幕間 ある騎士が目撃した奇跡


 トマス・ボロードは、男爵家の次男として生まれ、騎士としてブランヴェリ公爵家に仕えて、二十年近くになる。
 元々は王国騎士団に所属していたが、幼馴染のマンソン子爵令息アーダルベルトがブランヴェリ公爵家に婿入りしていた縁で引き抜かれたのだ。いまは亡き、先代公爵ヘリオスにも重用され、婿同様に可愛がってもらった。
 なぜこんなにも身分が違うのに、とトマスも最初は戸惑ったが、ヘリオスは厳格な実力主義者で、一人娘の婿選びにも、政治的配慮よりも実務能力を重視したほどだ。もっとも、その一人娘が奔放すぎて家を潰しかねないので、浪費と不評を上回る、利益と実績を出せる伴侶が必要だったのだが。
 時は流れ、ブランヴェリ公爵家に悲劇が訪れる。
 冬のある夜、夜会からの帰道に、ヘリオスとアーダルベルトと、長男のロディアスが暗殺された。下手人はいまだに捕まっていないが、公爵家の子供たちには、黒幕がわかっているようだ。
 そして、次男ダニエル、三男フィラルド、四男マーティンを差し置いて、末子のサルヴィアが爵位を継いだ。これには兄たちの了承と推挙があり、また法律的にも問題がなかった。ただし、サルヴィアが王立高等学院を卒業してはじめて、公爵を名乗ること、それまでは国王預かりという条件になった。
 トマスは、それら一連の出来事を、そばで見続けてきた。
 サルヴィアは事情があって、学院に入学するまでは領地の屋敷で育てられており、主に王都を中心に任務をこなしていたトマスは、「おしゃまなサルヴィアお嬢様」のことは噂に聞いていても、初めて会ったのはかなり最近のことだ。だが、この新しい主人は、年齢に見合わぬ優れた見識と度胸を身に着けており、さらにはトマスたち家臣を信頼して、よく重用してくれた。
 サルヴィアからすれば、ほとんど会ったこともない大人を信用して、領民の生活を背負う業務に使うのは、かなり精神的な負担が大きいはずで、無理をしていないかと訊ねたことがあった。
「わたくしは駆け出しの公爵ですわよ? 未熟者もいいところ。皆に協力してもらわなければ、領地の運営どころか、今夜の寝床の準備も出来ませんのよ?」
 なにを当たり前のことを言うのかと、かなり呆れた目で見上げてきた、父や兄たちそっくりな黒髪の令嬢は、扇を広げてにっこりと微笑んだものだ。
「ですから、皆のことは、こき使わせていただきます。よろしくお願いしますわ」
 その年相応な悪戯っぽい微笑みを必ず護ると、トマスは亡くしてしまった幼馴染に誓った。

(それなのに……)
 突然の土砂降りの中で、ドレスが泥水に浸かるのも構わずに、サルヴィアはリヒターという若い農夫に取りすがって泣いていた。
「お願い、目を開けて! 目を開けて、リヒター!!」
 あたりにはポーションの空き瓶が転がり、侍女のエルマがおろおろとサルヴィアの肩を抱いている。
「あれは使うなって言ったじゃない! なんでこんな……!」
「お館様、失礼いたします」
「トマス……!」
 雨に濡れて重くまとわりつく黒髪の下で、化粧も落ちた顔がぐしゃぐしゃになっている。
 木の根元に上半身を預けるように横たわったリヒターは意識がなく、顔色も悪かったが、トマスが首筋や胸を確認すると、ちゃんと生きていた。
「生きています。濡れない所に運びましょう」
「……い、いきて……」
 へなへなと座り込んでしまったサルヴィアを部下とエルマに任せ、トマスは意外と筋肉質な青年を担ぎ上げた。怪我をしていたとしても、サルヴィアのポーションで治っているだろう。
(……)
 あの時、森の中を疾駆してきたのは、黒狼の群れだった。
 トマスは最前列で盾を構えていたが、どうも様子がおかしいと眉根を寄せた。それは冒険者たちも同じだったらしく、戸惑いの呟きが聞こえた。
「え?」
「なんで止まらねえんだ?」
 通常、黒狼たちは群れで狩りをする。逃げる者は追いかけ、立ち止まった者は取り囲んでから飛び掛かる。だが、いま向かってくる黒狼たちは、ほとんど狂乱の体で全力疾走しており、正面にいるトマスたちのことすら見えていないようだ。
「来るぞ!」
 最初の衝撃を受け止めるべくトマスたちは足を踏ん張ったが、その盾は意外な方向に押されてたたらを踏んでしまった。
「えぇっ!?」
 なんと黒狼たちは、盾や、鎧兜に覆われた頭や肩を足場にトマスたちを飛び越え、あるいは隊列を回り込んで、さっさと彼方へと逃げて行ったのだ。まるで、トマスたちを、ただの障害物だとしか思っていなかったかのように。
「……なんだったんだ?」
「さあ?」
 全員が首を傾げたが、とりあえず犠牲者が出なかったのは良かった。その辺の森に出現するただの黒狼も凶暴だが、瘴気に当てられた黒狼など、どれほど強くなっているのかわからない。
「先行しているお館様に追いつかなくては。行くぞ」
「はっ」
 隊列を整え、足早に出発したが、いくばくも行かないうちに、天から眩しい光が木々の間を貫いてきた。それは、陽の光を何十倍にもしたような強いものだった。
「眩し……っ!」
「な、なんだ!?」
 やがて、ばりばりばりどおぉぉんという、落雷のような音が響くと、あっという間に光が陰って、今度は暗い雨雲から大粒の雨が落ちてきたのだ。
 トマスたちは体が冷えないように急いでマントをかぶると、ぬかるんで滑りやすくなった足元に気をつけながらサルヴィアたちを追った。
 そして、先ほどの光景を目の当たりにしたのだ。
(一体、何があったのだ?)
 焦げた木々がなぎ倒され、地面がえぐれていたのは、サルヴィアが戦ったからだろう。
 サルヴィアは【民の守護者】という称号を得た、S級冒険者でもある。それがどのくらいの強さを表すのかといえば、今回同行している冒険者パーティー『鋼色の月』がパーティーでA級というランクで、つまりはそれ以上という事だ。スタンピードで溢れた大型魔獣を一匹相手取るのに、おおよそS級が一人は必要という目安もある。
(お館様一人でも、その辺の魔獣に後れを取ることはない。だが……)
 一緒にいた農夫たちに事情を聞けば、立ち現れたのはなんと上位アンデッドのリッチで、しかも荷馬車の列を護りながらの戦いという、まったく無理な状況だった。
 アンデッドの相手をするには、神官か聖騎士でなければ、通常の魔獣を相手にするときの三倍から五倍の兵力が必要と言われている。いくらサルヴィアが強くても、背後に足の遅い荷馬車の列を護りながら、上位アンデッドと戦って完全勝利は難しい。
「アンデッドに荷馬車を壊されて、サルヴィア様をかばったリヒターがやられて……そうしたら、コッケが鳴いたんだ」
「は?」
 なぜここに鶏が出てくるのかとトマスは目を瞬いたが、続いて聞かされたことには、正直言って馬鹿にされているのかと思ったほどだ。
(リヒターが飼っていたひよこが、巨大な鳥になってリッチを撃滅しただと?)
 それも、空を覆うほど大きい、白くて眩しいのと、薄茶色のがいたらしい。そして、特大の雷が落ちたのだと。リッチは雷に撃たれて、消滅したそうだ。
(雨雲もないのに落雷が?)
 しかし、眩しい光に続いてあった、落雷と思わしき轟音の後に、ひどい雨降りになった。それはトマスも体験した。
(話を聞いたら、余計にわからなくなった)
 白髪が混じり始めた頭をボリボリとかき回し、トマスはため息をついた。そんなバカげたことがあるか、もうちょっとマシなことを言えと叱り飛ばしたかったが、現実に、リッチは退治され、サルヴィアは無事だった。
 トマスは重みを訴える頭を上げて謹厳な騎士の表情に戻ると、騎士たちの簡易幕舎からサルヴィアの天幕に向かった。雨はだいぶ小降りになってきたが、まだやみそうにない。
「お館様、トマスです」
 どうぞ、という声を聞いて、トマスは出入り口の幕をめくった。
「失礼します」
 そこには、すっかり身なりを整えて椅子に座ったサルヴィアと、エルマ。そして、床に毛皮を敷いた上に、リヒターが寝かされていた。
 トマスは跪き、サルヴィアに頭を垂れた。
「この度は、私の判断の甘さにより、お館様を危険にさらしました。申し訳ございません」
 主の身辺を護る騎士として、務めを果たせ切れなかったのだから、厳罰が妥当である。だが、サルヴィアは緩く首を振って微笑んだ。
「仕方がないわ。ここは魔境ですもの。外とは勝手が違って当たり前よ」
「しかし……」
「わたくしだって、まさかリッチが一体で黒狼の群れを追い回しているなんて、思いもしなかったわ。トマスだってそうでしょ?」
 そう言われて、トマスも顎を引いた。
 リッチは荒れた古い墓場や遺跡などで、多くの下級アンデッドを従えて留まっているのが常だ。まさか、しもべも連れずに森の中をフラフラ飛び回っているなんて、トマスたちの常識の埒外だったのだ。
「ですが、瘴気が溢れている以上、いくら魔境の端とは言え、上位アンデッドが徘徊している可能性を考慮するべきでした」
「……」
 悲し気に目を伏せて黙ってしまうサルヴィアは、優しすぎる。ここは護衛責任者であるトマスに罰を与えるべきところなのに、自分の責任の方が大きいと思っているのだ。
「……この度の道行、もっと慎重になるべきでした。無理を押してでも、神官を連れてくるべきでした」
「ですが、彼がいたのでは」
 道中、リヒターの神聖魔法による瘴気の浄化は、非常にありがたいものだった。在野にこれほどの才能を持った者が隠れていたとは、とトマスは驚いたが、リヒターは物心つく前に養子に出されていたらしく、その出生に口をつぐみたい人間がいるのかもしれない。
「……連れてこなければよかった。わたくしが、楽ができると甘えたばっかりに……」
「お館様……」
 また悔しそうに目を真っ赤にして、サルヴィアは眠り続けるリヒターを見下ろした。
「お館様、リッチを退けたのは、彼のコッケだと……空を覆うほどの大きさになり、雷を落としたという話は、真でございますか?」
 こんなバカげた話を主に確認しなくてはいけない情けなさにトマスは言いよどんだが、サルヴィアはしっかりと頷いた。
「ええ。リヒターが持つアビリティの効果です。でも、これは言い訳ですが、わたくしは使うなと警告していたのです」
 サルヴィアの危機を救うために、リヒターはサルヴィアの警告を無視したのだろう。その結果が、この昏睡状態というわけだ。
「あのアビリティは、とても強力です。でも、対価に自分の……」
 それを聞いて、トマスはますます自責の念を濃くした。トマスが同じ能力を持っていたら、リヒターと同じく警告を無視するだろう。それは騎士として主を護る為であり、当然のことだ。
(だが、彼は違う)
 これ以上は連れて行けない、それはトマスと、おそらくサルヴィアも同じ気持ちだろう。だが同時に、彼がいなくてはサルヴィアの安全が脅かされる。
(これは参った)
 トマスは天幕に入る前よりも頭を抱えながら退出し、雲の切れ間を見上げた。
(奇跡なんて、起こすもんじゃない)
 修理中の荷馬車の方で、コッケコッケコーという甲高い鳴き声が上がっていた。