいレノレノが、耳を押さえて若干ふらつきながらも立ち上がる。俺は重ねて、無詠唱ヒールをかけてやった。
「なんで、聖者くんは平気なの?」
「……神様たちの加護があるんでな」
 いかなる場合でも、どんなに怖くても気が狂えないというのも、救いがないような気がするが、生き残れれば、あとは何とかなるだろう。
「沈黙付与……というより、呪詛封印? いや、呪詛阻害、という程度か」
「リヒター様。また、何も考えずに魔法を作りましたね」
 もごもご蠢いているカオスディメンターを見回して首を傾げる俺に、ガウリーが溜息をつく。お、怒ってないよな?
「い、いや、なんていうか……うるさかったから」
「ええ。おかげ様で、助かりました」
 呆れられてはいるけど、怒ってはいないみたいだ。よかった。
「でも、いつまでもつかわからない。いまのうちに倒して……」
 そう言いながら、俺は全員にマイティガードを施していき、ふと人数が足りない事に気が付いた。
「あれ? ノアとメロディは、何処に行ったんだ?」
「え?」
 ブランヴェリ家の騎士たちは一人も欠けていないのに、いつの間にかノアとメロディが……あ、金鶏もいない。
(まあ、金鶏が一緒なら大丈夫か)
 迷子の捜索はとりあえず置いておいて、俺たちは目の前のカオスディメンターをどうにかすることにした。



――― その頃、王宮内某所

 二人と一羽は、ひと気のない廊下を歩いていた。
「うーん、完璧にはぐれたな」
「ねー、きんけい。こっちでいいの?」
「コケッ」
 王宮の前庭でカースドナイトたちと殴り合っていたメロディとノアだが、全部壊してふと見回すと、リヒターたちの姿がなかった。夢中になり過ぎて、置いて行かれたのに気付けなかったらしい。
 さいわい、金鶏が道案内してくれたが、足跡がつくほど埃がたまった廊下ばかりで、この道をリヒターたちが先に通った様子はない。
「コッコッ」
「ここ?」
 円柱が並ぶ回廊に面した、ひとつの扉。そこで止まった金鶏に促され、メロディは慎重に扉を開いた。
「よお。待っとったぞ」
 そこには、籐編みの長椅子に優雅に寝そべった、青い肌の男がいた。