第一幕・第一話 若村長と謎天賦ギフト


 冷たい風に乗って雪山を越え、雲の切れ目をすりぬける。眼下に小川を挟んだ森を跨ぎ越し、ひとつふたつと力を込めて羽ばたけば、なだらかな農村地帯と、若草が揃い始めた牧草地が見える。
 高速で過ぎ去る地面では、馬や荷馬車のまわりに人間たちが集まって、大きな声を出していた。
 金色の丸い目で瞬きを繰り返すが、どうもイエネズミすら見当たらない。小川に戻って魚を探した方が良さそうだ。

 ピィィィィィ―――

 どこまでも抜けるような、青と白の空間を切り裂いて、猛禽の翼は力強く羽ばたいた。


 ぼんやりと目を開けると、視界はまだ霞がかかったようにおぼろげだった。しかし、男と数人の女がまわりにいて、驚いたように何事か話している。
「あぁ、リヒター! よかった!」
「目が覚めたか? 俺がわかるか!?」
「マートル様にお知らせしてきます!」
 顔も、体も、ひどく痛い。怪我をしているらしく、熱っぽい息が出る。体は横たえられているようだが、愛用の低反発マットレスが敷かれた俺のベッドじゃないのか、硬くて寝心地が……。
(ん? 低反発マットレス???)
 自分の思考に驚いて飛び起きかけたが、体が付いていかずに逆戻り。
「きゃぁ!」
「ってぇ……」
「おい、リヒター! 大丈夫なのか!?」
「……らい、ひょうぶ、な、もんか……ッ」
 体中がとてつもなく痛い。骨折でもしているんじゃないか? 口の中も怪我をしたらしく、顔も腫れている感じだし……あ、なんとなく思い出してきた。
「うぅ……」
「無理をするな。すぐロッシ先生に薬湯を作ってもらうからな。大人しく寝ていろ」
「ありがとう、ボルトン」
 喉が渇いてガラガラとした声で礼を言うと、親友の日に焼けた武骨な顔がほころんだ。
「リヒターを頼んだ。ロッシ先生を呼んでくる」
「わかったよ」
 部屋を出ていったボルトンの代わりに覗きこんできたのは、しわがたるみ始めたおばあさん。
「チェル?」
「もう、あんな無茶はしないでおくれ。どんなに……死んでしまうかと……」
「ごめん」
 涙を浮かべて震えるチェルに、俺は謝るしかできない。彼女は俺が小さい時から家に仕えていたから、泣かれると何も言えなくなる。
 額に乗っていた濡れ手ぬぐいを替えてもらい、俺は深く息を吐いた。硬いベッドに接している背中が痛い。背中も散々殴られて蹴られたからなぁ……。
「……みんなは、無事?」
「大丈夫。だれも殴られていないし、あれからフーバー家のボンボンも来ちゃいないよ」
「よかった……」
 安堵に胸が温かくなる。体を張った甲斐があったってもんだ。
 それからすぐにロッシ先生がやってきて、舌が腐るんじゃないかと思うほど苦い薬湯を飲まされた。俺が寝かされていたのは、ロッシ先生の診療所の奥だったらしい。それだけ、ヤバい状態だったってことだろう。
「まだしばらくは痛むだろうが、仕方あるまい。大人しくしておるんじゃな、向こう見ずめ」
「お世話をかけます」
 腕のいい薬師であるロッシ先生の薬湯なら、味はともかく、すぐに痛みが和らいでいく。俺がうとうととし始めると、静かに寝られるよう、一人にしてくれた。

(さて、どうしようか)
 夢うつつに、俺は記憶を手繰り寄せる。
 なんだって開幕痛い状態になっていたかというと、ここの領主であるフーバー侯爵の息子ティーターに、ボコボコに殴られたからだ。あいつは侯爵の息子たちの中でも、特に腕っぷしが強い代わりに、頭の中身がお粗末すぎた。特権階級の悪いところを凝縮したような性格だから、もちろん俺たち領民は人間扱いされないし、下手すると奴のお付きさえも、鞭で殴られるようなありさまだ。
(あれでまだ十二歳って言うんだから、恐れ入る……)
 子供だと思うなかれ。あいつ、二十歳過ぎている俺やボルトンくらいデケェんだ。 たぶん、百七十センチ以上ある。
 そんな図体から繰り出される打撃に、女子供が耐えられるわけがない。かろうじて顔立ちは悪くないが、よく肥えており、体重の乗った一撃は必殺級だ。オークと同じくらいの強さはあるんじゃないだろうか?
 現在、我が国は隣国と戦争中だが、貴族の四男なのにティーターが徴兵されなかったのは、年齢的な制限があるためで、腕力だけならその辺の大人よりもよっぽど強い。ただし、甘やかされた子供であるから、忍耐力も自制心も協調性もない。
(誰も死ななくてよかった……)
 軍需物資の接収だとお付きの騎士が言っていたが、その顔は苦々しかった。きっと「パパの役に立ちたい」とか言い出したバカ息子を宥めるために、仕方なくこの土地を回っていたのだろう。この辺りは肥沃なのか、毎年よく作物がとれるからな。
 荷馬車にどっさりと積まれたのは、残り少なくなってきた越冬用の麦やチーズ、酢漬けや乾燥させた備蓄野菜、塩漬け肉が詰まった樽。もちろんこれらは、租税にはカウントされない。それなのに、さらにコッケ山羊ヨークーまで持っていこうとしたので、まとめ役である俺が抵抗したんだ。
 いまこの村には、妊婦を含めて、幼子を抱える家が七軒もある。栄養のある卵や、母乳が出なかった時の為のミルクは不可欠だ。
 結局、俺を死にそうなほど殴ったのと、お付きがこれ以上は重くて屋敷に到着するのが遅くなると進言したことによって、ティーターは家畜の接収を諦めた。まあ、そのうちまた来る可能性もあるけどな。
(俺は……生まれ変わった、のか)
 たぶん、死にかけたせいで、前世を思い出したんだろう。ただ、前世の記憶はぼんやりとし過ぎて、自分の名前も住んでいた場所も思い出せない。日本人の大人の男だったと思うが、家族に関する記憶もなかった。
(好んでアウトドアに繰り出すタイプではなかったけど、かといってゲームとか読書とかも、たしなむ程度だったような……)
 特技も打ち込む趣味もない、平凡な仕事人間だったな。何の仕事していたんだったか……それすらも忘れてしまったようだ。たぶん、この辺は今世の記憶の方が強いせいかもしれない。ただそのおかげか、いまの俺の人格が揺らいだ気配はなく、周囲の人間に「急に性格が変わった」なんて不審がられることはなさそうだ。
 その現在の俺は、リヒターという名前だ。一応、この村の村長をしているが、前村長の養父が死んでしまったための、繰り上がりというだけで、別にえらくもなんともない。
 しかも、ここ地球じゃないっぽい。リヒターの記憶にある地名も歴史も馴染みがなければ、文明レベルが近代程度だ。おまけに魔法があるらしい。そういうの、前世の俺だって嫌いじゃなかった。
(これが噂の異世界転生か! でもさぁ、こういう展開のお約束って、高貴な家に生まれるとかじゃないの? たしかにうちは、飢饉さえなければ食うに困らない家だけど、爵位持ちじゃないし)
 そういう『お話』では、ゲームみたいに自分のステータスが見えるって……あれ?

リヒター(24)
レベル:10
職業 :農民
天賦 :【聖者の献身】
称号 :【若村長】

能力 :【空間収納】【幸運】【女神の加護】【身代わりの奇跡】
特技 :農作Lv5、牧畜Lv3、果樹栽培Lv1、回復魔法Lv1

「ちょっとまてぇぇぇ……ィッ」
 思わず叫びそうになって、怪我の痛さに悶絶した。
天賦ギフト:【聖者の献身】ってなにっ!?!?!?!? 聖者って、職業とか称号とかにあるもんじゃないの!?!?!?!?)
 ほら、聖女さまって、干ばつの時に雨を降らせたり、不治の病を治してくれたりとか、そういうすごい力を持っていて、国に大事にされる人ってイメージ? で、俺の【聖者】って?
(わからん!)
 自分の目の前に浮かぶステータス画面っぽいのをいくら睨んでも、指先で触れようとしても、それ以上の詳しい説明は出てこない。せめてHPとMPくらい表示されろ。
 俺は「ステータスオープン」、なんて言っていない。ただ、ステータスを開くための、ゲームコントローラーのボタンを押すイメージがあっただけだ。タブ移動ボタンを押すイメージをして……うん、パラメーター画面に変わったぞ。
「……あれ、待てよ」
 このユーザーインターフェースに、俺は見覚えがあった。褐色のフレームと、藍色の影の出る黒い文字。ちょっと高級感があるというか、フォーマルで格式高い雰囲気だ。極めつけは、このパラメーター。

武勇 :10  統率:38  政治力:25
知略 :30  魅力:70  忠誠心:10

(これ、『ラヴィエンデ・ヒストリア』じゃないか?)
 前世で一時期ハマった、ストラテジーゲームだ。いわゆる、陣取り戦略ゲーといえばいいだろうか。なんとかの野望とか、なんとかの覇者とか、そういう雰囲気のシミュレーションゲームだ。
 広大なラヴィエンデ大陸で覇を競うストーリーで、大学生の頃に新作が出るからと友達に薦められて、二、三年くらい、どっぷりのめり込んだことがある。
 だけど、リヒターという名前の覇者や人材には覚えがない。俺が忘れているだけだろうか。前世の記憶があやふやすぎて、自信がない。数字でひとくくりにされていた兵士にも、こんなステータスがあったのだろうか? それにしては、俺の【聖者の献身】は見たことが無いし、特異だと思うんだが……。
「……俺は、いったい……」
 どうすればいいんだろう?


 与えられし謎天賦【聖者の献身】とは何だろうと考え続けて寝落ちした翌日、何とか体を起こせるようになった昼過ぎに、妹が俺を訪ねてきた。
「リヒター兄さん!!」
「マートル……心配をかけた」
 ぶんぶんと頭を振るたびに、クルミ色の豊かな髪が躍る。町の大きな商家へ嫁いだマートルは、際立った美人というわけではないけれど、愛嬌のある可愛い顔だと思う。それなのに涙でボロボロにしてしまって、これでは兄貴失格だ。
「こんなに……ひどい……!」
「あぁ、泣かないでくれ。大丈夫だから」
 マートルは、俺の養父の孫娘だ。年が近いから俺を兄と呼ぶだけで、俺たちに血のつながりはない。
「ティーターに殺されかけたって聞いて、私……っ、本当にっ……!」
 ベッドに縋りついてシーツを握りしめるマートルは、肩を震わせて唇を力いっぱいひん曲げて、まだ泣いている。顎が梅干しになってるぞ。あぁ、俺はまだ死んでないんだから、そんなに泣かないでくれ。
「ごめんよ。心配をかけて悪かった。ほら、ちゃんと生きてるから大丈夫だよ」
「生きていればそれでいいわけじゃないんだからぁ!! リヒターに何かあったら、おじいちゃんに顔向けできないわ!!」
「えー……」
 俺の妹、過保護かよ。
 なんとかマートルを宥めて、涙を拭かせる。妹を泣かせた俺の方が、死んだ養父父さんに怒鳴られそうだからな。
「ぐずっ。はい、お見舞い。ランディからの手紙もあるわ」
「ありがとう! いい香りだな」
 差し入れはオレージの皮の砂糖漬けを混ぜたパンだった。柑橘系の爽やかな香りがする、贅沢な甘いお菓子だ。ちなみに、マートルは料理ができない。家の料理人に作らせたんだろう。
 ランディはマートルの旦那さんだ。まだ若いけど、とても優秀で、実家の商売を手伝っている。そのランディからの手紙とは……。
(はぁー、けっこうヤバいんだな)
 戦況報告、というより、フーバー侯爵軍の状況だ。ランディなら商人のネットワークがあるから、貴族の情報統制をかいくぐって確実性の高い情報を手に入れることができる。農村地帯には、そういう情報がほとんど入ってこないから、俺はとても助かっている。
 戦争自体は我が国が優勢で、そろそろ終戦も見えてきているらしいが、うちの領主である侯爵さまの軍が戦功をあげていないどころか、拠点をひとつ奪われる程負けたので、戦後、王家からの扱いが悪くなりそうだ。ということは、税がさらに増えるってことだ! なんで俺たちが、あの役立たず侯爵の尻拭いをしてやらなきゃならんのだ。あー、腹立つな!!
「リヒター?」
「あぁ……、なんでもない。ランディにも礼を言っておいてくれ。いつも助かる」
 不機嫌が顔に出てしまったらしく、俺は慌ててマートルに微笑んだ。
「わかった。ズタボロリヒターがそう言ってた、って伝えるわ」
「ズタボロはやめてくれ……」
 十二歳児にボコられた兄さんだけど、少しは格好つけさせてくれ。