幕間 ある少女の目に映るもの


 キャロル・フィギスは、それまでなにも知らずに生きてきた。
 心配事と言えば、母の誕生日に父の仕事が早く終わってくれるかとか、姉のように上手にお辞儀が出来なくて家庭教師の視線が怖いとか、その程度のことだ。
 フィギス男爵は領地をもたないが、代々受け継いだ製塩事業を営んでおり、とても裕福だ。キャロルも姉同様、蝶よ花よと大切に育てられてきた。
(でも、そういう世間知らずなところが、傲慢だったのでしょう)
 キャロルは水魔法の扱いが上手で、さらに回復魔法の片鱗すらも見せた。家族の中では唯一、魔法の才があるという事で、方々から誉めそやされ、いい気になっていた。きっと父が良い縁談を持ってきてくれるにちがいないと、誰もが思っていたし、キャロル自身もそう思っていた。
 だから、伯爵家の長男との婚約は、まったく疑いのない慶事だった。格上の、しかも領地を持っている長男に嫁げるなんて、男爵家の次女にはもったいないくらいの良縁だった。相手は少し年上だが、頼りがいのある旦那様の方がいいと、キャロルに不満はなかった。
 まだデビュタント前だが、同世代どころか姉よりも先に縁談が決まったことで、キャロルは浮かれ、社交界がどういうところなのか、まったく知ろうともしなかった。田舎貴族と侮られないよう、伯爵夫人として相応しくあろうと、お稽古事の時間を増やし、ドレスや宝飾品の流行を追いかけた。婚約者へはマメに手紙を書き、二、三回に一回くらいでくる返事を抱きしめては、どんな人なのかと夢想した。いつか豪華な馬車で、自分を迎えに来てくれるのだろうと。
 そう。キャロルは、婚約者に会ったことがなかった。
(そのせいかしら。あまり、ショックではなかったのよね)
 婚約解消は、残念ではあった。自分の華やかな将来を夢想していたのに、それがお預けになったのだから。だが幼いキャロルにとっては、遊び相手が一人いなくなった程度の喪失感だった。
 だから、また父が新しい相手を探してきてくれるはずだと疑っていなかった。そしてもちろん、そうなるはずだった。
(お父様もお母様も、わたくしは悪くないとおっしゃってくださったけれど……)
 キャロルは、会ったこともない元婚約者にたいして未練はほとんどなかったし、キャロル自身かなりスペックが高いという自覚があった。なんといっても、回復魔法が使える貴族令嬢は引く手あまただ。
 だがしかし、運が悪かったというべきか。元婚約者が懸想した相手、王太子の婚約者マーガレッタも回復魔法が使えたのだ。スペックかぶりなんて、目を付けられて当然だ。
 キャロルは社交界に出る前に、かつての婚約者とマーガレッタに、その道を潰された。そしてそれは当然、姉ジュリアナにも波及する。これは大問題だった。
 姉のジュリアナは、家を継がせる婿を取らねばならず、その相手が探せないとなると、男爵家の存続が危ぶまれる。フィギス男爵家は裕福であるから、それを狙う輩は少なくない。そんな中で強気な選り好みが出来なくなるのは、緩やかな破滅以外のなにものでもなかった。
 父は頭を抱え、母はやつれ、パーティーやお茶会のたびに屈辱を味わう姉には憎しみすらこもった眼差しを向けられ、もはや家にもいる場所が無くなったキャロルに、神殿行きを拒めるはずがなかった。
 長かった髪は自分で切り落とした。これは、もう帰る場所はないという、自分自身への宣告だった。

 大神殿での暮らしは、さほど辛くはなかった。キャロルが若いという事もあるが、元は貴族であるキャロルが、父母からの寄付のおかげで、平民の神官見習いと同じ待遇ではなかったことが大きい。俗世の中傷も、大神殿の中には届かなかった。
 ただ、それも一ヶ月も続かなかった。本当にお客様状態で、大神殿での見習い期間を終えると、すぐにブランヴェリ公爵領への派遣が決まった。
 恐ろしい魔境だと聞いているが、それよりももっと身近なところに、キャロルの恐怖があった。
「おい、ノロマぁ! さっさとしろ!」
「は、はいっ!」
 慣れぬ旅に足をもつれさせるキャロルに、大きな舌打ちが浴びせかけられる。荷物はガウリーが持ってくれたが、それでもダンスのレッスン以外で運動をしてこなかったキャロルに、長距離の移動はきつかった。
 遠征小隊の神殿騎士たちはみな粗暴で、特に隊長のバルツァー卿は酷かった。侯爵家出身らしいが、言動は山賊かなにかのようだ。他の騎士はバルツァーの取り巻きだし、同じ神官のボーレアスは虚言と盗癖の噂があった。
 唯一、ガウリーだけは粗末な身なりに反して紳士的で、ガウリーがいなかったら、まず間違いなくキャロルの花は散らされていたことだろう。
(もしかして、わたくしたちは大神殿に捨てられたのでしょうか)
 そう思い至ったものの、キャロルにはどうしようもなかった。
 一応、魔境で浄化活動をしているという、もぐりの神聖魔法使いを探し出すという任務はあったが、ブランヴェリ公爵領で自由に振る舞えるかどうかはわからない。魔獣がたくさんいて、瘴気が溢れているという噂だが、キャロルもボーレアスも神聖魔法は得意ではない。キャロルも死にたくはないから、浄化の勉強と練習はしたが、それが現実に通用するかどうかは、行ってみなければわからなかった。
 ブランヴェリ公爵家の船が出入りしているという噂のある漁村で、ほとんど強奪するように船を接収して、ガーズ大河の支流をさかのぼっていくと、たしかに桟橋と、難民キャンプがあった。
 ここはもうブランヴェリ公爵領だというのに、バルツァーたちは横柄に振る舞い、恥知らずにも難民用の物資を持っていこうとする。まわりからの、嫌悪に満ちた冷ややかな目が見えていないのかと、キャロルは呆れるやら申し訳ないやらで、小さく縮こまってしまった。
 結局、すぐに上品な物腰の青年と騎士たちがやってきて、難民キャンプを追い出されると、森の中を切り拓いたばかりの、凸凹した道を歩くことになった。
「なんだ、簡単じゃないか」
「すぐに捕まえられそうだな」
 のんきな神殿騎士たちはそう言うが、浄化範囲とその向こうに瘴気を感じ取れたキャロルは、気が気でなかった。
(すごい。大神殿の神聖魔法使いよりも、綺麗だわ。魔力の行きわたり方に、ムラがないというべきかしら。とても力強く感じる)
 所々にある石碑は、浄化維持のための魔道具だそうで、これがなかったから、せっかく浄化しても、すぐに瘴気に再浸食されてしまうらしい。それだけ、この地を覆う瘴気は強力なのだ。果たして自分たちだけで、この瘴気を掃えるかは、キャロルは大いに疑問だった。
(なんとか、仲良くできるようにお話しできないかしら)
 これほどの力を持った神聖魔法使いなら、協力してもらう方が絶対に良いはずだ。だが、前を歩く粗暴なバルツァーたちを見て、キャロルはため息をつく。それができるような人間だったなら、こんな所に追いやられていないだろう。
 途中で冒険者の一団とすれ違ったが、彼等は神聖魔法使いを見ていないという。すでに浄化された場所に、道を作っていただけだ、と。
(大きい……巨人族の末裔マグヌム? もしかして、『赤き陣風』かしら!? でも、有名なS級冒険者たちが引き返してくるなんて……)
 キャロルは酷く不安に思った。『赤き陣風』さえ引き返してくるような場所に、神聖魔法使いが一人でいるだろうか。そもそも、そんな場所に行って、自分たちは大丈夫なのだろうか、と。
「ちっ、森を抜けちまうぞ」
「アンデッドの気配が多いですよ。早めにキャンプを作って、日の出に合わせて探索しましょう」
「俺も賛成です。その方が楽できるでしょう」
 キャンプを作るといっているのに、切り株に座って何もしないバルツァーをよそに、キャロルはガウリーを手伝って野営の準備をした。これまでは町や村に宿が取れていたから、キャロルにとって、今回が初めての野営だった。
 気は昂っても体が疲れ切っていたキャロルは、ガウリーに早めに休ませてもらったが、朝になっても脚はパンパンだった。
 そして、悪夢のような廃村の探索が始まった。
 生き物の姿はなく、それまできちんと張られていた浄化範囲も柔く、もちろん、神聖魔法使いの姿もなかった。
 いまにも消えてしまいそうな浄化範囲を維持するべくキャロルはがんばったが、まったく手応えが無くてぞっとした。教えられたとおりに魔法を発動させているはずなのだが、先にかけられている浄化魔法に力負けしているような感じがするのだ。
 それはボーレアスも同じように感じていたらしく、一度森まで戻るべきだと進言して、殴られた。そしてキャロルも、ついでのように側頭部を殴り飛ばされた。あまりにも痛くてしばらく動けなかったが、自分を心配したガウリーまで暴力を振るわれて、必死で起き上がった。
 ボーレアスも逃げ出してしまい、もう嫌だと滲んだ涙がこぼれそうになった時、凄まじい叫び声が聞こえて、キャロルは尻餅をついてしまった。
「えっ……」
「シュリーカーだ! 立て。立つんだ!」
 ガウリーに腕を引っ張り上げられ、キャロルはよろめきながら立ち上がった。そこからは、もう必死過ぎて、あとになってもよく思い出せなかった。
 神殿騎士たちは、どんどん湧いてくるアンデッドや邪妖精たちを蹴散らしたが、やつらはそれ以上に押し寄せてきた。連れ戻されたボーレアスも、さっき死んでしまった。
 キャロルはガウリーの背中を見ながら、懸命に回復魔法を唱えていたが、ここで死ぬんだとぼんやりと悟っていた。だから、背後からかけられた温かな魔力に、腰が抜けそうになった。
 死にたくなければ使えと、希薄な気配から男の声がして、ガウリーが一緒ならばと、キャロルは渡されたスクロールを、発動の意思を込めて握りつぶした。はたして、古い礼拝堂に転移したキャロルは、同じく転移してきた満身創痍なガウリーと共に、しばらく動けなかった。
(助かった……助かった……!)
 生きていることが信じられなくて、ただただ溢れる涙を拭っていたら、きちんとした身なりの使用人らしい中年女性がやってきて、キャロルたちを村の母屋で休ませてくれた。簡単に衣服の埃を叩き、手や顔を洗って、振る舞われた温かな食事を腹の中に収めると、ようやく人心地が付いた。
「もうすぐ、お館様たちが戻ってまいりますからね」
 そのお館様が、ここの領主であるブランヴェリ公爵代行サルヴィアだとは、キャロルは彼を目の前にして初めて知ったし、姉に連れられて一度しか会ったことのない彼が自分を覚えていてくれたことも衝撃だった。
 サルヴィアはキャロルが受けた仕打ちに憤って慰めてくれたし、キャロルたちを直接助けてくれたリヒターは、なんでもないことのように神殿騎士たちがあの場で全員死んだことを教えてくれた。キャロルたちが生きていることを知っているのは、この場にいるわずかな人間だけだ、と。
「キャロルを咎めるような人は、ここにはおりませんわ。安心なさって」
「閣下……」
 熱を出して寝込んだキャロルを、サルヴィアは優しく撫でて労わってくれた。
 キャロルは知らなかったが、ガウリーは元々神殿騎士で、大隊長という立派な役職についていたらしい。神聖魔法使いのリヒターと、初めて難民キャンプに来た時にバルツァーたちを追い払ったジェリドという青年は、なんとかガウリーにはめられた隷属の首輪を外そうとしていた。
(わたくしは、なにをすればいいのでしょう)
 助けられたからには、どうやって生きていくのか、自分に何ができるのか。キャロルは自問しながら、この村に転移したときの礼拝堂に行って、ここがいままで信仰を捧げてきた女神アスヴァトルドではなく、水神リューズィーを祀った村だと知った。
(しかも、会えるんですの!?)
 実在を確かめるすべのない神であるが、アスヴァトルドと違って、リューズィーの眷属にならすぐ会えるという。これは、キャロルにとって、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
「吾輩ガかいぜるデアル。楽ニシテヨイゾ、きゃろる」
 立派な形の髭が、かえってチャーミングな印象になるしゃべるスライムに、キャロルは心を奪われた。
(なんて可愛いのでしょう! しかも、ダンジョンを自在に操れるのですね!?)
 リューズィーを信仰することで、ガウリーにもリヒターたちにも恩返しができる。このことは、キャロルがこれから生きていく道しるべになりそうだった。
「わたくしを、カイゼル様のおそばに仕えさせてくださいませ!」
「「「ハイ???」」」
 後世にまで伝えられるリューズィーの女神官は、こうして誕生したのだった。