朧月夜 T


斜陽の都ヴェネツィア。

相変わらずの激務に、疲労困憊した体を引きずりながら、アルヴィーゼ・オルセオロは自宅へ向かっていた。
フランスとの戦争は避けられたものの、トルコとの関係も中途半端なまま。
その状態を作り出した、優柔不断なメンバーとの仕事なのだ。かつての嵐のような日々ほどではないにしろ、頭痛の種は尽きない。

しばらく自宅にも帰れず、今日になってようやく帰れると連絡はしていたが・・・すでに夜中だ。
瀟洒な屋敷街は寝静まり、ぼんやりとした満月の明かりだけが、アルヴィーゼの足元に影を落している。

元首補佐官という重役のせいで、すっかり生活時間が不規則になってしまったオルセオロ家の当主は、妹をはじめ、家の者には先に休むよう厳命していた。
自分のことには責任をもてるが、自分に付き合わせて、妹や使用人に体調を崩されては困る。
静かに自宅の扉を閉め、明かりの消えた真っ暗な屋敷の中を自室へと向かう。

「おかえりなさいませ、アルヴィーゼ様」

自室の扉を開けたまま、アルヴィーゼは固まった。
アルヴィーゼの趣味に合わせた、落ち着きのある調度品に囲まれ、窓からの月光を背にした人物が、艶やかに微笑んでいた。

「なっ・・・なぜお前がここにいる!?」
「なぜと言われましても・・・フフ、なぜでしょうね。私は神出鬼没なので」

呆然としたままのアルヴィーゼは、優雅な所作で部屋に引っ張り込まれた。

「また痩せられたのではないですか?働きすぎですよ」
「要らぬ世話だ。放せ」

眉間にしわを寄せたアルヴィーゼを、彼・・・ジュリアン・クラレンスは、少し名残惜しそうに放し、代わりに扉を静かに閉めた。

「こっちに帰ってくるなら、連絡ぐらい入れたらどうだ」
「ええ、それは後悔しましたよ。貴方ときたら、相変わらず仕事人間で・・・」

居場所を突き止めるだけでも一苦労です、と呆れたような苦笑が返ってくる。諜報員のようなことをしていたジュリアンには、アルヴィーゼを捕まえることなど造作もないであろうに。

「ヴィットーリアには?」
「お会いしましたよ。まさか、私がこの窓から不法侵入したとでも思っていらっしゃるのではないでしょうね?」
「お前ならやりかねん」
「フフフ・・・失礼な人ですね」

母親に似た豊かな黒髪、白皙の美貌、エメラルドのような瞳、優雅な仕草に、甘い声・・・。
貴族の夫人から下働きの娘に至るまで、フランスの女性達に絶大な人気を誇るのも頷ける。

父親が同じではあるものの、オルセオロ家の兄妹とは似ていない弟。
かつてその身に半分だけ流れる血を憎み、オルセオロ家を、ヴェネツィアを、破滅へ導こうとした男は、全てが片付いた後、いずこかへ去っていたはずだが・・・。

「よく戻ってきてくれた。ヴィットーリアも、さぞ喜んだだろう」
「ええ。ただ・・・戻ってきたというわけではないのです。今回は、ちょっと仕事で」
「そうか」

あれからだいぶ時がたち、ほとぼりも冷めたとアルヴィーゼは思う。
しかし、事件の根底で蠢動していたジュリアンは、この街で姿を見せるのを用心するべきだと思っているのだろうか。
それとも、まだ血の宿縁に囚われたままなのか・・・。

「アルヴィーゼ様、ご結婚する予定などありませんか?」
「・・・は?」

唐突な質問内容に、アルヴィーゼは外套を脱ぎかけた手を止めた。

「結婚?誰とだ?」
「元首補佐官ともあろう方が、お相手の心当たりもないのですか?たまには女性とお茶のひとつもなさったらどうです」
「お前と一緒にするな。私は・・・そういうのは苦手だ」
「よく存じ上げていますよ」

マルセイユの邸宅での乱痴気騒ぎを思い出し、アルヴィーゼはげんなりとした。
今のところ仕事が忙しくて、自分の縁談などに構っている暇はない。
妹への縁談になら、喜んで話は聞くのだが、当のヴィットーリアが乗り気ではないので、成功したためしはない。妹には幸せになってもらいたいのだが・・・。

「そうですか。恨まれそうな相手がいなくて、助かります」
「何の話だ?」
「計略や騙し合いは、私の得意とするところではありますが・・・。もう恨んだり恨まれたりするのには、いい加減疲れました」

逃げる隙も、理解する思考も与えられなかった。
柔らかな唇の感触と、かすかな香水の香り。
優しげな微笑とは裏腹に力強く自由を奪われて、アルヴィーゼは頭の中が真っ白になって混乱すると同時に、わけもわからず頬が上気するのを感じた。

「な・・・な・・・!」
「お疲れとはいえ・・・無防備すぎです」

ろくに抵抗できないまま、ゴブラン織りが張られた高価なカウチに押し倒され、アルヴィーゼはさらに狼狽する。

「なんの・・・つもりだ!?」
「自分に素直になっただけです。・・・それとも、まだ私のことがお嫌いですか?」
「そんなわけない・・・が、ちょっと待っ・・・」
「待てません」

再び唇を奪われ、アルヴィーゼは眩暈がした。

(なんでこんなに上手いんだ、コイツは!)

悔しがるわけではないが、その手の経験に関して、弟とは天と地ほどの差があると自覚している。
自国の内政、外交、防衛と、仕事に忙殺されてばかりいる自分を押し倒しているのは、かつて「宮廷の寵児」ともてはやされた、パリ社交界の華だ。

「お疲れの貴方を怒らせるような、鬼畜な所業はいたしません。今夜のところは、ですが」

 いたずらっぽい囁きが、甘く甘くアルヴィーゼの耳をくすぐる。

「ですが、私の気持ちは、受け取っていただきたいのです。貴方がお帰りになるのを、ずっと待っていたのですよ?」