幕間 ある幼児の食事事情


 ノアはむにゃむにゃと寝言を言いかけて、目を覚ました。美味しい夢を見ていた気がするが、いま目の前にご馳走はなく、かたわらには抜け殻になった温もりがあるだけ。
「んー……」
 リヒターは早起きだ。コッケが鳴く明け方から起き出して、畑に水をまいたり、薪割りをしていたりする。
 ノアもお腹が空いたので、くるまっていた布団からもぞもぞと抜け出し、柔らかな室内履きに足を突っ込んで、ベッドから降りた。
「たー。おは、よ……」
「おはよう、ノア。さあ、顔を洗いに行こう」
「ん」
 寝室のドアを開けると、ぱたぱたとやってきたリヒターが、両腕を伸ばしたノアを何も言わずに抱き上げてくれる。これが、ノアの一日を始める温かなスキンシップだった。

 ノアの中には、魔王ゼガルノアと呼ばれる者の意思が、たしかに存在していた。ただ、あまりに幼い肉体しか用意できなかったので、本来の『魔素とマナの交換器』という役割を優先するあまり、ほとんど表に出てくることはなかった。
 『永冥のダンジョン』に溢れる魔素を世界に還元し、ダンジョンの外にあるマナをダンジョンの中へと送り込む。それが、分身体ノアの、本来の役目だ。もちろん、人間が瘴気を浄化して、『永冥のダンジョン』の魔獣を片付けてくれることを期待しているから、いまは人間と行動を共にしていた。
 本体は本体で、ゼガルノアの居城を破壊せんとする不届きな存在を押しとどめるのに精いっぱいで、なかなか忙しくて大変なのだ。なにしろ奴は、魔素を喰いながら無尽蔵に増え続ける。このままでは、ゼガルノアが敬意を払うダンジョンマスターの部屋まで侵食されてしまう。それだけは食い止めねばならなかった。
(しかし、マナが必要なのに、いつの間にか瘴気が溢れているとは)
 そこがゼガルノアの誤算であり、おそらく、『永冥のダンジョン』を喰らわんとする存在が出現するきっかけでもあったのだろう。まったく、瘴気を溢れさせるなんて、地上の人間は何をやらかしたのやら……。
「むふふふっ、おいち!」
「そうだな、美味しいな」
「まぁっ、ありがとうございます」
 ここリューズィーの村では、食事は一番大きな建物でとることになっている。元は六人くらいの家族が住んでいたのだろう。建物の傷みが一番少なく、炊事場も充実していた。その関係で、最初はジェリドとロータスが住んでいたが、いまはエルマが住み込み、ジェリドの通いの仕事場になっていた。
 エルマは料理が上手い。この村は魔素が濃く、水も作物もノアの体に合ったが、人間の味覚や体質には少し合わないらしく、工夫を凝らした調理や味付けになっているらしい。
(まあ、我にはリヒターのマナとヴィアのポーションがあるからいいのだが)
 サルヴィアが作ったマナポーションは格別だが、リヒターが丹精込めて作った作物にも、リヒターのマナが宿っていた。
(しかし、変わった人間だな)
 最初に見つけた時から目を奪われたが、リヒターの魂の特異なこと、長く生きてきたゼガルノアでも初めて目にするものだった。もっとも、『永冥のダンジョン』から出たことなど、ほとんどないのだが、それでもこんな魂の形をしている人間には、会ったことがなかった。
(壊れかけの魂を、壊した魂で補うか。ふん、無様なうえに、在りようの根源を混ぜるなど悪趣味な。だが、それを必要だとした存在がいる、と? なぜだ?)
 通常、人間の魂は、ほんの少しの傷でその人間の生きざまを変えてしまうが、そもそも簡単に壊れるようなものではない。つまり、それだけの衝撃を加えられるほどのなにか・・・に遭っており、さらにはそれを良しとしない何者かが、神のような力を使って、在ること・・・・を放棄した魂で繋ぎ止めたのだ。
 いずれこの不格好な魂も、世界の輪廻に揉まれるうちに、綺麗なひとかたまりになるかもしれない。それでもいまはまだ、ほんの少しのきっかけで揺らいでしまうほど、か弱い存在だった。
(変わった人間と言えば……)
 リヒターの魂を構成する二つのうち一つ、在ることを放棄した方の魂は、こことは違う世界から呼び寄せられたものだが、サルヴィアとメロディという人間も、違う世界から呼び寄せられた魂を持っていた。
 たまにいるらしい、というのは知っている。実はゼガルノアも、異世界人の魂を持つ人間と会ったのは、初めてではない。ただ、世代がずれることが多いらしく、三人も一緒にいることがあるとは、思っていなかった。
 この三人が集まって話すことは、ゼガルノアに関することも含まれているが、異世界基準で話されるので、幼いノアの頭ではどうも理解が及ばず、聞いていても眠くなった。
(まあ、メロディは我に便利な道具を献上するからな。我もまた、何か下賜してやろう)
 時間停止機能付きのマジックバッグなんて、ダンジョンでも作られることが稀なレア品だし、瘴気を浄化する魔道具など、実に考えられた逸品だ。
「おはようございます、ノアくん」
「じぇー、おはよ!」
 わざわざノアに視線を合わせてから、にっこり笑って挨拶をするジェリドから取れた呪いの魔石も、なかなかの珍味と言えた。ジェリドのまったり濃厚な甘いマナと、嫉妬と憎悪で凝り固まった瘴気が溶けるシュワッと食感が、いい感じに大人の菓子を食べていると思わせてくれる。ただ残念なことに、今後の供給見込みがないので、ノアは大事に食べていた。
 リヒターが連れてきたジェリドは、まぎれもなくこの世界の人間だ。精霊に祝福され、常にマナをまとわりつかせているので、ノアとしても美味しい人間だ。リヒターによって呪いから解放され、生き生きと仕事をしている。サルヴィアやメロディと並んで、ノアが獲ってくるドロップ品の価値がわかる、優れた人間でもある。
 リヒターはノアが魔獣を倒したり、ドロップ品を拾ってきたりすることは褒めてくれるが、ドロップ品の貴重さや金銭的価値には、イマイチ鈍感なのだ。それよりも、ノアが怪我をしていないか、毎日健康かを気にする。魔王なのだから、そんなに気にすることはないのだけれど、ノアとしては、それはそれで気分が良い。
(我、大事にされているな。よいぞ、よいぞ)
 『永冥のダンジョン』にいるときは、部下にしてくれだの舎弟にしてくれだの、押し掛けてきては勝手に自称する配下がたくさんいた。ゼガルノアが強いせいなのだろうが、だからと言って、下々に配慮する必要を感じられない。もっと魔王らしい振る舞いを、などと言い出した奴をぶん投げてからは、少し静かになった。
 だがいまは、そんな面倒なことは言われず、三食とおやつ昼寝付きで、温かい服を着せてもらい、好きなだけ魔獣を狩って遊べて、しかもいっぱい褒めてもらえるし、怪我をしていないか病気になっていないかと労わってもらえている。
(我、ずっとノアのままでもいいかもしれん)
 たまに、そんなことを考えたりしなくもない。
「コケッ (ノア氏、主とお出掛け?)」
「うん」
「コッコッ、コッコッ (いってら。その間に、ジュエリーフロッグの巣を見つけとくわ)」
「きんけー、がんばえ」
「コケーッ (おまえもなー)」
 なぜか金鶏とはノリが合うというか、長年の親友のように気心の知れた仲だ。
(こいつとは、ゼガルノアに戻ってからも付き合いを続けたいものだ)
 友達という存在は大事だなと、うむうむと頷き納得するノアだった。

 リヒターと一緒に森の中を切り拓いていくのは、ノアにとって退屈だった。大きな魔獣は人間に譲らなくてはいけないし、面白いものを見つける金鶏もいない。エルマの美味しいご飯もないし、サルヴィアやジェリドが作ってくれる温かいお風呂もない。とても退屈だ。
 ただ、巨人族の末裔マグヌムという種族は興味深かった。過去に『永冥のダンジョン』にも来たかもしれないが、ゼガルノアは会ったことがなかった。
(古代種の流れをくむマナか。少しクセがあるが、食べ応えがあるし、なかなか乙な味だな)
 これもまた、少しばかり大人味な食べ物だった。ノアが食べるよりも、『永冥のダンジョン』に流した方がいいだろう。
 途中の川では、魚を捕まえてばかりいたが、たまに普通の魚じゃないものも捕まえていたらしく、人間達が悲鳴を上げていた。まあ、ノアは食べられればなんでもいいのだが。
 ノアにとって一番旨味がないのが、アンデッドだ。こいつはマナの代わりに瘴気を持っていて、魔素もあまり結晶化しない。しかも、ゼガルノアの攻撃魔法と、相性がよくない。本当に、いるだけ邪魔な存在だ。
 だから、そんなアンデッドがうようよいるだろう森の外に、たった二人で偵察に行くと言い出したリヒターには、正直反対したかった。戦わない、という前提だったので同行したが、たどり着いた先は、なかなか荒涼とした風景が広がっていた。
(魔獣すらおらんのだが?)
 領地の中心部の方がこんな状態だから、領地の端っこであるはずの北の森に、あれだけの魔獣が詰め込まれていたのかもしれない。
 久しぶりにエルマが作ったお弁当に舌鼓を打ち、村とその先の町を調査したあと、ノアはリヒターの背中でうとうとしていたが、なにやら聞き慣れない人間の声で目を覚ました。
(ふむ、リヒターを探しているという、神殿騎士か)
 さっさとってしまえばいいと思うのだが、リヒターは何か考えがあるのか、コソコソと様子を窺っている。乱雑に物が置かれた納屋の中で、珍しく人型になるほど成長したシュリーカーを見つけたのでけしかけてみたが、ちょっとやり過ぎてリヒターまでスタンしてしまった。
(すまん、リヒター)
 やはりリヒターの指示以外で動いても、よい結果にならないと、ノアは反省した。今度は言う通りに、アイテムの破壊と足止めだけを狙い、神殿騎士たちを行動不能にした。
 先に帰れと言われたので戻ったが、ノアは少し不安だった。もちろん、リヒターもすぐに追いかけて戻ってくることは、疑っていない。
(あの二人を助けなければ、一緒に帰ってきただろうに)
 多分リヒターは、見た目通りの清廉潔白な精神を持ち、平等で平和的な思考と慈愛に溢れた、まさに聖人のような人格者、ではない。もっとどろどろとした感情を持ち、望む結果に対して手段を択ばない冷徹さ、残酷さを持っていると、ゼガルノアは観察していた。そしてそれは、二つの魂に共通する、ある種の潔癖さによって、簡単に表に現れるだろうことも。
(だいたい、自ら壊れて他人と融合することを了承した魂が、正気と言えるはずがない)
 破滅願望とまではいわないが、「それで構わない」と言える虚無を抱えていたことは明らかであり、その原因に激しく拒否反応を示すことは、十分に考えられた。
 『大地の遺跡』の転移魔方陣の前で、ノアはじっと待っていた。そんなに長い時間ではない。それなのに、ひどく長い時間に感じられた。
 ふわっと魔法陣が光り、見慣れた細い長身が現れた時、ノアは思わず駆け出していた。
「たー!」
「ノア。フィラルド様のところに行っていていいって言っただろ」
 そうは言われても、こんなにひどい顔をしたリヒター保護者を、ノアは放っては置けない。
(こんなにマナが乱れているではないか!)
 これは美味しくない。明らかに二つの魂が歩調を乱し、軋みを上げている。
 むぎゅっと抱きついたノアを、リヒターは仕方なさそうに抱き上げ、それでも穏やかな微笑を浮かべてくれた。
「ごめんごめん、寂しかったな。さ、ちょっと忙しくなるぞ。ノア、まずは手を洗って、ご飯にしような」
「うん! ごはーん!」
(腹いっぱいに食べて休めば、きっとリヒターも回復するだろう)
 ゼガルノアには、人間の癒し方などわからない。だからせめて、一緒の食卓に着かせてやろうと思うのだ。